第38話 彼女はヒトです
ノック。
応答がないのでさらにノック。
2003号室の扉を繰り返して叩いても返事はない。
部屋の隅でじっと動かず、巣穴は空っぽです! の振りをしている子ぎつねである。
「未恋愛者だけどこれは僕でも分かるね、放っておいて欲しいの合図だ、早めに食堂行って順番待ちしよう」
「まあいいわ、出てきたくなったら出てくる……ああ、それはいいんじゃない」
先に食堂に行って待ってます アスタ
購買で入手したノートの1枚を破り取ってメッセージを書いた。二つに折って扉と床の隙間に滑らせ、半分くらいを奥に押し込んだ。
もし彼女のスマホが充電0パーセントでなくてメッセージを受信できたとしても今は出てこない。綺麗な箱は私の居室に二つあるのでイワウは充電器持ってない。
リビングの通路際で待っているベルに向かって手を振ると、すぐに彼は振り返して見せた。私たち3人が戻るのをじっと待ってから緩く両腕を組んで、
「リーダーの不在は私が引き起こした問題です。このままリビングで待っていた方がよろしいですか?」
ユニットの今後について食堂で話そうと誘うとベルが応じた。
4人が大階段を降りはじめる――
片手を沿わす手すりはすべすべと触り心地がいい。
幼いイワウの姿をした幻影が現れる。両手両足でしがみつく体勢、階下に向けて勢いよく滑り降りて驚く顔が小さくなってゆく。最後に手すりが水平になったところで止まったら、すごく楽しいねえ、と言いたそうにして手すりにぶら下がる。着地したら階段を昇りはじめ、私たちの隙間を身をよじってうまく通り抜けた。かすかな期待がよぎる。
振り返って見上げる2階にイワウの姿はなかった。
誰もいないリビングの脇、幼いイワウの幻影が背伸びして手すりにまた登ろうとしている。手が届かずに困ってちらっとこちらに視線を向けた。
――窮屈なのはいいよ。
――でも消えるのはこわいねえ。
ブナの香りがする。
2003号室にもきっと漂っている。
いつの間にか手すりを諦めた幼いイワウは、リビングから手を振ってから居室の方に走り去ろうとする。
――来世の国ってのはどんなだろうねえ。
――道にいつも水たまりがあるかもねえ。
誰か彼女を来世に連れて行ってくれ!
届かぬ願いである。
でも果たせるとしたら?
役目を果たすのは私しかいないのか――
**
サバの生姜煮、ひじきの煮物、味噌汁、ごはん大
シーチキンの肉じゃが、フルーツヨーグルト、味噌汁、ごはん大
照り焼きチキンサンド、胡麻たっぷりサラダ、味噌汁、ごはん大
「ねえあなた、パンとご飯を一緒に食べる人? ……うるさいわねえ、私は朝しっかり食べる派だからいいの」
火狩と千早が選んだメニューに互いに文句を言い合っている。
伝統的な和食メニューを選んだベルと私が隣合って座った。
朝はやっぱり魚が身体にやさしいと思わない? へえあの肉じゃがって魚なの?
へえ、焼いたものが全部乗った大皿――英国風朝食というのを後で御意見ポストに新メニュー希望にチェック入れて投稿しておこう。
「じゃあ……、ああ、先にはじめよう、料理が冷める前に……では」
「「「「いただきます」」」」
● 魂を運ぶのは聖王一人で可能であること
● イワウが日本人として暮らしてもよいこと
さっき行った宣言に加えて、イワウが日本人として暮らしたければ、希望に沿うように協力して欲しいと願った。既に公民となった二人は助けてくれるだろう、主にベルに向かって言うが多分、
「将来は英国に住んでも構わないわけですか……望めば? はい分かりました」
快諾を得た。
「アスタ、あなた、魔法の呪文を忘れないで訓練するの分かってるんだよね?」
――あなたと一緒にいたい、ずっと一緒にいたい、他の誰にも渡したくない。
胸のうちで唱えると、今まで抱いていた気持ちとは別の何かが浮かび上がってくる。
10年前からずっと一緒にいて、当然すぎて一緒にいたいという気持ちがよく理解できずにいた気がする。影を自分から切り離すことができないように、自分の棺を他の誰かには渡しようがない。いまいち分かっていなかったことがようやく分かりかけている。
彼女が私を信じすぎているように、私も彼女を信じすぎていたのだ。
冷たい風が吹いて光を帯びる夜霧が流れて消える。月がまぶしい。
イワウは今はヒトである――
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