第36話 お姫様だっこです
共有リビングに入る。
夜明け前、まだ外は薄暗い。
誰もいないと思った窓際で、人影がこちらを振り向く。
「早いわね、ちゃんと寝たの?」
イワウがいてくれるのを期待していたことに私は気付く。
「人の顔見てがっかりするのは失礼じゃない? まあいいけど」
窓際のソファに座って私は待つことにした。
イワウの様子を確かめたい。いつもと変わりなければいい……私は彼女の言いそうなことを想像してみた。
――壁を叩きすぎるとあれだね、手が痛いね。
――今朝のメニューにあるかなあ、スコーン。
――コンビニはないけどデカルトたちは公民になってくれると思う?
やがて誰かが歩いて来る。いつもと同じということはないようにも思えた。
――棺になるのはやっぱり大変なことだね。
――金魚の国って来世の国の中にあったりしない?
――泡になって消えたら私たちはどうなるんだろう。
「おはようアスタ! 千早! どうしたんだ早いね、おー、天気いいわあ、雲が全然見えない、ほらあっちに星がまだ……あれ、二人ともどうしたの?」
朝から陽気な火狩は、呆れた顔の私たちを見ながら、お腹が空いたのでキッチンの冷蔵庫を見に来たと言った。
「おはようございます、みなさん」
ずっしりとした人影が現れ、力強い声を発した。
4人は窓際のソファにそれぞれ座る
やがて通路から軽い足音が聞こえる――
ブレザーの大きい襟の空いたところには、胸元のシャツが際立っているはずだが、今はどちらも見えない。腰から膝まで垂れる、整った折り目が優美な濃紺のスカートもやっぱりほとんど見えない。
――マントを羽織っているからである。
かぶった頭巾を彼女は取った。
夜の海に漂いながら見る月もこんなふうに銀色に輝いている。
編まれて太い一本になった長い髪は頭の上をぐるっと沿っている。さらに上の空に近く、闇を代表するかのように頭上でスマホの黒い画面が存在感を放っている。
「おはよう」
彼女は短い挨拶をした。
月と闇は同時に現れて、どちらが主役かを明らかにしない。
よく眠れたようには見えない彼女に、私が声を掛ける前に、
「2人は公民になってくれたけど、ベル、あなたはどう?」
じっくり考えていた言葉を発した、という感じでイワウはベルに問いかけた。
「答える前に、質問をしてよろしいですか? ……はい、ありがとうございます、公国の公民の方々を来世の国へ、火狩さんを金魚の国へ、そして千早さんをむらさきの国へ運ぶつもりですか?」
「そうだ、それが私たちの役目だ!」驚いたイワウが叫ぶ。
「私が公民になれば、千早さんの次に運ぶことになりますか?」
「何が言いたい?」ベルを睨むイワウ。
「では、私の次に公民になった誰かを私の次に運ぶことになりますか?」
「そうだ! 何が言いたい?」イワウが再び叫ぶ。
――そうか。
「イワウ……」
呼びかけても彼女はこちらを見ない。
横顔の頬が朱く染まってから次第に青ざめてゆく。
彼女の青い瞳が不安の色を湛えて光る。
次第に大きくなってゆく光を留めきれない。
食いしばって耐えようとする顔を彼女は頭巾で隠した。
「……私たちは役目を果たす」
頭巾をかぶった顔を私に向けて彼女は言った。
感情を隠して声は震えを抑えている。
――私は一歩近づいて。
海をわたる長い旅で火狩のように冗談を言って笑わせることができる。
むらさきの国が青くなるまでの盛り上がりを話して聞かせることができる。
棺になって感じる窮屈を私はどうにか軽くすることができる。でも……
「イワウ……私たちは泡になって消える」
変えられないこと――役目を続けて先延ばしにしても結末は変わらない。
変えることのできない私たちの未来だ。
びくっとして固まったイワウの肩に手を伸ばしたベルが、もう一方の腕で両脚を掬うように彼女を抱き上げる。
「なんだ! 何をする! 離せ!」
急に捕まえられて頭巾の中から怒声を発するイワウ。
暴れるイワウを抑えるとこともなく、彼女の好きにさせるがベルの両腕と広い胸の間にはさまれて逃れることできそうにもない。
穏やかな低い声が響く。
「その結末の前提は正しいですか? あなたは聖棺ですか? こんなに軽いのに?」
「うるさい! だまれ!」
「イワウさん、あなたはこんなに可愛いのに?」
「だまれ! 離せ!」
「イワウさん、あなたはこんなに柔らかいのに?」
「この! 手を! このおっ!」
「棺じゃない、あなたはヒトですよ」
イワウは抵抗を止めた――
私はそれを見るしかできない――
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