第34話 本物のユーリンチー
「ありがとう、でももう辞めたからさっきのが最後、……そううんありがとう」
私たちが本日のメニューを選ぶ間も絶えず人が集まってきて千早に声を掛ける。
後戻りしないことを彼女はにこやかに伝えた。
今まで気づかれなかったのが不思議だ、実際に公演を観たという者もいるし、そうでなくてもみんな千早の別名――演じる時の名を知っていた。
聞くと、さっき千早が演じたのは、幼馴染の恋の成就を見届けた少女が育った町を捨てて仕事を探しにゆく場面だそうだ。
闇と孤独の二人と踊りながら見知らぬ地へ向かうことは、悲しいのか、嬉しいのか、寂しいのかよく分からない。叶うなら一度は千早の舞台を観たかったが機会はもうない。
恋とは何だっただろう? 私にはまだ理解の及ばないものがある。
火狩や私を未恋愛者とけなす彼女は確かに何かをよく知っている。
言うとおりに――言われなくてもやるけど、訓練を続けることには意味があるように思えた。
過去について千早は何も隠してない、ただ言わなかっただけだと説明した。
誰かに問われることもなかったらしい。
ベルはなぜ気付いた? ――王立劇場での公演は連日通いましたし、声ですぐ分かりました。
「聖王様ぁ、これユーリンチー? 鶏の揚げ物に見えるけどユーリンチーって書いてあるけど?」
「鶏のから揚げに見えるね……へえ、本物のユーリンチーはこういうのなんだって」
「じゃあ前に食べた白身魚のやつは偽物か? すごく美味しかったけど……タレはユーリンチーっぽいな」
イワウは本物のユーリンチーを選択した。中華風玉子スープ、ご飯大、季節のタルト。
私は、三種のコロッケと切り干し大根、味噌汁、ご飯大、季節のジェラートに決めた。
「舞台でもう観ることができないのは残念です」
みんなが千早に掛けるのと似たようなことをベルも言った。
彼が低い声で言うと本当に惜しいという気持ちが高まる。
むらさきの国の物語は楽しかったが、千早が歌い出した時は驚いた。
だが、彼女はもう歌うことはないと言う。粛然と決断はなされている。
悲しいのか、嬉しいのか、寂しいのか、千早の気持ちは私にはまだ分かっていない。
チハヤと竜のルリカラはどこへ向かうのか? 物語の行き先を書いてる本人すら分からないと明言している。むらさきの国は青くなるのか?
期待より不安が圧勝した。
まだ次々と来て声を掛ける者たちへ対応しながら千早は料理をとっている。
麻婆豆腐と、高野豆腐の煮物、豆腐のパンナコッタを選んだ。
その選択は多分間違っているんじゃない?
「適当に選んだら変な組み合わせになっちゃった……くれるの? いいわ、ありがとう」
火狩が無言で季節のタルトを差し出して、代わりに豆腐のパンナコッタをとった。
公国人同士のやり取りだ――うち一人は聖符をやり取りしていないから正式ではない。でも、闇と孤独と腕を組んで踊りながら進む彼女の決断を止めることはできない気がしてならない。チハヤは竜を恐れない、こわいものってあるんですか?
眼の前の二人の魂を私たちが担っている、正直つらい。
準備が整ったって? あ、ごめん。では……、
「「「「「いただきます」」」」」
行き先に思いを巡らせながら私は夕食をとった。
三種のコロッケ? 箸で二つに割ってみれば中身が分かる。
じゃあ、むらさきの国は?
海を探せばあるか? 大陸の真ん中にも存在しないだろう。
私たちはどこへ向かおうとしているのか?
**
食後のラウンジ。
火狩の胸にいつもある油性ペンが手渡される。
小村千早
ゆっくりと丁寧に、整った文字で名が記された。
「イワウとアスタ、じゃあ頼んだわ、私をむらさきの国へ」
託された聖符は、3千4百と9枚になった――
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