第31話 男湯で何してるの
ガラァァぁ
誰も来ないはずの浴場の引き戸が音を立てて開け放たれた。
驚いた私は壁に添えていた手を咄嗟に離して入口を振り向く。
まだ床にしゃがんでいる火狩は動揺を抑えきれず高ぶった声で、
「え、なんで? 男子浴場だぞここ、おい! なんなんだよ!」
問いかける間にもぺたぺたとタイルの床を素足で踏んで近づいてくる。
うろたえる私たちは後退ったがすぐに逃げ場を失う。
火狩の濡れた肩先が私の脚のスウェットに当たる。
水の張った桶のふちを両手で握ったままの彼が私を見上げて眼が合った。
わずかに頷き合って立ち向かうことを決めた時――
「あなたたちなんで浴場で訓練してるの? 居室でって言ったよね、100回唱えた?」
「ねえ、訓練ってなあに?」
「二人の帰りが遅いので戻ってきました」
残した作業があったかもしれない、と確かめにきたベルが女子たちと合流し、掃除中の案内看板をそのままにして3人とも中に入ってきたそうだ。
「大変ならみんなでやって早く済ませようー、って更衣室に入ったら素敵な台詞が中から聞こえたからしばらく様子を窺ってたけど……」
小村千早が言って、浴場出入口にちらっと視線をやった。
引き戸の建て付けが悪く、締めようとしても半開きになって困っていた……まさか。
「火狩は風呂桶に叫んでるし、アスタはいつまでも唱えないし……面白かったけど。あなたたちなんで男湯で訓練するの? 基礎がなってないのに勝手に別の段階に進まないでよ」
「ねえ、訓練ってなあに?」
「二人の帰りが遅いので戻ってきたのですが……」
作業が残っているという推測は誤りだったようです、と言いたげなベルは大きな身体をわずかにすぼめた。
男子浴場にユニットメンバー5人が揃う――
「ナルシスト? あなたの顔は嫌いじゃないけど」
「違う! 僕は……そうじゃない!」
金魚のことを小村千早に説明するのを火狩がためらううち、
「ああ、火狩は聖王様の言葉を真似してただけだよ。公民は私たちの言うことをひと言も漏らさずよく聞いてて、私たちがいないときにそれを繰り返し思い出したり、真似をして言ったりするものだよ」知らない? という顔。
「イワウ、あなた何の話をしてるの? なんでアスタの真似するの?」
「聖王様を信じて敬う気持ちから自然にそうなる」自慢げに言うイワウ。
「よく分からなくなってきたわあ、火狩の恋の相手はアスタなの?」
「違う! 僕は……そうじゃない?」
はっきりと否定された直後に、あいまいになる火狩の言葉。
彼の死後の魂は私が担っている。
「多分、火狩は聖王様じゃなくてわたしの言葉も真似している、さっきは聞こえなかったけど」
「へえ、例えばどんな?」
――わたしはイワウ・サンクタイッド、これで日本人ごっこは終わりだ、とか
――心配しないでいいよ、わたしたちががちゃんと連れてゆくから、とか
――ホイル焼きはおいしいねえ、しめじで味に深みがでてるねえ、とかだねきっと
「へえ、それはイワウが火狩に言った台詞? へえ、急に面白くなってきたわあ、火狩! 今の台詞をどれか一人で唱えた?」
「…………」
床の桶を握ったまま苦しげな表情をして彼は黙り込む。
公民になることを迷いながら、どれかを口に出したのかもしれない、一つ目か二つ目を。
「火狩の恋の呪文の相手はイワウなの?」
「違う? 僕は……? そうじゃない?」
火狩の答えはひどくあいまいになった。
彼の死後の魂はイワウが担っている。
「揺れる思い、なるほどね、火狩あなたはやっぱり1日100回唱えなさい、そして自分の気持ちをはっきり確かめなさい」
改めて訓練を命じられた火狩はうなだれて水面を見つめる。
彼の眼にはきっと桶に入れられたばかりの小魚が泳ぐのが見えている。
「ねえ? あなたはなぜ唱えなかったの? 唱えようとしてたんでしょ?」
急にぶつけられた質問への回答を思案するうち、
「聖王様が前に言ってたやつか、そうだね、もういっぺん言ってもいいし、繰り返してもいいことだね」
イワウを前にして、私は胸のうちで呪文を確かめた。
――あなたと一緒にいたい、ずっと一緒にいたい、他の誰にも渡したくない。
さっき唱えられなかった言葉だ。
不安を押し固めると決意の形になった。私は伝える。
「……イワウ、火狩はちゃんと連れてゆく。どうやって辿り着くのか分からないけど生きている間に探そう、たぶん私たちの精いっぱいだよ」
さっと頬が朱く染まってから次第に青ざめてゆくイワウ。
口をぱくぱくと小魚のように動かすがまだ声を発さない。
「あなたたち何の話をしてるの? 魔法の呪文と全然違うんですけど」
「二人は来世の国のことを話しているのではないでしょうか?」
小村千早とベル・ネイファストが先に声を上げた――
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