第30話 男湯で訓練です

「試しにここでやってみるか?」


 三人で手早く風呂掃除を終えてベルが先に居室に去った浴場。

 大きな壁――構造上、向こうは女子浴場のはずだが強固で分厚い壁が防音性を保っているから安心して呪文を唱えたらいい、と火狩は提案した。


 男子浴場の扉の前には掃除中の案内看板が置いたまま。

 浴場には今私たちしかいない。


 訓練には自分なりの意味がある。だから小村千早に言われなくても続けるつもりだった。

 でも結局、役目を担った私たちに恋と呼ぶものが生じることは……ない。

 日本人ごっこはもう終わったのだ。


 唱えるのを傍で見ている、火狩の方は気になるよ、と彼に伝えた。


 亡くした金魚を悔やむ気持ちは、これから別のものに変わるかもしれない。

 彼には恋のようなものがあってもいいんじゃないか?

 ふとした瞬間、整った顔立ちや身体に見とれることがある。

 心の優しさを私は知っている。彼にはきっとふさわしい相手がいるだろう。


 ん待てよ、その場合、魂の行き先は金魚の国で合ってるか?

 他の公民と同じ来世の国にしてくれないかなあ、などと思案するうち、


「あなたと一緒にいたい! ずっと一緒にいたい! 他の誰にも渡したくない!」


 さっきの風呂掃除の最中、操作するレバーを誤って頭から水を被った彼の髪はまだ濡れて、指でかき上げられた形のまま保っている。

 しゃがんでタイルの床においた桶に水を満たしてから、水鏡に映る自分の顔に話しかける体勢で彼は叫ぶように唱えた。


「あなたとぉ……」


 真剣な表情に掛ける言葉が浮かばないまま、もう一度繰り返される呪文。


「最初に家に持って帰って来た時には、風呂桶に入れてた、水槽が届くまでの数日かな、まだこのくらいだったよ」


 火狩はこちらを振り向いてから桶に視線を戻し、片手を入れた水中で人差し指と親指が合わさりそうでわずかに隙間を空けた形にした。

 

 火狩が言っているのは金魚だ――

 

 夏になると日本では祭りが催される。

 大きな桶に入った金魚を、子どもたちは脆い紙を使って掬う。奥深い意味がありそうだ。だが、祭りから持ち帰られた金魚は疲れて弱っており、多くがすぐに死んでしまうらしい。


 彼が両膝を曲げて屈み、まだ風呂桶を見つめる姿を隣で立って眺めている。

 濡れた髪から垂れた滴が丸い水面に波をつくった。

 

 ――火狩の金魚はよく生きて寿命を全うしたと思うよ?

 ――恋するにふさわしい相手が誰かいるんじゃない?

 

 風呂でうずくまる彼を見ていると、どちらも伝えることができずに私は黙ったままでいる。

 

「次はアスタの番だな……」


 いつもの笑顔が私を見上げる。

 見てもらって気持ちが落ち着いたよ、という明るい表情。

 

 昨夜だって私は真剣にやったつもりだった。が、火狩の唱えるのを見ると心構えが違う気もした。

 

 ぴちょーん


 どこかで緩んだ蛇口から垂れた滴りが鳴る。


 風呂掃除の作業で火照った身体はいったんは冷えていたが今は緊張で熱い。

 壁の向こう、掃除は終わってるはずだが……。

 壁に耳を当てて何か聞こえないか確かめる遊びをする姿が思い浮かんだ、本当にまだいるかもしれない。


 イワウと――

 

 私たち二人で連れてゆくんだ。

 公民たちを来世の国へ、火狩を金魚の国へ。

 

 ――泡になるのはもう何ともない。

 

 でも消えるのは役目を果たした後だ。

 やったー、と嬉しくて泡になっても消えてもきっと分かんないよ。

 海を漂っていればそのうち来世の国までは行けるのかもしれない。

 根拠はないがそんな気がしていた。

 でも、金魚の国は? 

 

 火狩の視線を背中に感じる。

 聖符はもう私たちに託されている。


 でも彼の魂を運び方を私たちは知らない。


 鶴来火狩


 油性ペンで彼の名は記された。

 イワウは多分、受け取った聖符を丁寧に何かで包んで旅行鞄にしまっている。

 ビニール袋かもしれない。

 

 果たそうと思ってできる役目か? 

 来世の国より先に金魚の国に向かった方がいい……できるか? 

 途中で迷えば他の公民も犠牲になる。

 過去の王や棺も知らない。運び方を知っている者は世界中どこにもいない。

 

 それでも私は聖王だ。役目を担っている。


 結局、私は呪文を言うことができなかった――

 


  **


(火狩のメモ・公民と公国人の違い)


 公民――聖王と聖棺に魂を運ばれる民。 

  ex. 私は金魚の国へゆく公民です。


 公国人――アーシュ公国の者、公民に聖王と聖棺が加わったもの。

  ex. 日本には公国人が3人います。

 

 ※ アスタとイワウを含むかどうかがポイント!

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