夜に雪を見に行く。
東雲佑
夜に雪を見に行く。
市内のインターチェンジから乗って、北に向かう進路にハンドルを切る。
夜の高速道路には静けさが横たわっていた。
カーナビの時計表示は22時23分を示している。帰宅ラッシュも過ぎたこの時間帯の交通量は、想像していた以上にまばらだった。
「どうしてライトを暗くするの?」
ヘッドライトをハイビームからロービームに切り替えた僕に、助手席の彼女がそう質問した。
ペーパードライバーならではの疑問だと、そう思った。
「向こうからこっちに車が来るだろ?」
左手一本にハンドルを預けて、右手で進行方向を指さしながら僕は解説する。
「うん。ライトが見える。まだ遠くて小さいけど」
「高速だからすぐに近づくよ。お互いに時速百キロとかで接近してるわけだし。それで、さっきの上向きの明るいライトにしたままだと、近くまで来た時に向こうの車の人が眩しいだろ?」
ドライバーのマナーってやつだよ。
若干得意になってそう解説すると、彼女はもうそれ以上僕に構わず、黙ってラジオの音量を少しだけ下げた。
FM放送は全国ネットの番組を流している。ロックバンドのメンバーがMCを務める音楽バラエティで、ボーカルが飼い犬の話をしていた。
会話は再び途切れた。彼女は黙り、僕も黙る。
犬とフリスビーの話題が、空気のように車内を流れていく。
*
彼女と付き合い初めて、じきに一年になろうとしていた。
交際のきっかけはありきたりなものだったし、共有する時間の過ごし方にも特筆すべきものはないと思う。多分、おそらく。
だから、今日のような突発的かつ特別な行動は、普段はまず取らない。
二十一時を少し出た頃だった。ゴールデンタイムのテレビを見たあとで、夜食めいたものが欲しくなって僕からコンビニに誘った。
部屋着にジャンパーを羽織った最低限の格好で我々は部屋を出た。
家から最寄りのコンビニまでは信号二つ、車で五分ほどの距離だった。
入店から十分足らずで買い物を済ませた僕たちは、ホットの飲み物を手に駐車場の車に戻った。
星が綺麗な夜だった。
「天気がいいね」と彼女が言った。「雲一つないとはこのことよ」
「冬は空気が澄んでるからね」
それから、彼女がはぁーっと息を吐いた。
十二月の大気は冴えたように冷えて感じられたけれど、しかし体感ほどには気温は低くないらしく、息は白くならない。
「この冬も雪は降らないかな」
「降らないだろうね」
県北の山間部ともなればともかく、このあたりの平野部ではほとんど雪は降らない。積もるほどの降雪ともなれば五年に一度あるかないかだ。
僕がそう答えると、彼女はちょっとだけ残念そうに「そっかぁ」と言った。
それから。
「雪が見たいね」
そう言った。
その言葉が、心のどこかに尾を引いて響いた。
車に乗って、シートベルトを締める。徐行の速度で発進して、コンビニの駐車場から出る。
道路に出たあとも、彼女の言葉は心にあり続けた。
だからだろう。
二つ目の信号で、僕は家路とは逆方向にウィンカーを出した。
少し驚いたように、彼女が「あれ?」と言う。
僕はなにも言わなかった。
なにを言うべきなのか、なんと言うべきなのか、見当もつかなかった。
*
夜の高速道路を走る。
別に関越トンネルを越えなくても、県境近くまで行けば目的は果たせるはずだった。
そこまで行けば、もうどっちに目を向けても白い景色が広がっているはずだ。
時速百キロで夜の中を走りながら、俺はいったい何をしているのだろう、と僕は思った。
雪が見たいねと、彼女はたしかにそう言った。だけど別に、彼女は僕にそう頼んだわけではない。
なんとなく言ってみただけという感じで、それはささやかな願いですらなかったかもしれない。
しかしそれでも、我々はこうして夜の高速道路を走っている。
彼女の願望未満の言葉を叶えるために。
その目的を、彼女に明かすこともせずに。
時間の経過とともに、だんだん不安になってくる。
こんなのはとびきりありきたりな男性的自己満足じゃないか。そんな自己嫌悪が忍び寄ってきた。
今時サプライズなんて、流行らないだろう。
何度か引き返そうかとも思った。しかし優柔不断に迷っているうちに、ひとつ、またひとつとインターチェンジを通り過ぎてしまった。
そのようにして、僕たちを乗せた車は北に向かって走る。
車を止めたのは、赤城高原のサービスエリアでだった。
昼間は賑わっている県下有数のサービスエリアも、やはりこの時間は閑散としている。県内地鶏の料理が自慢のレストランも、フードコートの各店舗も、営業時間を終了してシャッターを下ろしている。
二十四時間営業は自動販売機のコーナーだけだった。
カップ式の自動販売機で、僕はカフェオレを、彼女はコーンポタージュをそれぞれ選んだ。ボタンを押すとカップが降りてきて、目の前で購入した飲み物が作られる。
「こういうタイプの自販機もたまにはいいね」
湯気の立つカップを取り出しながら彼女は言った。
「街中にあるのは缶ジュースのばっかりだもん。こういうの、最近はショッピングモールとかにも置いてないし。それこそサービスエリアだけかもね、今でもお目にかかれるのは」
絶滅危惧種だ、と彼女は冗談めかして言った。僕は曖昧に頷いて返事をした。
夜のサービスエリアの自販機コーナーで備え付けのベンチに並んで腰掛けて、僕たちはホットの飲み物を飲む。
そのとき、ふと、いまさらのように疑問を抱いた。
どうして、彼女は行き先を聞かないのだろう?
僕は彼女に目的を告げずにここまで来た。なにか否定的な意見や感想を返されるのが怖くて、きっとそれで言おうにも言い出せなかったのだ。
しかし、それを彼女が僕に問わないのはなぜだろう。『どこに行くの?』と、そう一言質問することさえしないのは。
カフェオレのカップから顔をあげて、僕は彼女を見た。
その瞬間、二つの視線が出会った。
僕が顔をあげる前から、彼女はずっと僕を見ていた。すべてを織り込み済みの、僕をまるごと見透かしたような目で。
僕は、そこでようやく気づいた。
「夜のサービスエリアって、雰囲気いいね」
彼女はそう言って微笑んだ。
彼女の目が、その笑顔が、「わかってるから」と言っているような気がした。
全部わかっているからと。どこに行こうとしているのかも、なにをしに行くのかも、それに――。
「ねぇ、カフェオレ、ちょっとだけ飲んでいい?」と彼女が言った。「コンポタも飲んでいいから。一口ずつ交換しよう」
僕たちはお互いのカップを交換した。
彼女は僕のカフェオレをすすり、それから、はぁっと息を吐いた。
真っ白な息が夜の空気にたなびいた。
その白さが、僕にはひどく美しく感じられた。
先に進む不安は残らず払拭されていた。
もう少しで、この突発的な旅の目的は達成される。僕たちは夜の底で雪景色の中に立つだろう。
だけど、そこにはさほど大きな感動はないはずだ。
あとから思い出した時に素晴らしく感じられるのは、たとえば高速道路上の静けさだったり、たとえば人のいない夜のサービスエリアの独特の雰囲気だったり、それに、すぐに消えてしまった温かく白い息のことだったり――きっと、そういうことだ。
雪になんて、たいした価値はない。そんなのはただの氷の結晶に過ぎない。
でも、だけど。
この夜には、間違いなく一生に残すべきなんらかの価値がある。
この人と結婚したいと、夫婦になりたいと。
たぶんはじめて、僕ははっきりとそう願っていた。
いつかまた二人で、夜に雪を見に行くために。
/了
夜に雪を見に行く。 東雲佑 @tasuku_shinonome
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