第25話 不老不死と不連続




 リンナの私室の扉を開けると、真っ暗な空間が広がっている。壁のスイッチに触れれば、すぐに天井の照明が点灯した。

 ふらふらと書斎の中央へ歩みでると、椅子を引いて腰掛ける。


 そうして、呆然と、ずっと壁のコルクボードを見上げていた。


 大きな地図の四隅がピンで留められ、いくつもの印が記されている。地図上に貼り付けられた紙片に走り書きひとつ――高度な技術をもつ呪術師の急増。


(リンナの筆跡だ)

 ノートを握る手に、また力がこもる。

 ノートのもっとも新しいページには、リンナが記した伝言が残されていた。独房の中に置いた机にあったものである。



 忘れないで――と、まるで彫り込むように強い筆跡で、リンナが語る。

 忘れられる訳がない。アルラスは深く項垂れた。

(……俺が、殺したのに)


 手の中に残る反動が、どれだけ擦っても消えてなくならないのだ。

 手の下で崩れてゆく灰が、風に攫われて見えなくなった彼女の肉体が、目に焼き付いて離れない。




 身じろぎひとつできぬままに壁を見上げて、どれほど経っただろう。近くの廊下では、柱時計の音が規則的に響き続けている。風向きのせいか、細く開けられた窓から、時計台の鐘の音が入り込んできた。


 星空に鐘の音がひとつ吸い込まれた頃、「父さん」と弱々しい声を発して、ロガスが扉を押して入ってきた。アルラスは振り返らずに「ああ」とだけ答える。

 父と呼ばれるのは随分と久しぶりのことだった。


 ロガスはしばらく、何も言わずに戸口のところに立っていた。何も言わないが、何度も口を開こうとしては声が出ず、逡巡している気配だけが佇んでいる。


 アルラスは聞こえよがしに息を吐くと、顔だけで振り返った。ロガスは小さな少年のように不安げで情けない顔をしていた。

「もう何回も言っているが、お前に非はない」

 強い口調で断言すると、ロガスは一拍おいて「しかし」とだけ呟いた。それきり黙りこくって、ため息をつく。


「もう三日は何も食べていません。せめてスープの一杯だけでも……」

「いらない」

「転移装置の予約の都合で、ヘレックは明日の昼前にはここを発ちます。彼が最後に作ってくれた夕飯ですよ」

「……あとで頂くから、残しておいてくれ」


 アルラスは吐き捨てて、ふたたび眼前の地図を見上げた。

 ああでもないこうでもないと、口元に人差し指をあてて考え込むリンナの姿が浮かび上がる。

 こちらを振り返って、リンナが笑う。


 幻覚を振り払うように、アルラスは首を横に振った。

「ヘレックの容態は大丈夫なのか」

「今朝目覚めました。昼過ぎに医師にも診ていただきましたが、異常はないとのことです」

 そうか、と頷いて目を伏せる。



 机の木目を、指先でなぞった。ここの模様が犬に見えるだの、あの雲がお布団に見えるだのと、いちいち他愛もない話をする女だった。


 机の角を撫でながら、アルラスは何気なく呟いた。

「リピテの雇用契約も、あと半年程度だろう。それが過ぎたら、お前もここを離れると良い」

 ロガスがたじろぐ。「なにを」と呟いた息子を横目で一瞥して、アルラスは口元だけでほほえんだ。


「次の人間を雇うのはやめにする。この城も、王家の管理する遺跡のひとつに加えよう。お前も、長男夫妻に家に来ないかと誘われているんだろう。そろそろ隠居して、体がきくうちに孫と遊んでやったらどうだ」

 ロガスの眼差しに悲憤がよぎった。

「それで、あなたは一人で生きていくおつもりですか」

「ああ」

「周りを遠ざけて、ご自分の心に嘘をつき続けていくのですか」

「うん」

 父さん、とロガスはまた声を震わせた。しかし、それ以上言葉が見つからないらしい。


 項垂れたまま、アルラスは静かに告げた。

「……呪術について、もっと調べようと思う。俺は呪術が使えないが、なにかの糸口になるかもしれない」


 次の私で、と前妻の冷たい手が頬に触れる。リンナは彼女の代わりではない。もし同じ姿をした女がふたたび目の前に現れたとしても、それはリンナではない。

 しかし、また同じ顔をした女を見つけたとしたら、彼女が呪術を使えるはずだ。

 そうでなくとも、必ずいつか、研究を継ぐ者がいる。

 自分には悠久の時間がある。


「リンナがいたから、俺に呪術のことを色々教えてくれたから、……それを無駄にしたくない」

 俯いた拍子に、枯れ果てたはずの涙がぽろりと一粒また転げ落ちた。


 少なくともリンナは、自分がただ悲嘆に暮れて次の百年を過ごすより、その時間で呪術が進歩することを喜ぶはずだ。

 ロガスは「はい」と小さな声で答えた。

「今後のことは、考えさせてください」

 そう言って彼が部屋を辞して、アルラスはただ一人、リンナの部屋に取り残された。



 こんな部屋が増えていくのだ。

 思い出で溢れかえって、片付けることもできないまま時間に取り残された空間である。

(宝物と呼ぶには、どうしても苦すぎる)

 それでも、なかったことにはできないのだ。したくない。


 リンナ、とまた呼んで、彼女が遺していったノートを撫でた。少し青みがかったインクの筆跡を眺め下ろしながら、アルラスはふと目を眇めた。

(そういえば、ペンはどこにある?)

 がたりと音を立てて立ち上がっていた。


 彼女の体が崩れ落ちて消滅したのち、その場に残されていた衣服や所持品は、いまは地下牢で保管されている。

(あの中に、万年筆はあったか?)

 あまりのことに動転して、遺品はまだ整理できていない。が、リンナが愛用していた万年筆を遺品に含めて保管した記憶はない。

(独房の机にも、なかった)

 咄嗟に目の前の机へ手を伸ばし、すべての引き出しを検めるが、ペンはない。


(万年筆はどこへ消えた?)


 アルラスは身を翻して、廊下へ続く扉を睨みつけた。体が火照っているのに、額や背からは脂汗が吹き出し、指先は氷のように冷えていた。

 机に片手をついたまま、横の窓を見やる。時計台が、欠けた月と隣り合っている。


「待て」と、小さく呟いた。


 馬鹿な希望を持つな、と胸の内で必死に言い聞かせる。

 リンナは死んだのだ。彼女はもういない。

 自分で撃ったじゃないか。目の前で確認したじゃないか。彼女が絶命して、その体が髪の毛一本残さずに消えるのを見届けたじゃないか。


 リンナは死んだのだ。時計を見てみろ、もうじき丸三日経つじゃないか。


 消えたものは万年筆だけではない。

(リンナと同じ顔をした侵入者は、いったいどこへ消えた?)


 まさか――唇が動く。

 自分があのとき殺したのは、リンナではな












 ぷつりと、思考が途切れた。




 鐘が鳴る。からりとした夏の夜に、時計台の鐘が響き渡る。

 ふたたび鐘が鳴る。午前二時だ。あのときと同じ。


 ああ、あの瞬間からもう、三日も……





 アルラスは呆然と中空を見上げた。

(……『あの瞬間』って、何だ?)



 ***


 ヘレックが猛然とキーボードを叩くのを、リピテは制御室の隅で膝を抱えて眺めていた。

 ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、何度も『あの瞬間』を反芻する。


 リピテははっきりとその現場を見てはいない。

 画面越しに、それも端に僅かに映り込んでいたから、何が起きたのかは実際には定かでない。


 リピテが見たのは、拳銃を構えたアルラスの背中と、そのあとに彼が走り出して画面から消えるところだけだ。そのあとに、リンナが死んだと聞かされた。


 状況とアルラスの絶望ぶりからして、あの瞬間、銃口を向けられていたのがリンナだったのだろう。


(どうして? どうして奥方様はいきなり行方不明になって、おなじ顔をした人が夜中に現れて、どうして旦那様は……)


 この城がなにか訳ありなのは、雇用条件を見たときから何となく分かっていた。

 でもあまり深く考えてこなかった。だってアルラスもロガスも本当に優しくて、同僚のヘレックも良い人だし、気にすることは何もないって思っていたのだ。



 震える体を両腕で抱き締めながら、リピテはそっとヘレックを窺う。

 ヘレックは真剣な表情で、モニタを睨みつけていた。


「僕が倒れたのが玄関。侵入者はそのまま中央通路へ移動。その後、旦那様の指示で封鎖した通路が……ええと」

「これです」

 当時のメモを差し出すと、ヘレックが小さく頷いてモニタの表示を切り替えた。


「なにをしているんですか……?」

「侵入者の経路を追っているんだよ」

 録画映像を早回しで確認しているヘレックの後ろ姿を見ているうちに、泣き疲れた頭がようやく正気を取り戻してくる。リピテはのろのろと立ち上がると、ヘレックの背後に立った。


「ヘレックさん、呪いにかかって倒れていたんですよね? 目覚めたばかりなのに、大丈夫なんですか」

「ぜんぜん不調はないんだよね、二日間寝ていて飲まず食わずでも、空腹はなかったし……。それより今はこっちだよ」

 この通路には来ていない、こちらでもないと言いながら、ヘレックが城の見取り図に印をつけてゆく。



 制御室の時計を見れば、もう日付が変わってからしばらく経つ。が、ヘレックが手を緩める様子はなかった。

「旦那様の気が変わらないかぎり、僕は明日にはこの城を離れる」

「あ……」

 思わず声を漏らすと、ヘレックがちらりと振り返って口の端で笑った。


「契約が満期になってしまったら、僕はもうこの城に出入りできないし、城にいる人と接触することもできないからね」

 思わず、胸の前で拳を握りしめる。いやだ、と言いたかった。


 この城で、沈みきったアルラスと気力を失ったロガスと三人で生活するのか?

 また侵入者が来るかも分からない。そうしたらまた、この前みたいに、一人で対処するの?


 こわい、と飛び出しかけた言葉を飲み込んだ。ヘレックの両目が柔和に細められ、それから彼は力強く告げた。


「僕がこの城を出るまでの、あと数時間。時間が許すかぎり究明しようよ」


 あの晩に何があったのか、知りたくない?

 問いかけに一度おおきく頷いて、リピテは手の甲で目元を拭った。




 ***


 悪い夢をみていた。形にならないが、とにかく酷く恐ろしいものに追われて、逃げようとするのに足がちっとも回らない、閉塞感のある夢だった。


 激しく扉を叩かれて、ロガスは浅い眠りから覚めた。

 跳ね起きれば、窓の外はまだまだ朝ぼらけである。こんな時間になにが、と目を擦る。家令の朝は早いが、これは早すぎる。


「ロガスさんっ、起きて! 起きてください!」

 何度も呼んでいるのはリピテの声だった。ヘレックの声も聞こえる。


 すわ緊急事態かと寝間着のまま飛び出せば、昨夜とおなじ服装の二人が息を切らして立っていた。目の下には濃い隈があり、疲れ果てた様子である。

 けれどその目はらんらんと輝き、拳を握りしめてこちらを見上げる顔は明るい。


「ねえロガスさん聞いて、奥方様は死んでいないんです!」


 一瞬にして眠気が覚めた。ロガスは呆然とリピテを見下ろし、それから傍らのヘレックに視線を動かした。「リピテちゃんの言う通りです」とヘレックが力強く首肯する。


「あの晩の、城内の定点カメラの映像を確認しました。奥方様は、裏の厩舎から森を通って脱出したようです。確認してきましたが、本当に馬が一頭いなくなっています」

 上擦った声でヘレックが言う。ロガスは訳が分からずに二人を見比べる。


「しかし、私はこの目で奥方様が亡くなるのを、」

「奥方様は、あの晩、レイテーク城にふたりいたんです。正確に言うと、奥方様の姿を模した偽物が、侵入者として入ってきたの」

「で……では、本物の奥方様というのは、どこから出てきたというんです」

「たぶん、奥方様はこの城の中にいたんです。僕たちが行方不明だと思っている間、ずっと、この城のどこか――僕たちの知らない場所に」


 あの夜の映像を確認していると、ある時間帯から、二箇所で同時にリンナの姿をした女が移動するのが確認できた。ヘレックの言葉に、ロガスは開いた口が塞がらなかった。


 膝から力が抜けて、慌てて戸口の枠を掴む。ロガスは喘ぐように息を吸うと、目を輝かせている若人ふたりを見上げた。掠れた声を絞り出す。

「それでは、旦那様が殺めたのは、奥方様ではなく、」

「奥方様を模した偽物だと、思います」

 リピテが強い口調で告げた。


「奥方様の死後、その体は崩れて跡形も残らなかったって、言ってましたよね」

 フラッシュバックする銃声を聞きながら、「ええ、はい」とやっとの思いで頷く。


「そんなの、どう考えたって普通の人間じゃないです! なにか分かんないけど……妙な化け物みたいな、魔物みたいな……そういう何かなんじゃないですか?」


 リピテが力づけようとしてくれているのが痛いほど分かって、ロガスは息を詰まらせた。


 アルラスが引き金を引く寸前、彼女はロガスのすぐ後ろにいたのである。リンナと同じ顔だが、どこか異なる面立ちをした少女だった。

「やっぱり、あれは奥方様ではなかったんですね」

 小さく応えたロガスに、リピテが安堵したように表情をゆるめる。


「この件に関して旦那様に報告したいんですが、お部屋におられないみたいで……どちらにいらっしゃるか分かりますか?」

 ヘレックの言葉に頷きながら、ロガスは頭の片隅で思い返していた。


 彼女が撃たれる間際、もっとも近くにいたロガスだけが聞いた一言。

『いやだ』『こわい』と、小さな少女が漏らした、最期のことばである。



 ***


 人の気配に、アルラスははっと目を覚ました。頭上から降り注ぐ朝日に瞬きをして、頭を振る。

 椅子に深く腰かけ、壁のコルクボードを見やって眉をひそめる。……自分はどうしてこんなところにいる? ここはどこだ?

「旦那様!」

 ロガスの声に振り返りながら、彼はすっかり当惑していた。


「聞いてください、奥方様はあの晩、死んでいないかもしれないんです」


 立ち上がりながら、アルラスは「何だと?」と呟いた。ロガスが一歩前に出る。

「つまり――」

「ま、待て。待ちなさい」

 続けかけたロガスを遮り、アルラスは息子の顔をまじまじと観察した。


 ……ふざけているのか? にしたって、意図が読めない。


「何を言っているんだ」

 アルラスは叱りつけるように言うと、ロガスに歩み寄った。白い光が背後から射して、床に長い影を落とす。


 ロガスは憔悴しきった顔で、けれど決然とこちらを見つめている。部屋の外では、リピテとヘレックがこちらを覗き込んでいた。


 一体何があったというのだ。三人して、俺を担ごうとしているのか?



 アルラスは両手を挙げて、大袈裟にため息をついた。

「訳が分からないことを言うんじゃない――だいたい、俺に妻なんていないだろう」




 息を飲んだのは誰だったろう。氷に大きなひびが入るように、その場の空気が決定的に強ばったのが分かった。

 その原因がさっぱり分からず、アルラスはますます混乱して三人の顔を凝視した。


「そ……それじゃ、この部屋は誰の部屋だと思うんですか?」

 リピテが、震える声で問う。アルラスは腰に手を当てて部屋をぐるりと見回した。明るい角部屋は、このレイテーク城でも一等地である。


「ここは、もともと叔母が使っていた部屋なんだ。趣味の良い人だったからな、あそこの棚なんて特注品だから、長持ちする良い品だぞ」

 笑顔で答えたのに、リピテは怯えたように一歩下がった。


「でも、そこの机は、奥方様が来たときに搬入したもので」

 ヘレックが指をさす。アルラスは壁を向いて設置された机や棚、壁のコルクボードを一瞥した。ああ、この机は……。


 一瞬、目の前がくらりとぼやけた。しかし、それもほんの瞬きひとつ分のことである。アルラスは肩を竦めて答えた。

「これは、俺が使っている机じゃないか。この部屋は、俺が最近になって書斎として使うようになって」


 と、そこで、異様な雰囲気に勘づいて口を噤む。ロガスの両目が眼窩で揺れている。父さん、とその唇が動く。




 朝から汗ばむような、天気の良い夏の日である。

 空は抜けるように青く、真っ白な雲が綿のようにふっくらと転々としていて、窓から見下ろせる庭には大輪の花々がはつらつと咲いていて、


 何ひとつ欠けたところのない、完璧な夏の日だ。非の打ち所のない、気持ちの良い朝じゃないか。


 それなのに、ロガスの眼差しはまるで責めるみたいな、怯えたような、険しい色をしている。「旦那様」と、喉に引っかかった声で彼が言う。


「エディリンナというお名前に、覚えはありますか」



 アルラスは棒立ちになったまま、すっかり途方に暮れた。

 そよそよとした風を頬に受けながら、ロガスの顔を見て真意を探る。

 はやく、冗談だと言ってくれないか。三人で示し合わせて、訳の分からないことを言って担ぎ上げようとしたのだと、種明かしをしてくれないのか。


 けれど、誰も笑い出さない。手を叩いて雰囲気を変える者はいない。

 こうなると、自分が悪いことをしたような気分になってくる。何もない壁を見つめてみたりするが、ロガスたちから明るい声は飛び出してこない。


 ……どうやっても思い出せず、アルラスは正直に答えるしかなかった。

「知らない。エディリンナなんて、聞いたこともない」



 森から響く蝉の声を、どこか遠くに聞いていた。

「……それは、何の名前だ?」


 遠くで自分を呼ぶ声が、蝉時雨にかき消されて聞こえない。違う、そんな声は存在しないのだ。


 浮かびかけた断片も、明るい陽射しのなかに飲まれて消える。

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死なずの公爵閣下に捧ぐ、偽装結婚と死の呪い 冬至 春化 @Toji1222

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