第24話 死なないあなたのための


 床の血溜まりを見下ろして、アルラスは舌打ちをした。血のついた足跡から窺うに、致命傷ではなさそうだ。


「リンナのところか」

 

 塔から飛び降りたときの血の味が、まだ舌の上に残っていた。庭に向かって唾を吐くと、アルラスは再び銃を構えて歩き出した。



 ***


「すみません、時間がかかりました」

「良いわ、私もこうした機構の操作は全然わからないの」

 この城のシステムは、リンナの知る魔道具の域を超えている。

 拘束具が外れた椅子から立ち上がり、リンナは緩慢な仕草で伸びをした。


 監禁されていた数ヶ月の間も、地下に誰もいない間は拘束具なしで過ごしていた。

 食事が運ばれてくるときなどは、自ら独房の中心で拘束具を嵌めねばならなかったのだ。


(……どう考えたって人の扱いじゃないわ)

 手首に残った擦傷を見下ろしながら、リンナは伸びた髪を梳る。



「エディリンナ、出られますか。早くしないと銃を持った男が来ます」

「少し待って」

 急かしてくる23番をいなして、リンナは独房内に置かれた机へ歩み寄った。使い慣れたペンを手に取る。


 閣下、と呼びかけの言葉を書いて、リンナはそれを二重線で消した。

『アルラス』と、手に馴染まない文字列を記す。


『死の呪いを作るために、ここを離れさせていただきます』

 早く、と23番が声を大きくする。


『必ず、一年以内に戻ってきます』

 書きながら、リンナは苦く笑った。

(なにせ、一年以上顔を合わせないと閣下は私のこと忘れちゃうからなぁ……)


 笑って目を閉じれば、アルラスの顔がまぶたの裏に浮かぶ。それも良いのかな、と心の端で思った。

 自分で牢屋に入れたくせに、彼はずっと苦しそうな顔をしていた。

 いっそリンナのことを丸っきり忘れてしまえば、彼は救われるのではないか?


(でも私、閣下に忘れられたくない)

 私はあの人を幸せにしたい。

 でもここにいても、私は死の呪いに辿り着けるか分からない。彼を救える気がしない。

(私は、目的のためなら手段を選びたくない)


 檻の外で待っている23番を見据えて、リンナは唇を引き結んだ。



『だから、忘れないで』


 23番は厳しい表情でこちらを見ている。これ以上の長居は難しそうだ。

『私はあなたを救いたいんです』


 それだけ書き記して、リンナは万年筆のキャップを閉じた。すこし迷って、懐に入れる。

「エディリンナ!」

「今行くわ」

 リンナは頷くと、大股で独房を横切った。ついぞ開くことのなかった扉を、そっと押す。指先が震えた。

 頭をかがめて牢を出て、23番と向き直る。目の高さはほぼ同じだ。彼女の方がすこし痩せているだろうか?



「今ここで、ひとつだけ聞かせて」

 リンナは後ろ手に印を結ぶと、『真実を顕せ』と素早く告げた。23番が息を飲む。咄嗟に身を翻そうとした彼女の手首を掴み、リンナは強い口調で問うた。


「私たちは何? どうして同じ顔をした人間がたくさんいるの」


 ぐ、と23番の顔が歪む。どうやら今は言ってはいけないことになっているらしい。

「答えなさい」とさらに大きな声を出すと、彼女は薄く唇を開いた。伏せられた瞼が上を向く。


「呪術が誰にでも使えるものになれば、と思ったことはありませんか」

 透き通るような瞳をしていた。その奥を見据えた瞬間、どきりとした。



 記憶の向こうで、弟が首を傾げる――魔術みたいに、呪術を使う道具は開発できないの?

 これまで私は何度も唱えてきた。もっと呪術を普及させたい、誰にでも利活用できるものにしたい、と。



「魔術と違って、呪術は必ず生きた術者によって行使されねばなりません。加えて、術者には適性があります」


 リンナの髪色を暴いたエルウィが、直後に血を吐いて倒れたことを思い出す。

 ……真実を暴く呪文。リンナなら一日に何度使っても支障はないが、彼にとっては一度で昏倒するほどの呪いだった。


「死の呪いのような大きな力を持つ呪術は、術者に大きな負担がかかります。死ぬこともある」

 それを回避したいと思うのは当然のことです、と23番は平坦な口調で告げた。


 すべての物音が、水の中の出来事のように遠く聞こえる。地に足が着いているかも定かではなかった。


「私たちは、呪術師によって作られた道具です」

 いままで何度も鏡で覗いてきたものと同じ顔で、少女は静かに微笑んでいた。


「道具?」と、声は情けなく震えていた。「はい」と23番が頷く。

 指先が痺れている。いつもの習慣で頬に手を当てたが、指が動かない。


「いま、世の中を動かしている数々の魔道具と同じ。スイッチに触れれば照明が点く機構と同じ。壊れたらまた次がある、呪術を使う為に作られた生き人形。――死の呪いを実行するための捨て駒です」


 片手だけで繋がった二つの肉体が、突如として実体のない空洞に感ぜられた。

 自分の呼吸が早まっていくのだけが、鮮明に響いている。

(私はずっと、呪術に救われたことをよすがに生きてきた。私は、呪術のために生まれたんだって、)


 それも全て、作られた信念だったのだろうか?

 だとしたら、自分が今まで呪術と向き合ってきた時間は一体、私の人生というものは一体……。


 リンナは呆然と23番の目の奥を見つめた。彼女は顎を引いて見つめ返す。

 程なくして気付く。無感情に見える彼女の視線に、挑戦的な、試すような光が宿っていた。



 リンナは23番を捕まえていた手を離した。

「……何となくは分かったわ。詳しい仕組みは向こうに着いてから聞く」

 23番の顔に、ふわりと笑顔が浮かぶ。それまでの貼り付けたような笑みとは異なって、力の抜けた表情であった。


 リンナの破顔とは違う。すこし気弱そうな、可憐な微笑みだ。

(なんだ、人形なんかじゃないじゃない)

 年相応の少女の笑顔に、リンナは安心して頬を綻ばせた。


 くるりと踵を返して歩き出そうとした23番に、「その前に」とリンナは腰に手を当てた。


「そんな血まみれの格好のまま、南部まで行くつもり?」

「道中に見られたら、その人間の記憶を消せば済む話です」

「馬鹿、そう軽々と他人に呪術を使うものじゃないわ」


 呆れてから、リンナはちょっと笑みを零した。23番が不思議そうな顔をする。

「ううん、……私も同じことで叱られたことがあったから」

 そう言って、リンナは独房内に持ち込んであったクローゼットに向き直った。



 ***


 もぬけの殻になった地下牢を見下ろして、アルラスは呆然と立ち尽くした。

「リンナ……?」

 柵は開いている。椅子の拘束具は外れている。人の気配はない。

 連れ去られた、と直感する。額に浮いていた汗が一気に引っ込み、全身が氷のように冷える。

 早足で地下牢へ降りると、寝台の下や独房から続く水場、机の影などを探した。こんな狭いところにいるはずもないのに、クローゼットを開いて中を覗いた。


「リンナ、いるなら返事をしてくれ、リンナ……」

 何度呼びかけても、縋るような声ががらんと地下室に響くばかりである。


 独房の中心に立って、誰もいない広々とした空間を見回して、その空虚さにつと呆然とした。

 そのとき初めて、アルラスは彼女の視界を知った。悲痛な叫びと不自然な笑顔が脳裏をよぎる。

 自分が彼女にした仕打ちを、ようやく理解する。


(リンナは、自分の意志で逃げたのかもしれない)

 アルラスはふらふらと独房を出た。

「連れ戻さないと」と、譫言のように呟く。


 謝らないといけないと思った。

 彼女を、かつての呪術師と同じものだと思ったこと。自分の個人的な怯えのために彼女を閉じ込めたこと。

「俺はどうかしていた……」

 呻いて、階段を駆け上がる。



 地下牢から地上の回廊へ飛び出した瞬間、くらりと足元が覚束なくなった。

 かつての妻の名が、唇から滑り出る。

 呪術師を拘束するために作られた、特別な独房。この地下牢から出てすぐの裏庭に、罪人のための断頭台があった。


 風が吹き下ろす。汗の浮いた肌を、夏の夜の生ぬるい空気が包み込む。

 咽せんばかりに濃密な花の香りが立ちこめていた。

 全ての照明が灯され、中庭は四方の壁から照らされていた。それだけに、中庭を満たす暗闇がおそろしく黒々として見えた。


 またいつか――と、遠くで前妻がささやく。


 壁に手をついたまま、アルラスは呆然と頭をもたげた。

 深い水の底にいるようだった。暗い中庭で、白い花がいくつも咲いている。

 庭師を呼んで植えさせた花だった。咲いたらリンナのところに持っていこうと思って、鉢に植えさせたものもあった。

 昨日まではこんなに咲いていなかったのに、一気に花開いたらしい。


 目を凝らした先で、白い花びらが風に吹かれてはらりと地に落ちた。


 断頭台が撤去されたのは遷都よりさらに昔のことだ。ここで数え切れぬ罪人が散ったことを知っているのは、この城の図面とアルラスだけだろう。


 葬り去ろうとしてきた二百年前のすべてが、いま足音を立てて迫ってきているのを感じていた。

(俺はあのとき自分の妻を殺したのだ)


 断頭台へ向かう後ろ姿を、身動きもせずにただ見送った。それから二百年ものあいだ、自分はそんなことも忘れて、妻の名前さえ忘れて暮らしていたのだ。


(今も自分だけ、人間・・として、のうのうと生き続けている)


 吐き気が込み上げて、アルラスは身体を折ってえずいた。

 死にたい、と掠れた声でつぶやく。


 顔を覆ったまま、しばらく項垂れていた。ややあって頭を上げ、重い身体を引きずるように動き始める。屍のような気分だった。


 そのとき、頭上でリピテの声がした。

『旦那様。侵入者を見つけました』

 アルラスの居場所を見つけて、この区域だけに放送を流しているらしい。アルラスは息を飲むと、言われた方向へ顔を向けた。




 人気のない廊下を早足で抜けながら、アルラスは割れんばかりに痛む頭を押さえていた。

 亡霊が背に張り付いている。冷たい手が頬に触れている。


『ごきげんよう、殿下』

 こちらを見上げた幼い双眸が脳裏をよぎる。薔薇園のなかで初めて手を取ったときのことを思い出す。

『わたくしは何も気にいたしませんよ』

 隣国の姫君に秋波を送られるアルラスに、彼女は涼やかに告げた。


 いつ会っても、大理石を見ているような女だった。静かで、動かず、硬質で冷えた美しい女だった。

 人間味がなく、それが恐ろしくも魅力的だった。


 二百年ものあいだ忘却していた女の幻影が、まとわりついて離れない。


『騙してごめんなさい、閣下!』

 高らかな嘲笑が蘇り、幾度となく木霊する。



 遠い記憶の向こうで、獣の咆哮が響いている。

正気を失った犬が、前脚を失ってなお飼い主の喉笛へと飛びつく。数え切れない矢を背に受けた牛は猛り狂って商店街を疾走し、小さな子どもが泣き叫んでいる。


 旧都がまだ都ではなかった頃、この街を襲った悲劇である。


 首を落とされた呪術師が笑っている。その身体から離れた右腕が指をさす。指された大臣がよろめく。

 窓を破って城へと飛び込んできた狼が、大臣の肩へと食らいついた。血潮が噴き出す、が、すぐに止まる。

 捕らえろ、と叫んだ。あの大臣もやっている・・・・・



「はぁ、はぁ……」

 アルラスは肩で息をしながら歩調を緩めた。侵入者はこの先にいるはずだった。これから対峙しなければならないのに、頭痛は治まる気配をみせない。



 暗殺未遂の起こった戴冠式から、五年あまりが過ぎた頃だった。

 異変は、森に住む獣たちから始まった。狩人たちからの報告だった。――どれだけ撃っても死なない鹿がいる。


 アルラスの身体に起こった変化は、その頃すでに内部では知れ渡っていた。早晩に市井へ情報が漏れるとは思っていたが、王家の推測を越えて情報は素早く、広く伝達されていた。


 鹿の噂は瞬く間に拡散した。

 不老不死の術があるらしいという情報は、それまでに類を見ないほどに真実味をもって囁かれた。


 呪術師たちによって実験は繰り返され、生み出された獣たちは、気がついたときには国内に多く分布していた。

 金のある者は呪術師を囲い込み、人体実験も厭わずに不死の呪いを作らせた。立場の弱い者が被検体として使い潰された。


 被検体はほとんどが死んだらしい。しかし生き残った者は、常人とは異なる耐久性を手に入れた。

 不死の呪いの知見が蓄積したころ、貴族たちはこぞって不死の呪いを自分にかけさせた。失敗して命を落とす者も多くいた。成功する者もいた。


 国が不死の呪いを禁じても、誰もが秘密裏に不死の呪いをかけてほしがった。


 不死になった者。不完全な不死の呪いにより死に損なった者。

 屍が地を這い、死なない者は何をも恐れず跳梁跋扈した。

 地獄のようだった。





「旦那様!」


 前方から声が響いて、我に返る。

 顔を上げれば、寝間着姿のロガスが、息せき切ってこちらへと駆け寄ってくる。


 アルラスは仰天して叫んだ。

「ロガス、こんなところで何をしている!」

「こちらの台詞です! いったい何が――」

 常に毛筋一本もこぼさず整えられている髪をかき上げて、ロガスが歩調を緩める。

 長い廊下は明るいのに、窓の外は塗り潰されたように真っ暗なのが不気味であった。


 立ち止まって肩で息をするロガスに、アルラスはつと言葉を失った。彼はもう、全力疾走するには負担のかかる年齢なのだ。「すみません、ちょっと」と片手を上げて、ロガスが照れたように笑う。



 ……と、瞬間、息が止まった。ロガスが膝に手をついた、その背後に白い人影が見える。


 渡り廊下から飛び出してきた人影は、驚いたようにこちらを振り返った。血で濡れた白い上着を着た、白い髪の女。

 は、と互いに息を吸う音が鮮明に聞こえる。


 袖のなかから、白い腕がゆらりと覗くのが、やけにゆっくりと見えた。自分が銃を抜き放ち、安全装置を解除する動きも、奇妙に遅く感じられた。

 指先に引き金が触れる。


 ロガスが振り返ると同時に、女の白い手がひらめいた。見えない球体を腕全体で撫で下ろすような、しなやかで優雅な動きだった。と、揃えられた五指が、一転かたく強ばると、鞭を打つように空を裂く。


『またいつか』と、前妻が耳元でささやいている。『次の私で』


 呪術師の矛先にロガスがいると気付いた瞬間、全身が沸騰したように熱くなった。

 


「――その子に、手を、出すなッ!」

 声を荒らげて怒鳴る。直後、響き渡った銃声を、アルラスは遠雷のように聞いていた。


 真ん丸に見開かれたひとみが、こちらを見た。驚いたような、怯えたような眼差しが、アルラスを射貫いていた。


 どこか虚ろで、しかし奥にきらめく光が宿る双眸を見咎めた瞬間、侵入者の顔にリンナのそれが重なった。



 ***


「遅いなぁ……」

 厩舎で膝を抱え、リンナは小さく呟いた。


 この城のセキュリティは強固である。外へ脱出しようとするも、通ろうと思った通路はほとんどが封鎖されていた。

 二人そろってアルラスに捕縛されてしまうのが、最も望ましくない事態のように思われた。二手に分かれることを提案したのはリンナだった。


(閣下は、私が脱走するのを許さないだろうなぁ)

 目を伏せて、藁山に片手を埋めてみる。ちくちくとした藁の切り口が手のひらや腕をくすぐる。

 前にもこんなことがあった、と笑みが漏れる。自分のつまらない見栄や意地のために、彼を出し抜いて、ひどいトラブルに巻き込まれたのだ。


(それで私、閣下が助けに来てくれるまで何もできずに泣いてるばっかりで、)

 膝に顔を埋めて、リンナはくすりと笑った。


 今回は違う。リンナは暗い厩舎の壁を見据えたまま、ふと笑みを落とした。

(私は、閣下を救いたい、のに)

 彼の苦しみを、なにも知らないのだ。二百年前に何があったのかも、彼が何を見てきたのかも。


(だから行くのよ)

 怪しい誘いに乗って、はるか遠く――砦の向こうへ。

 二百年前になにがあって、自分はどうすればアルラスを救えるのかを、知るために。


 これは私が決めたのだ。誰が何と言おうと、私がそうしたくてするのだ。


 そう自分に言い聞かせるのに、疑念は消えてくれなかった。

 本当に私は自分でそうしたいのか? 呪いで操られているだけではないのか?



 時計台を見ようと、リンナは緩慢に立ち上がった。

 午前二時の鐘が鳴るまでに23番と合流できなかったら、先に南部へ向かう話だった。協力者がいるという場所はすでに聞いている。最悪ひとりでも行けるが、彼女を置いて行きたくはない。


 長針は今まさに頂点へ達しようという頃だった。黒々とした長針を見ているだけで、腹の底が焦れったくなる。



 針がふるえ、文字盤のうえで数字を指し示した。

 ひとつめの鐘を聞きながら、リンナはぼんやりと考えていた。


(私たちが、呪術を使わせるために作られた人形だったとして、どうして私たちの顔はこれまで露呈しなかったのだろう?)


 すばやくページをめくるように、かつて見た古代魔術展のポスターが脳裏をよぎる。白いローブを着て、フードで顔を隠した姿は、呪術師の象徴シンボルだ。


『彼らは人前で決して上衣を脱ごうとせず、顔も見せなかった』とアルラスの声が蘇る。

 リンナは白い髪を片手で撫でて、はたりと瞬きをした。


(でも、呪術師が捕らえられることだってあったはずだわ)

 くつわの保管されている棚の方へ足を向けながら、リンナは目を伏せる。


(生きている間は近づけなくても、処刑後には顔を検めるはずではないの?)


 それなのにどうして、私たちの顔はどこにも記録されていないのだろう?

 私たちは死んだらどうなるのだろう?



 ふたつめの鐘の音が、長く尾を引いて、ふるえながら夜の森へと染み込んでゆく。

 約束の時間だ。彼女はあとから追いつくだろうと唇を噛んで、リンナはレイテーク城へ背を向けた。


 鞍を抱えて気性の大人しい馬の前に立ち、暗視の呪文を唱える。いきなり暗闇が見えるようになり、馬は驚いたように地面を掻いて暴れたが、指を一度鳴らせば大人しくなった。



 夜更けに、誰の目にもつかず、暗い木立へと一騎が吸い込まれてゆく。

 濡れた頬は、すぐに風を切って乾ききった。



 ***


 午前二時を示す鐘の残響が消え失せた頃、銃口から細く立ち上る硝煙がかき消えた。

「あ……え?」

 頭を庇ったまま、ロガスが呆然と呟く。アルラスは咄嗟に「下がれ」と強い口調で言っていた。


 腰が抜けたように動かない息子の首根っこを掴んで、床に倒れた侵入者から引き離す。

 足に力が入らない。ロガスが何か言っているが、耳に入ってこない。


(さっきの、顔は……)

 弾丸が達する一瞬前、たしかに視線が重なった。こちらを見る双眸は、リンナのものに酷似していた。

(違う!)

 すぐにかぶりを振る。なにせ、侵入者は彼女と同じ顔をしているのだ。だから見間違っただけのことだ。


 大きな上着が被さるように、彼女の身体を覆っていた。顔にかかったフードへ手を伸ばす、その指先が震えている。

 どんなに似ていても、見れば分かる自信があった。どんなに顔立ちが似ていても、リンナのことなら絶対に分かる。


 リンナはたくさん笑うから頬がふっくらとしていて、触ると意外と硬いのだ。ずっとペンを持っているから手にはペンだこがあって、右腕に二連のほくろがあって、……見分けがつかないはずが、ない。


 見れば、これがリンナではないと分かるはずだ。



 片膝をついて、白い上着を手で掴んだ瞬間、手のひらは違和感を訴えた。不気味な軽さに、背筋が冷たくなる。

 細く開いていた窓から夜風が入り込んだ。足元に、真っ白な粉が散らばる。

「は……?」

 アルラスは呆然と呟いた。


 布の下に肉体はなかった。腕を伸ばせば、白炭に触れるように手の中で崩れてゆく。

 眼前にあるのは、人ひとりぶんの質量をもった灰の山のみであった。それすらも、みるみるうちに風に散らされ、吸い込まれるように宙へ消えてゆく。


「リンナ?」

 声はまるで幼い子どものように響いた。


 まさか――違うに決まっている、いやしかし……。二転三転する思考とは裏腹に、身体はまるで膠で固められたように動かなかった。


 足元まで覆うような白いローブのなかに、見覚えのある襟を見つけた。

 リンナがよく着ていたブラウスだった。

 以前に、こういうのが好きなのだと彼女が店先で手に取って、買ってやったものだった。


 先刻に塔の上から狙撃した侵入者は、これとは違う服を着ていた。



 奇妙な感覚が胸の内で渦巻く。

 二百年余りも絶えず脈打ち続けてきた心臓が、数拍を飛ばした。


「リンナ」と、馬鹿のひとつ覚えのようにまた唱える。

 銃が手から落ちて、重い音を立てた。

 高火力の遠距離攻撃を行うための魔道具として、アルラスがかつて開発に携わったものと同じ型番だった。



 リンナが死んだ――と、短い言葉が胸に落ちる。

(……俺が、殺した)


 言葉にならない叫びが、全身を千々に引き裂いていくようだった。背後から何度も肩を掴む手を振り払う。


 どれだけ叫んでも、どれだけの銃弾を体に撃ち込んでも、何も変わらない。死なない。

 永遠に終わらないのだ。



 星のひとつも見えない曇天の下で、丁寧に植栽された庭園が風に揺られている。

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