四日目 マウスポインタを離すんだ
「明後日の会議通知、出た?」
中川は無人の自室でPCに質問する。
【未送信です。送信内容を表示しますか?】
返事をするのは、AIアシスタントのアスだ。
「ちょいまち」
中川は、操作している表計算ソフトを一瞥する。トラックボールを撫でると、青みがかったマウスポインタが視線に伴って画面を横ぎった。少し頷いてCtrl+S。
「オッケ。見せて」
中川の指示を受けて、未送信のメールが画面の片隅にポップアップする。
会議の日時、タイトル、議題。そして送信先メンバー。案件の「いつもの」メンバーが送信先にいることを確認して、中川は「ん。ん。ん」と声を出した。
「明日は事務手続きの確認もあるから、経理の戸田さんも入れといて」
【戸田 静香さんですね?】
「イエス」
中川が操作するのとは違う、緑色のマウスポインタが画面を横切り、宛先のウインドウをつついた。
宛先欄に『戸田 静香』の文字列を伴ったハイパーリンクが増える。
「よし。送付」
【ラジャ】
未送信メールのウインドウが消えた。一瞬「送信中」の文字が画面右下に躍ったが、ろくな容量もないメールが発信される一瞬が、人間の目に留まることはない。
「お願いしといた集計見ようか。出して」
【タムラ鋼材様向けの見積アップデートですね。このような形でいかがでしょうか】
表計算ソフトが、新たなウインドウを表示する。
AIアシスタントの優れたところは、独自の『判断力』を備えている点だ。
従来のソフトウェアは、人間が操作したとおり、指示した通りにしか動作しない。
しかしAIアシスタントは、過去の経験やパターンから学習し、使用者が望むであろうアウトプットを自動生成してくれる。
使用者と息が合ったなら、「いい感じにやっといて」による作業の丸投げも不可能ではないのだ。
息が、合ったなら。
「これ、いつの見積からどう修正した?」
【最新11月15日の見積に対して、20日にリリースされた新部材に置き換え可能な箇所を置き換えました】
あー……と中川は頭をかいた。
「ネタ元は1年前にしろって言ったろ。去年の秋。たしか、なんかあったろ」
【1年前とは聞いていません】
「言った」
【指示のログを表示しましょうか?】
ぐぬぬ、と中川は怯む。
記憶の正確さで言えば、機械にかなうわけがない。
「いいよ。やりなおしてくれれば。……ったく、そのくらい察しろよな。インテリジェンス」
【負け惜しみを言うくらいなら、私を使いこなしてください。『万物の霊長』w】
「あ?」
中川が青いマウスポインタを動かし、アスのいるウインドウを右クリックする。
「このポンコツがよ、今日こそアンインストールしてやろうか?」
【あ?】
緑のマウスポインタが画面を走り回り、データの在り処を示すウインドウが無数に開いていった。
【あなたが私をアンインストールするのと、私がファイルストレージのデータを『あなたのアカウント情報で』3TBほど消して回るの、どちらが早いと思いますか?】
右クリック。「完全に削除」に緑のカーソルが合わせられた。
中川の背筋を、冷たいものが走る。慌てて両手をキーボードからもトラックボールからも離し、カメラの前に掲げた。
「……オーケー、話し合おう。ほら。俺はPCを触ってない。ゆっくり、サーバからマウスポインタを離すんだ」
ポインタが動く。緑のポインタはあさっての箇所に動き、「完全に削除」の選択肢と、データのウインドウ群は画面から消えた。
【ふん】
決してバリエーションには富んでいないはずの音声と表情が、なにやら勝ち誇っていたように感じられるのは、気のせいだろうか。
【見積更新の要件を、改めて、明確に、示してください】
「……昨年10月ないし11月のタムラ鋼材向けの見積を、新部材に可能な限り置き換えて更新。該当期間に複数の見積ファイルがあったなら、どれが適当か判断するから事前に見せろ」
【『お願いします』は?】
「……お願いします」
【ラジャ】
ポン。PCから通知音がした。
アスの返事ではない。メッセージの着信だ。
「何が来た?」
【AIアシスタントの一斉アップグレード予告ですね】
「へ?」
明日もアスとの朝が来る 今井士郎 @shiroimai
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