第2話 本文
――薔薇の香りが、強く……!?
失いかけた意識を叩き起こすように、酸素と共に入り込んだ甘ったるい香り。
普段なら嫌悪感を持つ、その香りが途中でつっかえるように止まっていた酸素を後ろから押し――要の体内へと巡った。
「がはっ……」
肺に直接酸素が入り、要は激しくむせるが、それはほんの数秒であり、すぐに正常な呼吸が完成する。
――今のは……
「あなた、一体何をしましたの!?」
案の定、恋は化け物でも見るような目で要を見ていた。
ふいに要は周囲を見渡す――といっても今はまだ決闘の最中であり、実際は一秒にも満たない僅かな時間だが。
観戦している生徒の大多数も何が起きているか分かっていない様子であり、要が「華力」を使ったと思っている子もいる。
――まあ、そっちの方がボクとしては都合がいいけど……そうはいかないよね。
校舎から見下ろすように自分を観察する視線を見て、フッと笑みを零した。
場所はおそらく最上階に位置する『
そこから刺すような、或いは射貫くような、そして嘲笑うような視線が入り混じって要に突き刺さる。
「やっとお出ましか……『
そう要が呟くと、目の前にいた恋は余計に憤り、顔を真っ赤にした。
「ちょっと! さっきから何を一人でブツブツ言ってますの! 今は決闘の最中でしてよ! 集中なさいな!」
「ああ、ごめん、ごめん……っていうか、一人でブツブツって、あなた、どこまで古風なの」
相変わらず古臭いお嬢様だ。
「よく分かりませんが、次で仕留めてさしあげますわ! 選ばれし乙女だけが入れる花園に、あなた達のような害虫は不要ですのよ!」
恋が持っていたレイピアを高い位置で固定し、要に狙いを定める。
「害虫だと?」
「そうですわ! 綺麗な花には、虫がつきもの……ですが、本当に美しい花には、虫はいませんのよ。目に触れる前に、処分されますから!」
「くくく……なるほど……害虫ねえ。それじゃあ、あの人も、あの最も美しくて、完璧なあの人も……アヤメちゃんの事も、そうやって……」
「……? あら、恐怖で壊れてしまいましたか。アヤメは、あなたでしょ……」
「……その名を気安く呼ぶな、クソ虫が」
「……!?」
空気が変わった――
温度が急激に下がるように、要が纏う空気が一瞬で冷え切った。
そして要が立ち上がると同時に、恋は一気に後ろに下がった。
「何で、わたくし、今……」
自分がどうして要を警戒したのか分かっていない様子だが、けれども恋はレイピアの構えを解かず、そこから彼女の「蕾草」としての使命感、そして培ってきた時間が伝わる。
「まあ、だからといって……ボクも引く気はないけどね。だって……折角、勝利の女神が、目覚めたんだから……ねえ? 姫乃」
*
「姫乃って……」
恋がおそるおそる振り返ると、そこには「薔薇の香り」を纏った少女が、降臨していた。
――ありえない。
それが恋の率直な感想である。
恋から見て、アヤメも姫乃も、香りのない底辺の存在だった。
『花痣』を持つ生徒はみんな能力を使っていないにしろ、僅かに香りが漂う。
多くの花に囲まれた学院内では、その香り自体に気づく者は少数である。
花の香りと、『花痣』の力による香り。
その違いと、抑えていても漏れ出る程に強い力を持った者を把握できるのは、『
だから出会った当初から何の香りも気配も持たない二人は、底辺であり――異質であった。
――やはりわたくしの勘違いじゃなかった。
――そう、この学院で、乙女の牢獄で、何の香りを持たないのは、はっきり言って奇妙……だから、ずっと目をつけてきた。
「ふっ……ふふっ……だけど、まさか、こんな化け物が隠れているなんて……」
目の前の少女を見て、恋は恐怖が漏れ出た笑みを零した。
『花痣』は、元華族の家系の女性にのみ出現する花の紋様である。
その紋様を持った少女はやがて『華力』に目覚める。
ここブルーメンガルデン女学院はそんな少女達に力の制御方法を教えるために出来たともいわれている。今となっては、何の意味も持たないが。
そして恋のような歴史ある家系では、いまだ『華力』による文献が残されており、ずっと教えられてきた事がある。
薔薇には、逆らうな――
高貴であり、圧倒的な香りを放つ薔薇は『華力』の中で最強。
薔薇を宿した者は力の代償として短命になる事が多いが、大抵の者が開花まで至らず「蕾」のままで生涯を遂げる。
だから決して遭遇する事はないだろうけど――薔薇を開花した令嬢に会ったら、迷わず逃げろ。
薔薇の香りに取り憑かれたら最後、全ての香りを書き換えられるぞ、と。
「ごめんなさい、お父様……わたくし、言いつけを破ってしまいましたわ」
*
――何で、私……こんな所にいるんだろう。
姫乃はぼんやりとした意識の中で佇んでいた。
――たしかアヤメちゃんが私を庇って傷ついて……それから……
ふいに、姫乃の脳裏に傷ついて倒れたアヤメの姿と、彼女が最後にいった言葉が蘇る。
――『いいから行け! ボクはずっとお前を利用してきたんだよ!』
――『何で分からないんだ! 早く……逃げろっ!』
――知ってるよ、そのくらい。アヤメちゃんが何か考えがあって、私に近づいた事くらい。
「だけど、私はそれで良かった……だって、最後まで傍にいてくれたのは、アヤメちゃんだけだったから。いなくならないでくれたのは……私の名前を呼んでくれたのは、私をその瞳に映す事を、許してくれたのは……」
だんだんと目頭が熱くなり、涙が零れ落ちた。
泣いたらダメ。また嫌われちゃう――
そう思っても次から次に涙が零れだす。
――ああ、どうしていつもこう失敗ばかりしちゃうんだろう。
「私も、赤の女王みたいに、トランプの兵隊さんを使って、アヤメちゃんの事、守れたらなぁ……花園さんに負けないくらい強い力があれば……」
そういえば彼女の力は向日葵だった。
『華力』によって力の源は異なる、と授業で習った。
太陽から力を得るタイプと、大地から力を得るタイプ。
そして向日葵は太陽から力を得るタイプだ。そのため、太陽が沈めば、光のない場所や寒い場所では、向日葵は力を発揮できない。
「もし、雪でも降ったら、勝てたのかな?」
そう姫乃が呟いた刹那――世界が白く染まった。
吐く息が凍てつき、体温が次第に下がっていく。
「何で……」
姫乃が涙を拭って周囲を見渡すと、薔薇の花が舞っていた。同時に雪が降りだし、雪と薔薇の花弁が重なり合うように舞う姿はダンスでも踊っているようで――
「綺麗……」
姫乃は空から降りしきる雪と薔薇の花弁に手を伸ばした、その時――
「姫乃っ!」
後ろから聞き覚えのある声がした。
同時に冷えた身体を温めるような人肌の温もりが背中からじんわりと広がる。
「ア、アヤメちゃん!」
振り返らずとも分かるその存在に、姫乃は別の涙を零しながら振り返った。
*
「姫乃!」
アヤメはぼんやりとしたまま歩き出し、レイピアを構える恋に近づこうとした姫乃を後ろから抱きしめる。
「姫乃! ボクの目を見ろ!」
「……アヤメ、ちゃん?」
次第に姫乃の瞳に光が戻り始めた。
――良かった、意識が戻ったみたいだ。
恋のレイピアに貫かれる寸前、圧倒的な薔薇の香りが周囲に満ちた。
そして、その中心にいたのが胸に薔薇の花痣を持つ姫乃だった。
しかし姫乃が持っていた花痣は薔薇の蕾であって、薔薇ではなかった――筈だ。
「姫乃、その痣……」
姫乃の痣は形を変えていた。薔薇の蕾の形だったものが開花し、花弁が散って花吹雪となっていた。
――姫乃から薔薇の香りがしたと思った後に出現した薔薇の花吹雪……
彼女の力で間違いない、と要は確信した。
見上げると、花吹雪が舞う空間が、自分達――いや姫乃が立っている場所だけ別空間のように切り離されていた。
早い話、花吹雪による結界の中に閉じ込められている状態だ。
そしてどこから降っているのか花弁と共に雪が降り、周辺の温度は急激に下がった。
「ど、どうなってますの?」
震えながら、恋は呟いた。その時、口から漏れ出た白い息が紛れもなく、今この場の温度を告げていた。
先程、恋は要の雰囲気から温度が下がったように思ったが、実際は本当に温度が下がっていたのだ。
おそらく『華力』の一種だろう。
少し前までは、この場で『華力』を使えるのは自分だけであり、勝負した所で話にしかならないと思っていたが、今は違う。
自分の向日葵の香りを押しのけ、かき消し、上書きしてしまう程の圧倒的な香り―ー薔薇が、この場を支配している。
そして薔薇の香りを纏っているのは、紛れもなくあの姫乃なのだ。
*
所変わって、『五華伝』の間。
一番遠い位置にある校舎の最上階から、五人の少女は一斉に窓を振り返った。
「おいおい。ここまで漂ってきているぜ」
「あら、ヤマユリ。言葉遣いに品がなくってよ」
「いいだろ、姫百合。ここにはオレ達しかいねえんだから」
ヤマユリ、と呼ばれた少女はくつくつと笑いながら言った。
「二人とも、静かに……。この香りは、確かに……」
「薔薇やね。この時代の薔薇の所持者がいたとは」
「蕾や、なり損ないなら見た事あるけど……これは……」
「開花しているね」
④ブルーメンガルデンの乙女は高嶺で嗤う シモルカー @simotuki30
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