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水鏡が鍵になるかもしれないと分かったので、とりあえずいろんなものに水を張ったり、外に水を持って行って水溜まりを作ったりしたが、風呂場の桶と同じようにものが映る水はすぐに底知れぬ闇に染められてしまった。
「どこもダメか……」
『そう焦るな。よく考えてみろ』
「よく考えてるよ」
『今までお前は鏡を作ることしかしていないだろう。元からある水鏡ではダメなのか?』
「元から……?」
元から水鏡がある、というのはどういうことか。ずっと水が溜まっている場所。けれど水面に波が立たずに、美しく凪いでいる──。
「湖か、池か……」
この辺りの地図を引っ張り出してきて、広げる。私の予測が正しければ、町のどこかに青色で塗られた場所があるはず。
「……あった、『鏡池』!」
『随分と捻りの無い名前だな』
「昔の人が鏡みたいって思ったから付けたんでしょう。そんな辛辣なこと言わないの」
『ふん』
時々偉そうである。面白いやつだ。
「とりあえずここに向かうか……」
『もし違かったらどうするんだ』
「もっと遠くまで行くしかないでしょ」
『……そうだな』
「なに、歯切れ悪そうに」
『あまり長い時間いると、どんどん食料が尽きるのではないか』
「……たしかに、そうだね」
『ものが消えることは向こうにも反映される。あまり下手なことはできないと思うといい』
「忠告ありがとう、でもきっとここが私の探す鏡だと思う」
『根拠は?』
「そんなの無いよ。勘と感覚」
──今まで確認しなければ信じられない質だったのに、こんな風に考えて信じるのは、初めてだ。やっぱり今の私は、どこか自信があって大胆みたいである。
「そうと決まれば、行こうか」
『ああ』
そういえば何も気にせず歩いていたが、家からあのお社の前に飛ばされたようだったのでずっとスリッパを履いたまま外を徘徊していたようだ。家の中が土で汚れていないか少々心配になったが、さすが日本人と言うべきか、スリッパは玄関の土間のところにちんまりと並んでいた。
「スリッパ……」
『ん? 「すりっぱ」というのは、あの靴のことか』
「そう。あれは家の中で履くやつなんだけど、家からシロのところに飛ばされたみたいだからスリッパ履いたままだったんだよ」
『……それはすまなかった』
「いいって」
スニーカーに履き替える。スリッパはここらでお役御免かもしれない。お気に入りの、白地に水色の刺繍がなされたスニーカー。つま先をとんとん、とすると、頑張ろうという気持ちがなんとなく湧いてきた。
「さ、行こうかシロ」
『鏡を見つけに』
「うん」
いつもの玄関が、新たな私に生まれ変わるための輪廻転生のゲートに思えた。
* * *
地図を参考にしながら『鏡池』へ向かっていく。そういえば縮尺を見ていなかったが、これはどのくらい歩けば到着するのだろうか。
「……『2万5千分の1』、ってことは」
四センチで一キロ、そして大体親指と人差し指をぐっと伸ばした長さ(約十五センチ)より少し長い程度。つまりは十六か十七センチくらいであろう。
「……四キロ?」
『それは長いのか?』
「長い、と思う。でも進めばいつかは着くから」
『そうか。ならば進もう』
幸い今の私は、できないことができるようになっているはず。ならば大嫌いで苦手な長距離走もできるようになっているはずだ。
『そういえば、なぜ元の世界に帰りたいと思ったんだ?』
「ん? うーん……」
帰ることができる権利を与えられて、けれどそれでもここに残る者もいたのだろう。だからこその質問なのかと思った。
「嫌いなことができるより、好きなことができない方が嫌だって思ったからかな」
『ほう』
「私は音楽が大好きで、でもこの世界だとそれが思うようにできない。それが嫌だった」
苦手な、嫌いなことができても、好きなことができないのであれば、関係ない。きっと趣味に没頭する人は分かってくれるだろう。
『ならば、音楽ができる世界へ戻らねばな』
「うん」
果たして約一時間歩き続け、痛む足を引きずりながら目的地の『鏡池』にたどり着いた。池の周りは木に囲まれ、
「……こっちは夜なのに」
『向こうはまだ昼なのだろうな。お前が「ぴあの」を弾いていた時間から時が進んでいないから』
「そっか」
変な景色である。せっかくだからとスマホを取り出して、カメラを起動する。向こうへ戻ってもこの写真は残ってくれているだろうか。
「あ、シロ」
『なんだ』
「写真に映れる? って聞き方もおかしいか」
『知らぬが、撮ってみるか?』
「うん、じゃあ池の傍でこっち向いて」
シロの位置が決まったところで、私は静かに光を注ぐ月の空と、池に映る昼の空と、ここまでついてきてくれた友達を写真に収めた。
「……撮れてる」
『そうか』
なんだかその声は、少し嬉しそうに聞こえた。
「さて……入ったら水に濡れちゃうかな」
『いや、それはないだろう。触ってみるといい』
シロがそう言うので、私は池の水面に手を伸ばして触れる。こちらとは違う、暖かな空気に指先が包まれる。指先は濡れていない。
「ほんとだ、向こうはもう元の世界なんだね」
『ああ。さあ、早く行くといい』
「……ちょっと寂しいな」
『なぜだ?』
「シロとのお話、楽しかったから」
シロはほとんどないと思われる表情筋を精一杯使って驚いた顔をした。
『は……わたしと離れるのが寂しいというやつは、お前が初めてだ』
軽く笑ったように言って、シロはこちらに背を向けた。
『さあ、もう行け』
「……うん」
それでも名残惜しくてずっと佇んだままでいると、シロがこちらを向いた。
『そういえば、お前の名は?』
「わ、私は」
私は大きな声で、高らかに宣言する。
「私は、みらい!」
シロが頷く。ほら、お前の未来はここではないのだからと言われている気分になった。私は踵を返して、えいっと水面に向かって高くジャンプした。
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