回想3――高校一年生、冬


 高幡さんの家は、すぐ側にあった四階建てのマンションの一室だった。

 兄弟はおらず、両親と三人でここに暮らしているらしい。共働きで、夜遅くにならないと親は帰ってこないとのこと。

 口を開けたライオンのモニュメントに見送られながら、オートロックのエントランスを抜けて、エレベーターで三階へ上がる。一番角の部屋の玄関の鍵を開ける高幡さんの姿。それを見て、なぜだか私はとても緊張してしまった。


「……どうぞ」


 そう言って扉を開けてくれる。

 お邪魔します、と中に入ると、ジャスミンの仄かな匂いがした。靴箱の上のスペースに黒い小瓶が置いてあって、その中に細い木の棒が何本か差してある。きっとその香りだろう。


「……」

「……」


 お風呂場で傷を洗って、タオルで拭いて、傷パッドでそれを覆う。

 一連の作業の間、高幡さんはずっと無言でなされるがままだった。私もなにも喋らない。リビングの白い壁にかけてある木目調のアナログ時計だけが、静かに音を立てていた。


「はい、できた。たぶんこれで大丈夫」

「……」


 高幡さんはうつ向いたままだったけど、小さな声で、ありがとう、と呟いた……ような気がした。


「着替えてくるから、座ってて」


 そう言って彼女はリビングから出ていった。

 そこでようやく私は一息をついた。


「……」


 室内を見渡すと、チェック模様の入った茶色のカーテン。私の座っているベージュの絨毯。黒いちゃぶ台、ソファー、テレビ。まあ普通の家のリビングという感じのものが、綺麗に整頓されている。

 私は他人の家に来たときに特有の、その部屋が積み重ねた時間に自分だけが浮かんでしまっているような感覚を覚えていた。

 なんだろう、入ってはいけないところに入り込んでしまったような。


「……」


 やがて戻ってきた彼女は、暗くなってきた部屋の電気を付けて、ソファーの端っこに座った。

 私のいる斜め向かいの位置。

 制服のブラウスの上に厚手の黒いパーカーを羽織って、細身のジーンズを履いているその姿。いつもの制服姿とは印象が違って見える。

 再び緊張が戻ってくる。


「……なに?」

「な、なんでもない、よ」


 彼女の大きな目でぎろりと睨まれて、私はその姿を凝視していたことに気がついた。慌てて目をそらす。

 きっとたぶん、普段と違う高幡さんの様子を見るのがいけないんだ。

 家の鍵を開けたり、パーカーに着替えたり。大きな涙、取り乱した鳴き声。そういうの、高幡さんはずっと隠し続けていたから。見ちゃいけないものを見てしまったような気分になるんだ、と思った。


「……なんか、変?」


 目をそらした私に高幡さんはそんなことを言った。

 え?と思わず聞き返す。


「じろじろ見てくるから、なんか変なのかなって」

「そ、そんなことないよ、ただその、ほら、細身のズボンだから、傷が圧迫されたりしてないのかなって思ったの」


 普段の自分を見失いながら、それでもなんとか誤魔化そうとすると、高幡さんは「……ちゃんと手当てしてくれたから、大丈夫」と膝に触れながら言った。


「そ、それはよかった」

「……」

「……」

「……私、スカートってあんまり好きじゃなくて」

「そ、そうなんだ」

「……」

「……」

「……飲み物とか、いる?」

「……だ、だいじょうぶ」

「……そう」

「……」


 続かない会話はいつものことだけど、やっぱりいつもよりも雰囲気が重い。 

 こんなところまで踏み込んでおきながら、私はちょっと逃げ出しそうになっていた。

 傷が大丈夫ということなら、もうこの家にいる理由もないのかもしれない――

 元々彼女の手当てをするためにここに来たんだし――


「……」

「……」


 なんて、まあ、言い訳だということはわかっていた。

 ここまで来てしまった以上、私は本題に入らないといけない。

 拒絶されても構わずに、普段はりん、として澄ました様子の彼女が、なりふり構わず逃げるのを追いかけて、大きな涙を見せてしまうような所にまで踏み込んでおいて、今さら逃げるなんて許されないだろう。

 私は彼女にしなくちゃいけない。

 この前保健室でできなかった質問を。


「……」

「……」


 室内ではアナログの時計が静かに音をたてている。日はすっかり沈んでいて、カーテンの隙間から覗く空には、昼間の光の透明な残滓と夜の星とが混ざりあっていた。 


「……あのさ」


 私が口を開くと、高幡さんはその肩を微かに震わせた。


「高幡さんはさ、どうしてそんなに他の人と距離を取ろうとするの?」

「……」


 高幡さんは無言だった。

 だけどしばらく待っていると、やがて、


「……べつに、いいでしょ」


 という答えが帰ってきた。


「みんなと仲良くしなきゃいけない、なんて小学校の先生みたいなこと言うつもり?」

「そうじゃないけど、でも、高幡さんは無理してそうしてるみたいに見える」


 誰かに挨拶をされたときとか、一人でお昼を食べているときとか、委員会のときとか、本当はもっと自然に振る舞えるのに、無理してりん、としているみたいに見える――私がそう言うと、彼女は少しだけ笑顔を見せた。

 苦笑いだったけど。


「……りん、ってなに?」

「それはまあ、凛としたっていうか、そういうニュアンスっていうか、そこはいいじゃん」

「……」

「……」

「……よく、見てるんだね」

「……え?」

「私のこと、よく見てるんだねって。ねえ、それはどうして?」


 さっきまで俯いていたその目が、こちらをまっすぐ見据えている。私はたじろいだ。  

 大きな目、通った鼻筋。彼女はやっぱり、きれいに見える。


「どうしてって……」

「同じ委員会っていうだけで、普通そんなに気にしないでしょ」


 普通、委員会に来なかったりしたら怒るだろうし、他人でいよう、なんていきなり言われたらどん引くだろうし、


、なんて言われたら傷つくものでしょ。それなのに、なんで貴女はまだ私に構ってくるの?」

「そんなの……」

「……」

「……く、クラスメイトが悩んでたら、何とかしたいと思うものでしょ」


 私が言うと、高幡さんは大きなその目をすっ、と細めた。

 見覚えのあるその目。


「……クラスメイトだから、友達だから、貴女は私に構うの?」

「……」

「……ねえ、程久保さん。だったらもう、私に話しかけたりしないで。お願いだから、なんの関係もない赤の他人のままでいて」

「……それは、どうして?」

「苦しいから」

「苦しい?」

「好きだから」

「すき?」

「程久保さんのことが好きなの、だから苦しいの、だからもう話しかけないでほしいの」

「……」


 すき――という、彼女から発せられた言葉。

 それが思いがけないものなのかどうなのか判断するより前に、そもそも言葉がうまく頭のなかに入ってこない。あれだ、下手くそな嘘をついたときみたいに、普段の自分ってなんだっけ、って見失ったみたいな感じだ。ふわふわしちゃって。ああもう。

 それでもわかるのは、彼女の言葉は嘘なんかではなく、それは私が引き出してしまった彼女の本心だということ。 

 その言葉は単純過ぎるほど単純で、それゆえに彼女のことをずっと苦しめていたのだろう、ということは、このふわふわした頭でも理解できた。


「中学のときに、それで色々あったの。女の子なのに女の子が好きなんてだからね」


 彼女は先を続ける。淡々とした様子で、感情を抑えるようにして。


「だから高校では隠すことにしたの。うっかり誰かと仲良くなって、好きにでもなったら大変でしょ?」

「……」

「だから初めて会ったときから、貴女のこと警戒してたんだ。私の好きな感じだったから。好きな相手にまた『気持ち悪い』なんて言われたら、最悪だもん。それなのに、まさか私がそれを貴女に言っちゃうなんて」

「……」

「ごめんね、最悪なのは私の方だった」


 できれば黙っていてくれると嬉しいけど、でもなんにせよ、もう私のことは気にしないでね――そう言って高幡さんは勝手に話を終わらせようとする。

 まだこっちがなんにも理解できていないのに。


「ま、まって」

「待たない、もう帰って」


 立ち上がって、私の右の手首をつかんで立ち上がらせようとしてくる。

 私は抵抗する。


「や、やだよ」

「やじゃない、帰って。もう分かったでしょ」

「わかってない、なんにも」

「なにがわからないの?」

「え、えっと……それは」

「私はわかってるよ。貴女は私を気持ち悪いと思ってる。変なやつだって思ってる。変なやつがいる家にこれ以上いたくないでしょ」

「か、勝手なこと言わないでよ。気持ち悪い、なんて思ってない」

「……」


 私の手を掴んだまま、高幡さんの動きが止まった。

 私も動きを止める。


「……じゃあ、どう思ってるの」

「……」

「……ほら、答えられないでしょ」

「それは、いきなり訊かれたから」


 どう思ってるか、なんてそんなことを簡単に言えないじゃないか、と思う。

 高幡さんのことをどう思ってるかなんて、はっきり言葉にできるほど私にだってよくわかっていないのに。


「でも、気持ち悪い、なんて本当に思ってないよ。変だとも思ってない」

「……じゃあ、どう思ってるのよ」


 誤魔化さないでちゃんと答えて――私の腕を掴む力を強めながら、彼女はもう一度そう言った。

 私はふわふわしちゃってわからない頭を振り絞りながら、それでも伝えられる言葉を探して彼女に伝えようとする。


「あ……」

「……」

「頭、いいと思ってる」

「……誤魔化さないでって」

「ほ、本当だもん、本当にそう思ってる。高幡さんは成績がよくて、きれいで、一人でも平気そうで、すごいなって思ってる。だけど、」

「……」

「本当は無理してるんじゃないかなとも思ってる」


 挨拶されて無視したあととか、お昼を一人で食べてるときとか、成績がいいって言われたときとか。


「高幡さん、いつも目を細めるでしょ。その仕草がまるでなにかに耐えているように見えるの。私は高幡さんのそんな顔を見たくないって思ってる、そのために私にできることがあれば……」

「じゃあ付き合って」

「……え」

「そこまで私のことがわかってるなら付き合ってよ。頼んでもいないのに勝手に理解して、話しかけないでってちゃんと言ったのにそれでも近づいてくるっていうなら、付き合って、付き合ってよ。それが無理なら離れて」


 ――お願いだからこれ以上苦しめないで、期待させないでよ。

 彼女はそう言って、手を離した。

 淡々とした様子は崩さないまま、しかし強くつかまれていた私の右手首にはその痕ができている。私は赤くなってしまったその痕を見てようやく、すき――というさっきの言葉が頭に届いて、胸の奥にすとんと落ちてきて、そのあまりの重さにおののいてしまう。


「……」

「……こうなるから、嫌だったのに」

「……」

「こうならないように、頑張ってたのに。初めて会ったときから警戒してた。眠そうにしてたその目がいい感じで、新しいクラスだっていうのに緊張感もなく寝癖がついてたのがあほっぽくていい感じで、自己紹介の時の声も好きな感じで、あ、いいな、って思っちゃったから気を付けてたのに、それなのに同じ委員会になっちゃうし、だから引かれるためにわざわざ委員会をばっくれたりしたのに、嫌な顔ひとつしないで迎えに来てくれるし。そういうの、全部苦しかった。好きな人に嫌われるように振る舞うのってきついんだよ。見たくないのに目で追っちゃうし。そしたら転んだりしてるし。気がついたら私も駆け寄ってるし。喜んじゃいけないのに、保健室で二人きりになれたのは嬉しかったし。このままじゃやばいって思った。だからもう終わりにしようと思って、突き放したのに。それなのにもっと話しかけてくるようになるし。もうどうしたらいいのかわからなかった。嫌われるためにやったことをいちいち乗り越えてこられる度に、好きになっちゃうような気がしたの――」


 高幡さんはあくまで淡々と、意地でも感情を表に出してしまわないように淡々と、でもそれが途切れてしまわないように言葉を続ける。

 まるで私が口を挟む暇を与えないようにと、息を吐ききったらすぐに吸って、隠していたはずの本音を呟き続ける。

 まるで言葉で砦を作っているようだ。

 追い詰められた彼女の、本音で積み上げたバリケード。


「こんなの自分でもバカらしいと思うよ。入学して半年とちょっとしか経ってないのにこんなの大袈裟だって。でもだめなの。笑って迎えに来てくれるのが嬉しくて、これ以上近くにいたら引き返せなくなるってわかるから。そしたらまた気持ち悪いことになっちゃうから……」

「気持ち悪くないよ」


 これ以上積み上げようとするその本音を遮って、私はそう言う。


「……やめて」

「やめない。だって気持ち悪くないもん」

「やめて」


 高幡さんはこちらを向いたまま、私のそばから離れていこうとする。

 私は絨毯の上から立ち上がって、痺れてしまった足によろめいて、こんなときに間抜けだなあ、と思いながら彼女のことを追いかける。


「やめてよ、これ以上近寄ってこないで」

「……じゃあ、気持ち悪くないって言って」

「は、はあ?なにそれ」

「私、高幡さんがそんな風に自分のことを言うのは嫌なの。だから、気持ち悪くないって言って、そうしたら離れてあげる」

「……」


 高幡さんの表情に困惑の色が浮かぶ。言われた言葉を必死に理解しようとしているような一瞬の沈黙。そして、


「……む、むり」


 と言った。


「むりだよ、だって、気持ち悪いもん。貴女もそう思ったでしょ?」

「……思ってないって言ってるのに」

「こ、こないで」


 拒絶されて構わず彼女のことを追い詰める。

 話しかけんなって言われて、泣かせて、本音を言わせて、こんなに拒絶して嫌がっている相手を、それでも追い詰めるなんて。こんなの全く私らしくないし、そうまでしてたどり着いた彼女の想いの深さには、おののいたままだ。それを本当に自分が受け止めきれるのかもわかってない。

 それでも、ここで彼女のことを逃がしちゃいけないと思う。

 ソファーの隅まで追い詰められた高幡さんは他に逃げ場もなく、そこにぽすん、と座った。

 私に見下ろされている彼女はさっきまでの淡々とした様子を崩していた。

 もちろんりん、としたいつもの彼女もここにはいない。

 今の高幡さんは、迷子になってしまってどうしたらいいかわからない子供のように、戸惑いと怯えの混じった目線でこちらを見上げてくる。

 気持ち悪い――そんな言葉の刃はきっと、今日の校門前ではなく、もっと昔から彼女の胸に突き刺さっていたのだ。そして今でもその血は流れ続けていて、それを見せつけて他人を遠ざけることで、彼女は自分を守っていたのだろう。

 余計なことをしてこれ以上傷ついてしまわないようにって。


「……高幡さん」


 そんな風に彼女のことを理解してくると、わからなかった私の気持ちもだんだんはっきりしてくる。

 私はしゃがんで、ソファに座った彼女に目線を合わせる。目の前にある彼女の膝に手をおくと、私の手の動きに合わせてびくりと震えた。

 細身のジーンズに隠された、傷当てパッドがある辺り。触るとひんやりしていて、だけどそのまま触れていると、だんだん暖かくなってくる。


「……」


 きっと心の傷の手当ては、こんな風に、膝の手当てのように簡単にはできないだろう。

 それでも、私がやらなきゃいけない。

 私がやりたい。他の人には任せられない、と思った。


「私が付き合ったら、これからもそばにいさせてくれる?」


 私がそう訊ねると、彼女はぶんぶん首を振って拒絶の意を示した。


「……だめなの?」

「だ、だって、程久保さんは私のこと別に好きじゃないでしょ。そんな同情みたいなのいや」

「高幡さんのことは好きだよ?」

「そ、それは友達としての好きでしょ」


 女の子が好きとかそういう訳じゃないでしょ――彼女はそう言う。

 そう言われて、私は考える。

 確かに女の子が好きだなんてことは考えたこともなかった。そういうことがあるのは知ってたけど、自分には関係ないことだと思っていた。

 だけどそれは、考えたことがなかったっていうだけの話だ。

 例えば、「クラスメイトとは仲良くするもんだ」って、最初から決めつけていたのと同じ。その事についてちゃんと考えれば、たまたま同じクラスになっただけなのだから、仲良くできない人がいるのは当たり前のことだと分かる。

 仲良くするものだ――そう思っていた私にも、ほとんど話したことのない生徒はいるのだから。

 だから、ちゃんと考える。


「……確かに、女の子が好きって思ったことはないよ」

「……」

「でも、高幡さんのことは好き。ねえ、これっておかしいのかな?」

「……おかしくない。だって貴女は『友達として』、私のことが好きなだけなんだから」

「……そうなのかな」


 本当にそうなんだろうか。

 それだって、なにも考えないで、「同じクラス」の「同性」だから、ただの友達だ、と思っていただけなんじゃないだろうか。

 つまり、だから、もし、私と高幡さんが「友達クラスメイト」じゃないとするなら、それでも彼女のそばにいたいというなら、その関係はなんなんだろう。


「……ねえ高幡さん、私ね、今日の自分はまったく自分らしくないって思うんだ」

「……」

「ていうか今日だけじゃなくてね、私の知ってる普段の私なら、友達に来ないでって言われたらそれ以上踏み込まないし、話しかけんなって言われたら話しかけないし、止めてって言われたら止めるんだよ。でもね、高幡さん相手だとどうしてかそれができないの。ダメだって言われてるところまで踏み込みたくなっちゃうの」

「……」

「ねえ、それってどうしてかな?」

「わ、私に訊かないでよ」

「でも、高幡さんならわかるんじゃないかって、思って」


 友達じゃなくて、それ以上に気になる存在。その正体について。ずっとずっと思い悩んでいたであろう高幡さんなら。


「……」

「……」

「……ねえ、高幡さん。あのね、あなたに『付き合って』って言われて、びっくりしたけど、嬉しかったよ。だって誰かにそこまで想われたことなんてないもん。好きっていう言葉が、あんなに重いものだっていうのも初めて知った」

「……」

「だから、その、私もよくわからないんだけど、その、こんな私でよければ……お付き合いさせていただけると、嬉しいなって」

「……」

「……」

「……」

「……思うんだけど」

「……」




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