エピローグ――高校二年生、冬



 終業のチャイムが鳴っている。

 今日も無事に学校が終わった。大あくびをして叶ちゃんにつつかれていたのが今日の朝のこと。それからもう八時間も経ったのか、とちょっと驚く。

 今までのことをぼんやりと回想していたら、いつの間にかこんな時間になっていたという感じだ。


「……」


 しかしまあ、こんな風にのんびり屋の私でも、嫌なことの一つや二つはある。人間は心配事な生き物なのだから、私だって心配事な生き物なのだ。 

 今までの私は、そういうことがあったときには、祖父のアドバイス通り、敢えてさらにのんびりすることでやり過ごしていた。

 今まではそれでよかった。私の肌にも合っているし。

 しかし最近――具体的には去年の冬から――はもっと良い方法を見つけていた。

 心配事に出会ってしまったときの、その対処法。


「……」


 例えば嫌なことがあったとき――気だるい朝に起きたくないなって思うとき、誰かの悪意にふと触れてしまったとき、授業が退屈だなあってとき――私は今よりも髪の長かった、一年前あのときの彼女の姿を思い浮かべてみる。

 ソファに座りながら真っ赤になってうつ向いて、しばらくしたら無言で頷いてくれた彼女の表情――

 そのあとに見た、部屋の明かりに照らされて宝石みたいに光っていた彼女の涙――

 それを思い浮かべると、私はいつの間にかベッドから起き上がっているし、知らない誰かの悪意も大したことないなって思えるし、退屈な授業は、こうしていつの間にか終わっていたりするというわけだ。

 十二月前半の、とある冬の日。放課後。


「今日も家庭教師の先生ー?」


 という叶ちゃんの声に送られながら校門を出て、自宅への帰り道を途中まで歩き、大通りまで出たところで自宅とは別の方向へ曲がる。

 青い看板のコンビニに立ち寄って買い物をして、そこからしばらく歩いて、昔の私は知らなかった路地を進むと、やがて四階建てのマンションが見えてくる。

 エントランスの前に口を開けたライオンのモニュメントがあるのが特徴の、もうすっかり見慣れた建物。インターホンに部屋番号を入力すると、こっちがなにか言う前にドアを開けてくれた。


「……」


 エレベーターで三階まで上がると、学校から先に帰宅していた高幡さんがそこまで迎えてくれていた。

 制服のブラウスに灰色のカーディガン、黒い細身のジーンズという出で立ち。りん、としたその表情。


「ごめん、待った?」


 そう訊くと、高幡さんは「待ってない」と答えた。


「こっちこそ、いつも遠回りさせちゃってごめんね」

「いいって」


 こんな風に、私たちが付き合っていることは誰にも秘密にしている。

 だから一緒のクラスでありながら私たちは一言も会話を交わさないし、放課後のチャイムが鳴れば高幡さんはさっさと帰るし、私はこうして一人で帰る振りをしてから彼女の家に来ているというわけだ。

 進級して委員会も別々にしたし、他人から見たら私たちの間にはなんの接点も見つからないはずだ。たぶん。

 高幡さんが玄関のドアを開けてくれる。室内に入って、ドアががちゃりと閉まると同時に、背中に柔らかい衝撃を感じた。


「……」

「……やっぱり、待ったの?」

「……ちょっとだけ」


 冬はすぐに日が落ちちゃうから嫌――そう言って高幡さんは私の首元に顔を押し付けてくる。いつもはこんなことしないけど、時々、こうしてくっついてくることがある。

 玄関のジャスミンの香りよりもさらに甘く感じる彼女の匂いがして、私はくすぐったいような、もどかしいような、見てはいけないものを盗み見てしまったような気持ちになる。

 なんとなく、罪のようななにか。


「――ねえ、ほら、お土産買ってきたよ」


 そんな気持ちを誤魔化すために、私はコンビニの袋を掲げてみせる。

 中にはチョコレート味のプリンがふたつ。この前見かけていつか買ってこようと思っていたやつだ。こんな風にチョコレート系のなにかをあげると高幡さんがが喜ぶことを、私は知っている。

 しかし高幡さんは「……ありがと」と返事をしたけど、その歯切れは悪かった。

 買ってきてくれたのはほんとに嬉しいんだけど、そんなことより早く来てほしかった――と言いたげなその声色。

 いつものことだ。

 私はいつも、こうして家まで来て、私を待っていてくれたその姿を見ると「ああ、寄り道なんかせずに急いで来ればよかった」と思うし、しかし帰っている道中には「彼女のためになにか買っていきたい」と思うのだ。

 どちらにせよ思い悩むことになるんだけれど、でもこうして悩むことができるのは、そういう相手がいるというのは、素敵なことだと思う。

 とてもとても。


「……」

「……」


 リビングに行って、黒いちゃぶ台に向かい合って、いつもの通り私たちは勉強を始める。

 私たちは暇さえあれば勉強ばかりしている。

 こうやって一緒に勉強をしていると、高幡さんはつくづく成績がいいと感じる。いつも私は教えられてばかりなので、叶ちゃんに彼女のことを家庭教師と言ったのもあながち嘘ばかりではない。

 こうしてこの家で一緒に勉強するようになったのは、付き合い初めてからすぐのこと(その時あまりの学力差に驚いた私が思わず、「一緒に勉強をするなんて邪魔にならない?」と訊いたら、「別に今から受験でも大丈夫だから大丈夫」という答えが返ってきた。なんだそれ、と思う)。


「……」


 この一年間、私たちは一緒の時間を積み重ねてきた。

 放課後をこの家で一緒に過ごしたり、休日になったらちょっと遠出をして大きなショッピングモールに行ってみたり、うんと遠出をして海の見える公園とかに行ってみたり。

 そんな風に一緒に過ごしてみると、彼女の勉強ぶりに驚かされる。どこに向かうにも参考書や単語帳を携帯しているし、小論文対策と称していつも難しい本(哲学や経済、歴史書や古典文学など、そのジャンルは多岐に及ぶ)を読んでいるし。その上私といない時間もほとんど勉強に当てているというのだ。その様子は勤勉、というより中毒、といった方がいい。


「どうしてそんなに勉強をするの?」


 そう聞いてみたことがある。二年生に進級したばかりの頃、この部屋で。

 彼女の目の下には大きな隈ができていて、徹夜で英字新聞を読んでいたとのことだった。

 高幡さんは少し考えたあと、


「弱いからかな」


 と答えた。その表情は笑っていて、私たちの服からは春の匂いがしていた。


「弱い?」

「あのね、勉強って「正しい」ことでしょ?私、自分で自分を支えられないからさ、勉強にすがってないと不安で不安で、ちゃんと立つこともできないの」


 正しいことをしていれば、正しい人間になれるでしょ――そう話す彼女に私はなにも言うことができなかった。

 そんなに無理しないでよ、と思ったし、

 私では支えにならないのかな、とも思ったけど、

 彼女にとってのそれが、簡単に解決できるような問題ではないこともわかっていた。

 だから、一緒に勉強をすることにしたのだ。

 勉強それに支えられているという彼女を、まるごと支えるために。


「……」


 なんてまあ偉そうなことを言ってみてるけど、実際に勉強を教えられているのは私の方だ。簡単な英単語のスペルを間違えたり、歴史の年号をど忘れしたりする度に、私は自分がいかに勉強をしてこなかったかを思い知って恥ずかしくなる。


「……」


 しかしまあ、そんな風にお間抜けな私のミスを「しょうがないなあ」って指摘する彼女の表情はどこか楽しそうで、最近は目の下に隈を作って学校に来ることも少なくなってきているんじゃないか、と思う。


「……ねえ、程久保さん」

「なに?」

「そっちにいってもいい?」


 高幡さんは参考書から顔を上げずにそんなことを訊いてくる。

 いいよ、と私が答えて、ちゃぶ台と身体の間に彼女のためのスペースを作ってやると、彼女はまるで猫のような身軽さでそこに移動してくる。


「……」

「……」


 私の目の前に高幡さんがいる。

 目の前からは、甘い匂い。私はまたくすぐったいような気持ちになる。

 初めてこの家に来たときに感じた緊張感、その先にはこのくすぐったいような、もどかしいような、触れてはいけないものに触れているような、そんな気持ちがあったのだと、今ならわかる。


「あのね、ひとりで勉強をしているとね、だんだん不安になってくるの」


 自分の分の勉強道具を引き寄せながら彼女は言う。

 彼女が発したその言葉の振動が私の胸まで伝わってくる。


「でもね、その不安は勉強してないときに感じる不安とは違うの」

「うん」

「あのね、勉強してないときに感じるのはね、誰かに追い立てられる時みたいな、居場所がないみたいな不安なんだけどね、ひとりで勉強しているときに感じる不安はね、そのままの形で、そのまま、自分が消えていってしまうんじゃないか、っていう不安なの」


 まるで一人きりでかくれんぼでもしているみたいに、誰にも気づかれることもなく、ただそのまま、一本のろうそくの火が揺れて消えるみたいに、一人きりの星屑が宇宙空間の果てまで消えていくみたいに、私も消えちゃうんじゃないかって。


「つまり、私がこうして勉強をしていることにはなんの意味もなくて、それは私自身になんの意味もないってことで――そう考えるとすごく怖くなって、心細くなるの」

「うん」


 私がうなずくと、彼女は笑って、


「だからね、そんな風に返事をしてくれると、ほんとに嬉しい」


 と言った。


「こうして後ろにいてくれると、ほんとに嬉しい。ほんとだよ?」

「うん、わかってるよ」

「……えへへ」


 そう言って高幡さんはまた笑った。

 学校では見せることのない柔らかな雰囲気、その声色。

 それにこうして触れることができて、私は心の底から嬉しいと感じている。


「……」


 彼女のことについて、私にはまだ知らないことが山ほどある。

 中学時代になにがあったのかとか、長い方が似合っていたその髪を、私と付き合い始めたとたんに切ってしまったその理由とか、他にも細かいことがたくさんあって、彼女の心の傷を手当てする立場の私は、今すぐにでもその全部を知っておきたい。

 だけど――


「ねえ、高幡さん」

「なに?」

「私も、好きだよ」

「……えへへ」


 焦ることはないんだ、と思う。

 彼女は笑ってくれている。

 こうして私が見守っていれば、いつか彼女は歩み寄ってきてくれるだろう。

 私はただそれを待っていればいい。敢えてのんびりとした気持ちで待ちながら。ちょっともどかしい気持ちを抱えながら。

 でも、彼女のそばにいられるなら、そういう時間も悪くないと思う。

 壁にかけてあるアナログ時計の針がまたひとつ、静かな音をたてて進んだ。


 

 







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