Origin.05 ブラック
地球が静止する日
後にブラックの名で呼ばれることになる
下級武士の次男坊として生まれ、元々の通称は次郎であったが、幼いころに萩に住む叔父の養子となり、利一郎と改めた。
叔父もまた次男坊であり、家禄を得ていなかったが、剣術に長けており、毛利家の指南役として取り立てられえることになった。だが、子に恵まれなかったため、後継者として利一郎を呼び寄せたのだ。
叔父の指導はスパルタと呼ぶべきものであり、言葉よりも前に拳固が飛び出る。しかし、それは家父長を重んじる封建制の世の中にあって珍しいものではない。利一郎もまた疑問に思うことはなかった。柳生新陰流の免許皆伝を得るまでに上達すると、叔父への尊敬とともに深い感謝を抱くまでになっている。
だが、その封建制の社会を揺るがす出来事がこの時代の日本では起きていた。有名なペルリ提督の黒船襲来である。
これはやがて萩にも伝わり、ちょっとした騒ぎになった。そして、そのペルリの黒船に乗り、帰ってきたものがいる。破天荒な行動力と天才的な頭脳を持つと噂される
若者たちは吉田松陰のもとへこぞって訪れ、その指導に耳を傾けるようになった。
とはいえ、利一郎はその輪の中に入らない。
萩は
そんな時勢にあって、利一郎は諸国漫遊の旅を願い出た。それは武者修行の旅であり、各地の剣術道場で他流試合をして回るのだ。
剣の道を極める。そんな気概があった。道場破りのような粗野な習慣は廃れて久しいが、そんな気分もある。
勝ったり負けたりを繰り返したが、だいたい勝った。だが、会津の道場でその自信が打ちのめされる。十本勝負し、十本負けた。聞き覚えのない流派だという侮りがあったのは確かだ。だが、そんな油断なんて言い訳にならないほどのコテンパンだった。聖徳太子流というのが、その流派の名である。
利一郎の鼻は折れた。自分はまだまだ未熟者だ。強い奴はいまだ山ほどいるのだろう。そう思うと、なぜか心が楽になった。叔父による強烈な教育の呪縛が解けたのかもしれない。流派にこだわる気持ちも薄くなる。
勝敗を気にしなくなった途端、利一郎の勝率は上がったが、それに気づくことはなかった。
しかし、旅の間に大変な事態が起きている。久しぶりに帰ってきた萩は騒然となっていた。
吉田松陰が幕府に召喚され、そして処刑されたのだ。松陰の師事を受けた者たちは殺気立った。
その怒りが歴史のうねりとなり、時代を動かすようになるのだが、それは本稿の主題ではない。
利一郎にも志があり、憂いがある。神州亡国の危機であることも実感していた。このまま手をこまねいているべきではない。そうも考えている。
だが、一連の運動の外側にいた。
松陰の弟子たちは自分たちを正義と名乗った。正義派、正義党であると。
自らを正義と呼ぶものは他者の価値感を許すことはできない。それは差し迫った危機に鋭敏だったからではあるが、先鋭化した彼らは文字通り世界を敵に回した。
京で隆盛を誇った長州志士たちは都を追われ、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの四カ国の艦隊が下関を襲う。防長二州は未曽有の危機を迎えていた。
ここに来て、利一郎も戦いに参加する。起死回生を画し、長州藩と浪士の集団が京都に攻め込んだのだ。そこに利一郎もいた。
数多くの藩士たちが必勝を期し、命を投げ打って戦いに挑んだ。それを捨ておくことは利一郎にはできない。
結果は惨敗である。のちに禁門の変と呼ばれる戦いにおいて、激戦区といわれた
砲撃により周囲の家屋は破壊され、火の手が上がる。そこかしこに死体があり、血の匂いと火薬の匂いが混ざり合う。まるで地獄の様相であった。
仲間の死を幾度も見送る。豪放磊落な
「これが正義の結末か……」
利一郎は呟く。そこに、
しかし、なぜだろう。周囲が静まっていくような感覚があった。槍を構えた
生き残りはもはや利一郎のみ。多勢に無勢。だというのに、余裕すら感じられる。
敵の攻撃が利一郎を襲った。
その動きが手に取るようにわかる。槍の刃先がどのような軌跡を描いて自分を襲うのか。槍使いの体捌きはどう変化するのか。その先の武士の息遣いまでが生々しく実感できる。
まるで、自分が時の流れの傍観者になったかのようだ。
時が止まっていた。
人は死の間際、瞬きをゆっくりに感じるという。アスリートは集中した際に時間を緩やかなものと認識するという。
だが、利一郎は完全に時が静止したことを理解していた。極まった撃剣の技術が時間を超越したのだ。
――あなたは時間の外側に来たのです。
話しかけてくるものがある。それは人間ではなかった。いや、生命ですらないのであろう。
ただ、形を取る。それは黒い雄牛であった。
――この時代でのあなたの使命は終わりました。
これから更なる時を重ねた果て、未来世界であなたの使命があるのです。
奇妙な話だが、不思議とすんなり飲み込める。確かに、自分はもう死んだようなものかもしれない。
だというのに、後の世に果たすべき役割があるというのだ。なぜだか、晴れやかな気分だった。
黒い雄牛に案内され、利一郎は未来世界へと舞い降りる。
「ここが未来世界とやらか」
辺りを見渡した。当然のことであるが、見るものすべてが利一郎の時代にはなかったものである。高く積み上げられた建物、固く舗装された道、見慣れぬ樹木や花々。
愛い。見るものすべてが愛おしい。
それは老人が孫に対して抱くような愛着であった。そして、それを汚すものがいる。
「想像以上にいけすかん。くすんだ黄土色の兵士ども。こいつらが後の世を乱しているというのか」
初めて正義と呼ぶべき感情を抱いたのかもしれない。
それに反応したのか、時の歪みが黒い鎧となって顕現し、利一郎を包み込む。この時より、利一郎はブラックとなった。
ブラックの正義を呼び起こしたものは溺愛である。その正義は未来に希望を齎すものであるのか、それとも盲目なものでしかないのか。果たして――。
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