四章 翡翠の王国と騎士アクセルの初恋
再会の女騎士(1)
さあと吹いた夏風がアクセルの頬をかすめていく。
その風に乗せられてきたのは、亜麻色の長髪を
誰よりも気高く、清らかで、美しい『女騎士』の翠眼が、アクセルの呆気に取られた顔を確かに捉えていた。
「……グレンダ」
ずいぶんと懐かしく感じる響き。
名前を口ずさむなり、アクセルはグレンダへ飛びついた。
反応に遅れたグレンダが、勢いよく抱きつかれると体勢を後ろへ崩し、すでに地面へ着けていた尻に人間ひとり分の重さが加わる。
「ちょ、ちょっと」
「グレンダ、グレンダ、グレンダ、グレンダ……!」
体を押し退けようにも、アクセルの腕力は細身の割りには強い。
なにより、背中をかき抱き、肩へ顔を埋めながら夢中で名前を呼ぶ声は、幼児にでも返ったかのようにたどたどしくて。
「会いたかった」
飾り気も混じり気もない最後の言葉に、グレンダは両眼を揺らす。
「……はあ」
抵抗を諦めたグレンダが、
「まったく、仕方のない男ね」
赤子のおいたを許す母親みたいに。
そっと片手を伸ばし、アクセルの広い背中へ触れ、抱擁を甘んじて受け入れた。
もしかすれば、抱きついた程度で済んでいるだけ幸いかもしれない。
アクセルの両肩は荒ぶっていて、あふれ出た興奮を理性でかろうじて押し留めているのが吐息から伝わってくる。
その本心が、グレンダに対するどのような感情で向けられたのかまでは、彼女も完全には推し量ろうとはしなかった。
ただ、じっと黙ってそこに居続けることで、アクセルが心を鎮め、長らく隠し通してきたつもりであっただろう男の
とはいえ、ただの一度だって剣の稽古や訓練では、その両膝を地へ付かせてやれなかった同僚の無防備な姿に、グレンダもつい気を許してしまったのだろう。
茂みをかきわけ、二人の背後へ寄ってくる新しい足音を聞き落としていたのだ。
♰ ♰ ♰ ♰ ♰
「おい……」
低く唸る獣の声。はっとして振り返るグレンダ。
それは野獣の類ではなく、彼女がよく知る、もうひとりの男が放った怒声だった。
「僕のグレンダになぁにやってんだ、そこの金髪……!」
アルネ・ボムゥル。
野生的な土地柄にすっかり馴染んだ、半袖半パン姿で、しかしその艶やかな銀髪だけは色褪せず美青年の色香を漂わせていたが。
その髪が精神的苦痛で荒みかねないほど、アルネは目前で繰り広げられている状況を良しとしていない。
「あ、アルネ様」
グレンダはわかりやすく慌てる。やましいことをしたとまでは考えていない。
だが、さっきまで薪割りでもしていたのか、アルネの手には鈍く光る斧が握られていたのだ。
「身の程を弁えろよ騎士もどき。彼女とそういう時間を過ごして良いのは、あるじの僕だけだぞ……!」
「あちゃあ」
さらに背後では増援が駆けつける。少年少女の新たな目撃者。
グレンダの言いつけ通りにヨニーが呼んできたのは、どうやらアルネだけではなかったらしい。
「こ〜れはお熱いことでえ……」
給仕服を纏った少女、セイディがくしゃと顔をしかめた。
「なんでアルネ様を呼ぶ前に止めなかったのよ、ヨニーの考えなし」
「や、だってさ……なんか止めるに止められない雰囲気で……」
どんな雰囲気だよ、と誰かがツッコミを入れる暇もなく。
「さっさと離れろ、騎士の風上にも置けないヘリッグの女たらしヤロウ!」
見るに耐えかねたアルネは斧をぶんと放り投げる。
あさっての方角へ飛んでいき、そこらへんの木の幹へぐっさり突き刺さったのを、ヨニーが小声で「アブねっ」と喉を鳴らす。
空いた手のひらをぴしと指立て、地面と垂直に手のひらを差し向け、グレンダの肩に埋まったままだった金髪のつむじへ狙いを定めた。
「さもなくばこのアルネ・ボムゥルが、貴様の首を音速でぶち抜いて、叩き落としてやるぞ。こう、バキュン! って」
そんな攻撃的な魔法は、グレンダ含め誰も見た覚えがない。
アルネの妄言を鵜呑みにするどころか、半ば馬鹿にした調子で、
「……これはこれは」
気の抜けた声を出し、ゆっくりと顔を上げるアクセル。
ああ名残惜しい。
彼女の優しさに付け込んで、もうしばらくはこうしていたかったのに。
そんな本音を胸の奥へしまい込み、アクセルはグレンダの両肩を解放した。
自分の行いを棚に上げ、あたかも騎士の自分のほうこそ、言い寄ってきた女性を優しくも軽くいなしたかのごとき飄々さで。
「騎士ひとり手元に置いておくのも憚られる、ヘリッグの穀潰しサマではありませんか。いえ、ヘリッグではなくボムゥルでしたか?」
爽やかな笑顔を振りまく。
ただし、アルネへ突き刺していく言葉には毒しか塗り込まれておらず、間違っても好意や敬意のかけらは感じられない。
「これは失敬。まあもっとも、そのボムゥル領さえも、あなたの多大なるご活躍によりお取り潰しとなったわけですが」
「あぁーん?」
「この首を落とせるものなら、是非落としてみてください。そうやって優れた騎士と子どもの使者に囲われていないと、ろくに主人としての名目を保てないあなたのそよ風程度、わざわざ剣を持ち出すまでもありません。手刀でじゅうぶんでしょう」
アルネは透けるように白かった肌を、またたくまに赤く染め上げていった。
「かあーっ! 黙っていれば抜け抜けと!」
攻撃体制にいっそう身が入り、癇癪を起こした赤子がごとき騒がしさで、
「おい聞いたかグレンダ! こいつ、やっぱり騎士としても公子としてもろくでなしだ! こんなやつ、海に沈めておけば僕らも平和なままでいられたのにさ!」
「わかりました、わかりましたから」
「漂流してきた船をわざわざ手を尽くして島まで手繰り寄せてやった、命の恩人にも等しいこの僕を、敬うばかりか貶めようと画策してきやがる!」
「どうか手を下ろしてくださいアルネ様。彼に身の程をわからせる
喚き散らしているのをグレンダはしかめ面で諌めた。
いつのまにか彼女も膝を浮かし、これ以上アルネの気を悪くさせないようアクセルとの距離を置いている。
「……とにかく、アルネ様に無礼をはたらく余裕があるなら、早く説明責任を果たしてちょうだい」
「説明だって?」
「そうよ。起きてきたのはあなたが最後。とても残念で不本意極まりないけれど」
グレンダは心底迷惑そうだった。
「あの船の乗員で、今、アルネ様や私たちとまともに話ができそうなのが、あなたくらいしかいないのよ」
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