夏の風と旋律の導き(2)
歌を、聴いていた。
真っ暗な視界に一筋の光を灯すように。
まどろみの中でアクセルの耳を心地よく揺らす、女性の歌声。
子守唄──いや、数え歌だろうか。
あやふやな意識の奥底に沈み込んでいる間でも、その歌はノウドの公用語ではないようにアクセルは感じたが。
──でも、その歌をなぜだか僕は知っている。
──誰だ、僕へ昔話を語り聞かせるように歌っているのは。
夢? またしても走馬灯?
はたまた、アクセルが赤子だった頃の記憶か。
メロディアやミュリエルとさえも、まだ巡り合っていないような、遥か遠い昔の記憶。
拙くて、たどたどしくて、ぎこちなくて。
それでも、いかなる穏やかな風や気候よりも、その歌はあたたかくて。
(母さん……?)
アクセルはゆっくりと、まぶたを開いた。
暗く、おぼろげだった視界が、次第に明快となっていく。
真っ先に見えたのは緑の景色だった。
木々に囲まれ、その枝から漏れ出る日の光。
そして、歌声はやはり続いていた。
実際、夢から覚めてしまっても延々と聞いていたい歌ではあった。
あまりの懐かしさ、心地の良さ、聞き馴染みのある声色に、いつまでもこうしていたくなったほどに。
──ああ、そうか。
──この、独特な歌声を、僕はよく知っている。
♰ ♰ ♰ ♰ ♰
「……、あ」
その歌声の主に、言葉を失った。
アクセルの起床に気付いたのだろう。長らく上空で降り注いでいたかのようだった歌声が、引き潮のようにすぅと止んで。
「……負けたわ」
ぴしゃりと。
たった一言紡いだだけで、外の湿気をさあと振り払えるほどに。
「いえ、決してあなたの諦めの悪さや意地汚さなどではなく。どうやら、セイディとの賭けに負けてしまったようね」
冷たくも涼しげに、つれなくも爽やかに。
「先に到達するのは間違いなくタバサ様だと思っていたのだけれど。まさか、騎士団で担っているでしょう己が数多の職務を、こうも堂々と
どれほど悪態を吐こうが気高さ──美しさは、少しも濁る気配がなく。
「短い期間でずいぶん偉くなったものね? アクセル──いえ、『
あたりを囲む木々よりもうんと深くて複雑な色合いをした翠眼が、アクセルを澄まし顔で見下ろしていた。
がばと跳ね起きるアクセル。起き上がってから、己が持ち前の直感を初めて惜しく感じた。
真っ青なスカート越しに、長らく支えられていたのであろう両膝のぬくもりが、後頭部にほんのわずかだが残っている。
まさか、膝枕をされていたのか。よりにもよって、この冷酷無情を装った彼女に。
事実、彼女は相変わらず無愛想を演じていた。
笑みを消し、ふんと鼻を鳴らして、いまだ現実を受け入れきれていないアクセルへ目を細めている。
「え……、あ」
「残念極まりないわね。どうせなら、ヴァイキングや帝国の兵士でも来てくれればもれなくセイディとの賭けは両成敗、賊も遠慮なく斬り捨てられたでしょうに」
いまだに幻覚を疑っていた。
ジュビアや性格の悪い魔法使いが見せてくる、まやかしの類ではなかろうかと。
でも──ああ。
この飾らない言葉、あるがままの表情。
長らく同じ時間をかの学び舎で過ごしてきたアクセルには、とても見間違いようがない。
唯一。
アクセルのよく知る彼女と違っていたのは。
その艶やかな亜麻色の長髪を、左右に分けて縛っていた点だ。
世迷言では、なかったのか。
エリックがいつだかにほざいていた、ツインテールだスカートだとかいう──いかなる魔法よりもタチが悪くて、夢物語みたいな戯れ言は。
とはいえ。
「ほら、ヨニー。早くアルネ様をお呼びして」
近くにいたらしい別の誰かへひらひらと手を振り、
「私としては、そこいらの賊となんら変わりなく招かれざる客人といった感じだけれど、一度招いてしまったからには仕方がないわね。ここは私情を挟まず、平等に……いえ、あくまでも私自身が求められている職務に準じるとしましょう」
指示を送るなり再びアクセルへ向き直ってくる、彼女の姿は。
森の中で、ふかふかのベッドみたいな地面に座っていた、彼女の姿勢は。
「──いらっしゃいませ、ノウドの偉大なる騎士様」
どこまでも正しく、強く、気高く──美しい。
「ようこそ『翡翠の王国』へ。形式的にでも歓迎します。亡国の姫君なんて大それた肩書きではなく、この大地に同じ縁を持った──あなたの、いち同業としてね?」
ただ一点の翳りもなく、完全で十全な。
アクセルが憧れ、思い焦がれ続けた、『女騎士』グレンダであった。
♰ ♰ ♰ ♰ ♰
やっぱり、僕はまだまだ未熟だ。
どんな顔をして彼女に相対すれば良いのかとか、どんな第一声を返せば主導権を奪い取って彼女を逆上させられるかとか。
そんな、騎士として、男として、『女騎士』へするべき打算や計算のすべてを投げ打ち。
なんの捻りも策略も予備動作もなく。
その慎ましい胸へ一直線に飛び込んで──ただ、再会の抱擁を求めてしまうだなんて。
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