アクセルとメロディアの冒険(9)
危ない――と。
叫ぶ余裕すらなくアクセルの本能が、片足をハンヌ目掛け踏み込んでいた。
指か、足か、はたまた尻尾か。
それをつまびらかにさせる時間さえ惜しいほどの刹那。
魔の手がハンヌを捉えるより早く、アクセルは剣を抜きざま、――――ザンッ!
「…………へ」
唖然としてハンヌが振り返ろうとした、足元に。
転がる魔物の残滓。
海水だが体液だかよくわからない表面の濡れ具合と、柔らかな肉の周りを魚みたく覆っている、心もとない鱗。
「なにこ――」
離脱。
アクセルは少年の体躯を抱きかかえるように、すかさず甲板の中央へ引いた。
一同は彼らに起きた一部始終を、船内へ続く扉のすぐそばで見ていた。
現状を理解できていないのは――自分たちのみに置かれた状況が理解できていないのは、もうこれでハンヌが最後だろう。
目を丸くさせたまま、飛び込むように逃げてきた兄弟の片割れをひしと抱き留めたアルベルト。
「女子供は中に入れっ!」
ウーノが怒鳴る。
とはいえ、彼に仲間たちへ怒声を浴びせようというつもりは毛頭なかっただろう。操縦席へ駆け寄ろうとしたのを、
「なにをする気ですかウーノ氏!」
声のみで制したのはアクセルだ。
「海へは極力近付かないでください!」
「奴の縄張りを抜ける!」
切羽詰まった形相と声色で、
「よろずの生きモンってのはてめえのシマを守ることにご執心だ。そのシマに土足で乗り込んだのは俺らだ。俺らのほうが出ていきゃあ、奴も深くは追っちゃこない!」
ウーノが案じたそれらにアクセルも、異存らしい異存はなかった。
船乗りの勘が、身に起きている危険の正体にも原因にも、とうに思い至っていたのである。
魔物――クジラやサメ、自分たちが知る限りの、いかなる海の化け物とも似つかわなかった、怪異的存在の出現で。
ガシャンと、船体が再び激しく揺れた。
「きゃああっ!」
「メロディア様!」
立っていられずにその場でうずくまるメロディア。
ミュリエルはその肩を懸命に支えようとするも、自分が甲板を転がらないことで精一杯で。
アルベルトとハンヌの兄弟も、二人でぴたと体を寄り添い、手を握りあって震えている。
「散らばらないでください!」
そんな様子に、アクセルは毅然として、
「船内へ戻るなら許しましょう。ですが、絶対に散らばらないで。ウーノ氏も離れて!」
「んだと⁉︎」
今にもハンドルを握りそうなウーノへ警告する。
「固まっちまったら、なおさら俺らは奴の格好の餌食──」
「僕の視界を出るなと言っているんだ!」
再び海を飛び出してくる魔の手。
ウーノのあご髭に迫らんとしたのを、アクセルは目にも留まらぬ速さで駆けつけ、剣を振り払った。
「うおっ⁉︎」
その勢いでウーノは後転するように、メロディアたちがいた船体の方へ引き返していく。
異様な光景に、誰よりも正気を保てなかったのは意外にもタルヴォだ。
船体が揺れたはずみでずれた眼鏡を直そうともせず、
「ひ……っ」
一人で頭を抱えうずくまり、ガタガタと震えをきたしていたところを、
「タルヴォ!」
スヴェンが強引にずってでも仲間たちと引き合わせなければならないほど、彼は腰を抜かしていたのである。
目の前でハンヌが魔物に飲まれそうになった瞬間を、見てしまったのがいけなかったらしい。
「敵が単体か複数の群れなのかが判明しない限り、皆さんは僕の視界から決して外れないでください。──守れなくなる」
アクセルの言葉にはっとして、スヴェンはタルヴォを抱えたまま、
「──っ、こ、この生物をアクセル氏は知っているのですか⁉︎」
問いただそうとする。
「あなたであれば対抗できる代物ですか? およそこの世の生命体とは思えません……もし、魔法や、魔法使いの類が絡んでいるなら──」
賢しい彼はさすがに勘付いたのだ。
単なる巨大生物の縄張りではないのではないかと。つい先刻の掃討作戦でも『雨の魔女』が騎士団へ牙を剥いたように、例の孤島が──おとぎの国に棲まう、神や魔法使いが、なんらかの形で介入しているのではないかと。
アクセルは逡巡してから、
「憶測ですが」
伝える。
「この領域に近付いた船がことごとく転覆していると、ウーノ氏の周りで報告に上がっていたあれは……急変する天候による荒波よりも、波に紛れて迫り来る、これの仕業だったのではないでしょうか」
凍りつく一同。
波もいつのまにか荒ぶっているが、夜空に雨の兆しはない。
風に吹かれて揺れているというよりも、魔物が暴れている調子に合わせて、波と波がぶつかり合って不自然な揺れを起こしているようであった。
「ば……馬鹿野郎!」
誰もが絶句する中、かろうじて声を振り絞ったウーノが、
「それじゃあ、俺らも奴らの二の舞じゃねーか──」
「いいえ船長」
喚きそうになったのを、アクセルが振り返って。
「この船には、今までとは決定的な違いがありますよ」
笑いかけた。
荒れ狂う海上の空気を一変させるような爽やかな笑顔。
朗らかな表情、甲板全体を包み込むように広く見える背中。
──ぎらりと輝く剣先に、メロディアは息を呑んで。
「お兄様……!」
「ご覧にいれましょう。ここにいるのは、ノウド内外のあらゆる生物が恐れる『騎士』という生き物です」
♰ ♰ ♰ ♰ ♰
アクセルはふわりと舞った。
魔物に船を揺らされたはずみで両足が宙を浮いてしまった──のではなく、自らその懐へ飛び込んでいく。
今にも食らいつかんとする魔物の中心部へ、船の外へと。
「お兄様っ!」
悲痛なメロディアの声も届かない。
(先ほどの海渡……もしや、こいつに喰われたのか?)
ようやく目にした、海中の魔物にアクセルは冷ややかな視線を浴びせる。
それは群れではなく一体であった。蛇みたくうねる胴体、馬のひづめよりも分厚い爪足と、ほかのいかなる獰猛生物よりも鋭く光った牙。
(書物にあったセルマとかいう怪物か? いや……ハルワルド教官いわく、そいつは島の中で息を潜めているという話だったな)
となれば──番人、だろうか。
孤島へ続く道のりを最後の最後で阻む、番人。
(上等だ)
アクセルは躊躇いなく剣を振り上げ、その胴体へ深々と突き刺す。
さっきから船へちょっかいをかけていたのも、その大きな体躯だろう。
公開処刑だ、化け物。
これ以上お前たちの好き勝手にはさせない。
もう、僕の同志を、大切な人たちを、傷付けさせはしない──!
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