アクセルとメロディアの冒険(8)

 鳥が滑空している姿を自分でも視界に収めたアクセルは、なんでもなさげに口を尖らせた。


「別に鳥くらい。話題を逸らしてはぐらかそうったってそうはいきませんよ」

「い、いえそういう意図では……ただ、初めてではありませんか?」

「初めて? ええまあ、少なくともうちの妹に営みプレーの経験は皆無──」

「すみませんアクセル氏、やはりその話題は一旦止めていただいて!」


 ついに苛立った声を上げるスヴェン。

 彼からこういう、『夢遊病ドラム』連中と近しい雑な扱いを受けるのは、むしろアクセルとしては喜ばしい進歩だろう。

 もっとも、スヴェンの新発見は決して朗報ではなかった。


「こんな夜に、それもたった一羽。初めてでしょう。ここ二日間で何度か目にした時は、小さくても必ず群れを作っていたのに」


 海に変化らしい変化はない。

 だが、アクセルも次第に、鳥の様子がどこかおかしいことに気付く。


 一旦は止んだ雨。

 今にも再び降り出しそうな真っ暗な空を、ふらふらとアテもなくさまよう。


(どこへ向かっている? 昼間は、どの群れもそんな方角へは進まなかったのに……)


 はっとしてアクセルは確認を取ろうとした。


「スヴェン氏。この船、まさか進行方向を間違えてはいませんよね──」




 空から目を離した、その一瞬。

 アクセルの視界がさあっと明るくなる。意識が飛んだかのような錯覚。




(なんだ──⁉︎)


 再び見上げた空が、

 自分が甲板にきちんと足を着けているかさえ怪しんだ。海へ突然、身を放り込まれたんじゃないかと。

 急な夜明けが訪れたみたいに。雲のひとつもないほど。


 アクセルの視界には澄みきった──青い空が、広がっていたのだ。






♰ ♰ ♰ ♰ ♰



 青空を目撃したのも束の間。

 船上は先ほどまでの曇り空へと景色を戻してしまう。


 海渡うみわたりは、忽然と姿を消していた。


「…………」

「…………」


 顔を見合わせるアクセルとスヴェン。

 己だけが見た幻覚や夢ではない──と、互いの表情が雄弁に物語っていて。


「ぐおー……」


 視界の外側で聞こえるいびきに、二人してびくりと肩を跳ねさせる。

 甲板で唯一、なにも知らないでいるハンヌが寝そべっていたのを、


「……っ、ハンヌ!」


 叩き起こしに行ったのはスヴェンだ。

 血相を変え、少年の体躯をがしがしと乱暴に足で踏んだ蹴って、


「起きなさい、ハンヌ!」

「ぐおー……むにゃ……僕らは喧嘩してないよ、ママ……」

「ああこの、危機感ない双子め! アクセル氏、こっちの甘ったれは自分が引き受けますので、早急に船内の人たちを起こしに行って──」


 わずかにズレた眼鏡を戻す暇もないまま指示を出そうとした時。


 ──ガシャン!


「うひゃあっ⁉︎」


 船上が、激しく音を立てて揺れた。

 アクセルはかろうじて踏ん張れたが、ひ弱なスヴェンは態勢を崩す。


「スヴェン氏!」


 すかさず腰を低くしてスヴェンとハンヌの元へ駆け寄った。

 間違っても海へ放り出されないよう、しっかりとスヴェンの腕を掴む。今の揺れではさすがにハンモックのような安らぎは感じなかったのか、


「ふぁあっ? なになにっ?」


 ハンヌはぱっちりと目を開き、起き上がり、あたかも終始起きていたかのような意識の鮮明さで、


「クジラにでも当たった? それかサメかな?」


 船が揺れた原因を、なぜかこの場で誰よりもいち早く思い至る。

 比較的穏やかな旅が続いていた船にとって、今の揺れだけでも相当な異常事態だ。

 アクセルが呼びつけるまでもなく、ぞろぞろと他の船員たちが顔を出してくる。


「何事だ!」


 ウーノの呼びかけに、アクセルは。


!」




 理解に苦しむ第一声だったろう。

 聞き返そうとした彼らへ、アクセルは見たまま、感じたままを告げたのだ。


「我々はついに踏み込んだのですよ──おとぎの国、孤島へ続く海の領域へ!」


 すでに潮の流れは豹変していた。

 ぐらり、ぐらりと頻繁に揺れる船上では、普通に立っているのも難しい。

 他の漂流船やクジラなどといった大魚の仕業などでは決してないと、アクセルはすでに確信していた。


「領域だとお⁉︎」

「はい! 今しがた、不可解な空の変化がありました」


 夢中になってアクセルが説明する。


「領域と領域を隔てる、境界線のような……目には見えない線が海上にあって、この船はただいま、その線を踏み越えたのではないかと推察されます!」


夢遊病ドラム』の彼らに、メロディアやミュリエルも。

 アクセルが唐突になにを現実味のない話を口走っているのか、双子のいかなる戯れ言よりも訳がわからないという表情をしていて。


 ただ一人、スヴェンだけが。

 先刻の掃討作戦、その一部始終を知っていた男だけが、ふと思い付いた単語を口ずさんだ。


「──魔法」






 飛沫が上がる。

 覚醒しきっているのか、実はまだ夢とうつつの判断が付いていないのか。


「わ、冷たっ!」


 誰よりも飛沫の近くで突っ立っていたハンヌが、海水の冷たさと塩辛さに顔をしかめた時。

 ハンヌ以外の誰しもが、目に焼き付けた。


 にゅるりと妖しく少年へ伸ばされる、巨大なを。

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