深淵にのぞむもの(2)

「公爵か⁉︎」

「静かにしたまえ。あとは扉の前を見張っている騎士を、きみ伝いに上手いこと言ってもらって、ちょろまかすだけだ。公爵はどうにか騙くらかせたが、やはり騎士様は身持ちが堅そうだからな。……ああ、いや」


 タバサは鍵をあごへ当て、思い直したように。


「身持ちうんぬんについては個人差があるか? まあ少なくとも、あの団長どのに公爵と同じ手は通じないだろう?」

「ええ通じませんね。この僕にも」


 アクセルは肩へ置かれた手を払い除ける。

 なんて女だ、恐ろしい。アクセルの若くてもそこそこに濃い人生で、色々な女性を見てきた経験上、こういう、目的のためなら手段も相手も選ばない手合いとは深く関わってはいけない。


 本来であればタバサの蛮行をイェールハルドや誰かに告発するべきであったが、アクセルはとにかく、彼女から逃げることを優先した。

 タバサの目論みもはっきりしている。いくら鍵を有していても、彼女ひとりで向かえば必ず見張り番に詳しい事情を聞かれるだろう。最悪、イェールハルドへ確認を取りに向かわれてしまう。

 それでアクセルを同伴させ、公爵や団長ともすでに話が付いていると嘯いてもらおうという算段だ。


「騎士団の規則に反する行いはできません。あなたもどうか、スティルクの麗しきフリューエとして、ご自分が抱えている騎士たちに恥じぬ振る舞いを心がけてください」


 最低限の忠告だけはしつつ、廊下を速やかに歩き去ろうとしたアクセルの背中から、


「ええー? 協力してくれないのかあー?」


 タバサの猫撫で声が飛んでくる。

 そんな手に乗ってたまるか。僕はそこまで女性に飢えていない。

 彼女もどうしてわざわざ僕に狙いを定めてきたのやら。公子だからか、『海を翔ける鳥ペンギンナイト』期待のルーキーとでも買い被ってか。

 どのみち、そんな無理、そんな無茶、そんな無謀に、勝機なんて一縷だって見出せなかっただろうに──




「──あの中に」


 悪女の囁きが聞こえて。


「第七公子アルネ・ボムゥルと、その専属騎士──グレンダの、所在に関するヒントが眠っているかもしれない、と言っても?」






♰ ♰ ♰ ♰ ♰



 足を止めてしまう。


 走馬灯のように眠っていた記憶が掘り返されていく。

 幼少でのメロディアと屋敷で過ごした日々、ミュリエル、公爵、ヘリッグ集会、二人の意地悪な義姉、犬鷲、騎士学校、教官たち、先輩後輩、同じ志を抱いた──同志だと思っていた、


 ああ。忘れるべくもない。

 今の自分がイェールハルドに対してそうであるように、かつて稽古場で向かい合い、剣を握り、自分からなんとしても一本をもぎ取ろうと躍起になっていた、彼女。

 その様子を高みの見物し、ヤジを飛ばし、時には彼女に八つ当たられていた、あいつ。


 信じていたんだ、ついぞ最近までは。

 いや──なんだったらいまだに信じているんだ。彼らが志を同じくする騎士だと。

 どうか今も騎士であり続けて欲しいと、アクセルは心の底から願っていて。


(志を持ってはいけない。──だって?)


 イェールハルドの言葉を思い返し、ふつふつと抽象的な感情を沸かせていく。

 確かに自分は、騎士になろうとした最初の動機こそ不純であったかもしれないが、それで志まで捨ててしまったら、この先、他にどんな動機で騎士を続ければ良いのか。

 偽りだらけでかりそめだった己が騎士道を、今日まであたかも本物かのように振りかざせていたのは。


 ──自分が騎士でいられたのは。

 すぐ近くに、たとえ天地がひっくり返ろうとも揺らがぬ騎士道を有していた、彼らが居たからじゃないか。






♰ ♰ ♰ ♰ ♰



 資料庫に見張りの騎士はひとりのみだった。

 もともと警備がしっかりした本部の館内で、用などそうそう持たない場所へ何人も置いておくのは人手の無駄だろう。

 方便を駆使したちょろまかしも思いのほか簡単に通じる。まったく見知らぬ人間が押し寄せてきたなら警戒しただろうが、タバサにアクセルという信用に足る並びがよほど効果的だったようだ。


 まんまとタバサの誘惑に乗せられてしまったアクセルは、扉を念入りに閉め直す。

 入室するなり埃かぶった本棚へ遠慮なく近寄りじろじろ眺め、蔵書を物色し始めたタバサを部屋の内で監視しながら、さっきの走馬灯によって、彼女と会ったら開幕聞くべきだった新しい用件を思い出し、たずねてみた。



「ところで。……エリックは元気にしていますか?」


 例の国外逃亡幇助ほうじょで、騎士の彼にのみ処分が下ったのはアクセルも知っている。

 謹慎はまだ解けていないはず。そもそもタバサが彼と会っているかも怪しかったが。


「元気有り余っているよ」


 タバサは白々しく答えた。


「暇している上に、稼ぎがなくて実家への仕送りがままならんと愚痴垂れていたから、今は私の商会で面倒見てやっているんだ」


 あなたのせいで解雇クビになりかけたんじゃないか──とはわざわざ追及しまい。

 商会ということは、さては力仕事と調理要員か。体格や剣の才覚に特別恵まれていたわけではないが、エリックは訓練生の頃から料理や音楽といった、騎士としては副次的な業務ばかりやたら得意だ。

 ……まったく。

 事実上あるじとなっているタバサも大概だが、彼女の作法に倣っているのか、エリックもなかなか図太くてしぶとい。


「アレを使いっ走りに選ぶとは、さすがタバサ嬢は男を見る目がありますね」

「ん? ……ふっふ」


 嫌味のつもりが、褒め言葉と受け取られてしまっただろうか。

 振り返ってきたタバサは、楽な姿勢で壁に寄りかかっているアクセルを好奇の目で見据える。


「やはり、きみから見てもアレは曲者か」

「逆ですよ」


 アクセルはかねてより思っていた通りの評価を告げた。


「単に捻くれているだけです。本人はいかにも扱いが難しい男を演じているつもりでしょうが、その実、愚直なまでに目上の者へは一切逆らわないですから。……ええ。僕は……」


 改めて言語化すると、なぜか己の日頃の行いを内省させられつつ。

 わずかに目線をタバサから下げ、正直に伝えた。


「彼ほど、騎士に性分をした男を知りません」

「ほおう? まあ確かにね」


 タバサも異論なさそうに相槌を打つ。


「あいつは一度だって、私や騎士団の上司のめいに背く素振りを見せた例がない──きみやグレンダとは大違いだな?」


 言われたくなかった図星をつかれ、アクセルが黙りこくっていてもタバサは追撃を止めない。資料の検分だけは再開し、


「きみは公子と呼ばれるのを随分嫌っているようだが、ヘリッグの片割れではなくいっぱしの騎士と見られたいなら、誰に対しても常時、そう見られるための振る舞いを心がけるべきではないかね?」

「……お耳が痛い話です」

「私は別に嫌いじゃないが? それほどクロンブラッド勤めが性に合わなかったなら、いっそうちに来ると良い。エリック共々可愛がってやるぞ」



 軽口を叩いていたタバサはびたんと動きも言葉も止める。

 しばらく本棚の下段あたりを食い入るように見つめ、


「……あった」


 呟いたのをアクセルも聞き逃さなかった。

 詰め寄るような勢いでつかつかと彼女の元まで歩いていく。タバサが抜き取ったのは、書物とも呼べないほどに薄っぺらく、麻紐で結ばれた薄い本だ。

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