縁を結ぶ(3)
公邸で誰もが時間の感覚を鈍らせつつある頃、窓から見える空は少しだけ赤みがかってきている。
「メロディア! 良かった、まだ同じところにいたんだね」
ヴェール伯爵と別れたアクセルが、屋外テラスでメロディアの背中を見つけ出した時にはもうスヴェンや姉二人の姿はなかった。
「スヴェン様だけが伯爵の元へ戻ってきたから……どうしてお前も一緒に来なかったんだい」
「……お兄様……」
「じきに集会もお開きだ。最後になにか食べたいものがあれば僕が取ってこよう。……ああ、そっちの皿にはもう手を付けてはダメだよ?」
メロディアはアクセルに顔を見せない。
翳りゆく空をぼんやりと見つめ、テーブルの皿いっぱいのサーモンも長らく日差しを浴び続けたために生温くなってしまっている。
「ありがとうお兄様。けれどもうじゅうぶんですわ」
「そうかい。……その様子だと、スヴェン様とはもう話が付いたってことかな」
皿を拾い上げながら、アクセルはメロディアの横顔を盗み見て──はっとする。
その頬が夕陽で赤く染まっているわけではないと悟ったのも早かった。
「……! どうした?」
血色変えてさっと駆け寄ってきたアクセルに肩を抱き寄せられると、メロディアはドレスが汚れるのも躊躇わずにその涙を袖でぬぐう。
「いっ、いえ! なんでもありません」
「そんなわけがないだろう? なにがあった? スヴェン様になにか嫌なことでも言われたのか?」
「なんでもないのです、ええ本当に。とにかく、お兄様。わたしは予定通り、今回の縁談をきっぱりお断りすることが叶いました」
メロディアが気丈に振る舞い続けていても、アクセルの険しい顔は変わらない。
「ただでさえ嫁入りには時期が早過ぎますのに、わたしのようなお転婆に愛想を尽かさない殿方なんて、先にも後にもお兄様だけですもの」
「……いや、誤魔化されないぞ」
妹に対しては珍しく声を低めて、
「縁談についてはそれで良い。ただ、僕自身はヴェール領との縁がもうしばらくは切れそうにないんだ」
そう告げるとメロディアは目を丸くする。まだ泣き腫らした跡が残ったまぶたを、できるかぎり兄に見られまいと軽く押さえた。
「そうなんですの?」
「近々『
再び目を伏せたメロディアヘ、アクセルは言い聞かせるように確かめる。
「けど、もしそれがお前の心を乱してしまうなら、騎士団じゃ今の僕はしょせん烏合のひとり、その仕事自体を降りることだって──」
「それはいけません」
メロディアはきっぱりと告げた。
淀みない意志を持ち、改めて真っ直ぐな眼差しでアクセルを見据え、
「わたしのためにご自分が為すべき務めを蔑ろにするようなことは、決して」
「……でも、メロディア。僕の一番の務めは」
「もとよりお兄様のご心配が及ぶようなことも起きておりません。今のわたしはただ、空の赤さで感慨に耽っていただけです。……それに」
テラスで起きたことを思い出し、どこか寂しそうにメロディアが微笑んだ。
「お兄様は、スヴェン様とはこれからもご縁を持っておくべきです」
「なんだって?」
「お兄様には遥かに及びませんでしたけれど。……思っていたよりかは、悪い人ではありませんでしたもの」
♰ ♰ ♰ ♰ ♰
あのとき。
姉二人がもたらした衝撃的な暴露とスヴェンの青ざめた顔で、メロディアはもう終わったと直感した。
縁談どころではない。最悪、ヴェール領と自分自身、なによりアクセルとの関係は──
「……え、ええと。えー、あー、そのう」
しどろもどろになったスヴェンが、咄嗟に絞り出した声で。
「お話変わりますけれども、レイ様にベルラ様……でしたか? ええと、今はどちらの屋敷にいらっしゃるので?」
「は? ……ああ、わたくしはアビー家の長男の元で厄介になっておりますけれど──」
「あっアビー家ですか! それはたいへん素晴らしい!」
面食らったレイがなにかを言うより早く、スヴェンはぱあと明るい顔で懸命に口を動かした。
「アビー伯爵がここ数年で、騎士団とは別に自らご用意なさった護衛部隊があると伺っております! 他の領土では講じてこなかった新しい試みで、人件費も大いにかかるでしょうが独自の軍事組織を持つことによる将来的な恩恵は決して小さくなく……──」
などと得意の軍事雑学を長々と披露すれば、姉二人は怪訝そうにスヴェンを眺め、
「……なんだか変な男ね、レイ姉さん」
「そうねベルラ。案外メロディアとお似合いなんじゃないかしら」
とか嫌味を垂れつつも、そそくさと大広間へ退散していった。
ぽかんと口を半開きにしたメロディアが姉二人の背中を見送っていると、
「……はあ、なるほどお」
スヴェンはようやく早口を止めて、
「こういう話を女性に振れば例外なく避けられる……今しがた、メロディア様に教わったものが役に立ちましたね」
「……スヴェン様」
「すぐにお引き取りいただけて良かった。公爵様みたく一度に複数の女性をご満足させるような腕は、甲斐性のない僕には持ち合わせていないもので。……それで、ええと、メロディア様。無礼を承知で伺いますが、先ほどのお話は本当なのですか?」
「……っ! どうかお願いがございます!」
メロディアは我に返り、混乱したままの頭を深々と下げる。
予想だにしなかった反応でスヴェンがまたもあたふたしている間に、
「今のお話はどうか聞かなかったことに……伯爵様にも、誰にも言わないでいただけませんか!」
「ひっ!? ど、どうか顔を上げて」
「わたくしが誰にどう思われようと別に構わないのです。わたくし自身の不手際で縁談がなくなるだけであれば……事故の件も、ひとえにわたくしの不注意で……でも、もし、お兄様に破談のことでいらぬ誤解を受けてしまったら、わたし、わたし……!」
紡ぎ出されるメロディアの震える声とその思い詰めた形相で、スヴェンは図らずとも事の真偽に見当がついた。
しばらくはあごに手を当て考え込むようにしていたが、
「……難しいですね」
第一声でメロディアは、ひゅ、と乾いた息を漏らす。
「ああ、いえ! もちろん父上に今の話を言いつけるなんて無礼な真似はいたしません。ただ、今回の縁談については、父上にとっても瑣末ごとではないこともまた事実で……その、なんと申し上げれば……」
慎重に言葉を選ぶように、
「僕自身が綺麗事を言うのは容易いのです。身体の傷とか、もしかすればあるかもしれない後遺症のことなど、まったく気に留めやしないと僕が口ずさむだけなら。ですが、実際に婚約を決めるとなれば、メロディア様のそういった経緯について父上に一切の事情を説明しないわけにはいかないでしょう。かといって、今の僕は父上をどう説得すればいいのか……」
ぶつぶつと小声で呟いたのち、スヴェンは長い息を吐く。
メロディアの潤みかかった目をじぃと見据え、
「……残念です」
心底そう思っているかのような顔で、答えた。
「本当にアクセル様を大事に思っていらっしゃるのですね。メロディア様は話に聞いていたよりもずっと素敵な女性だ。……だからこそ難しい。今の不勉強な僕では、確かに、あなたを迎え入れるには時期尚早だったと認めざるを得ません」
「……ええそうでしょうね」
メロディアは掠れた声で、
「わたしも初めから、お断り申し上げるつもりでこちらには伺っているのです。ですから、どうか、今回の話はどうかなかったことに。この屋敷でお会いした時間も、見聞きしたことも全部。……ただ無かったことにするだけで良いのです」
「……僕はそうとまでは考えていません」
縋るように訴えかけると、スヴェンはゆっくり首を振る。
「ただ機を急ぎ過ぎただけですよ、メロディア様」
メガネを正し、席を立つ。
「出直してきます。ですが、僕は必ずまたあなたの元へ伺います。然るべき時に、然るべき姿形で。来年の集会か、あるいは、また別の新しい機会でも作って。その時にはどうか……次は、あなたが好きなものについて、たくさんお話を聞かせてください」
念を押すようにそこまで言い残し、スヴェンはテラスをひとり出ていく。
刹那、メロディアは崩れ落ちるように椅子から転がり落ち、わんわんと取り残された青空の下で泣き喚いたのだ。
ごめんなさい、ごめんなさいお兄様──と何度も繰り返しながら。
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