亡命の果て(2)
アルネはヴィオラを奏でながらひとりごちる。
背後にはお世辞にも美しいとは言い難い容貌をした、セルマが依然として眠っていたけれど。
(あの雨で、お前から授かったというこの魔法……)
複雑な感情を入り混じらせてアルネは息を吐いた。
(もしかしたら、今日この時のために与えられた贈り物だったのかもしれないな)
広がり続ける青い景色の中でついに旋律が途切れる。
魔法の力を使い果たしたのか、アルネがふらりと倒れ込んだ。体が完全に地へ着くよりも早く、
「アルネ様!」
駆け寄ってきたグレンダの両腕で受け止められる。
その場でゆっくり横にさせると、大仕事をやり遂げたような顔をしたアルネの細い指が、グレンダの頬へ伸ばされた。
「あぁ。……疲れたなあ」
どうぞお休みになってください、と声を掛けるつもりだった。
だが楽器を手放すなり、アルネはその腕でしかとグレンダに抱きついてくる。不意をつかれたグレンダも、アルネにしなだれかかるように空の上で寝そべって、
「あ、るね様」
「少し休もうか。きみも疲れたろ、一緒に寝ようよ」
「……ジュビアの監視はどうするのですか」
困り果てたように聞き返すと、う〜ん、と唸ったのか、ただ呑気にあくびしただけか。
「ひとりでじたばたしたってどうにもならないのはお互い様だろう。放っておけば良いじゃん」
能天気もこの域まで来ると笑えてくる。
舌の根も乾かぬうちに、己が下した指示を翻したアルネに呆れながらも、グレンダは彼の腕を振り解かなかった。
──いつからこの怠け者に、これほど絆されてしまったのだろう。
♰ ♰ ♰ ♰ ♰
島のお姫様と、新しい王子様を歓迎するように木々が二人を包み込む。
風に乗り、雲で空高く運ばれていくように、二人の意識はふわふわと浮いていた。
「……本当、寝るのがお好きなんですね」
伸ばされた手のひらに頬擦りし、
「明日の昼までには起きてくださいますか」
「ふふ、朝じゃなくて良いんだ。グレンダも随分と僕に甘くなったね」
少しだけアルネの温もりに甘えてみる。
騎士の身分ではしたない、と頭の片隅では考えつつも、疲れていたのはグレンダも同じで。
「好きだよ、寝るの。紅茶より音楽より好きかも──もちろん、一番好きなのはきみだけど。きみもずっと湖の中で寝ていたなら分かるだろう? 人間ってね、眠っている時間が一番幸せなんだ」
あぁそうかも、とアルネの腕の中で目を細める。
あまりに惰眠を貪っていると、次第に悪いことをしている気分にもなるけれど。
(ああ……なんてあたたかい……)
夢見心地だ。
グレンダがうとうととし始めたのに気付いたのか、アルネは前髪をさらりと梳いて、
「きみはやっぱり、剣が好きかい」
「そう、ですね。でも、一番お慕い申し上げているのはあなたです」
「次に目が覚めた時、きっと僕らが向かうべき戦いの地は、僕らの力を求めている大陸の彼らがあちら側からやってくる。……だからグレンダ」
頭を撫でた。眠りたい子どもへ歌を聴かせる大人みたいに。
仕事に忠実で真面目過ぎて、あるじを差し置いて先に寝るなど豪語道断と考えているであろう優秀な騎士へ言い聞かせる。
「その日までは、きみも今の務めを一度手放したって構わない。騎士としてずっと囚われてきた使命から解き放つ。僕がきみを、ひとりのただの女の子に還すから」
なんて優しく綺麗な子守唄だろう、と瞼を落とす。
グレンダも銀髪に手を伸ばし、
「……私、あなたの魔法で生まれ変わるのですね」
吹くとなびき空に溶けてしまいそうな、感触の柔らかさに浸った。
──なんて幸せな時間なのだろう。私はこれから、彼によってまだ見ぬ夢の世界まで連れ出されるのか。
「生まれ変わっちゃう?」
「はい。私はあなたの風になります。あなたの奏でた自由な音を、私が風となって広い空へと届けてゆきたいのです」
「……素敵だね。あぁ、本当に素敵だ」
アルネは額に口付ける。
眠りについた彼女が次に目覚める時も、このお姫様をキスで起こすのは自分の役目だと胸に誓って。
「行こうグレンダ。僕の大事な人。これからは僕がきみの矜持も、正義も、この愛を最後まで護ってみせるよ……!」
王子様に見初められたひとりの女騎士が、剣をカランと手放した。
彼女はしばしもの間、翠眼を瞼の内側に収め、青空の下で眠る亜麻色の髪の乙女になるらしい。
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