朽ちゆく孤島と雨の魔女(6)
首が落とされたのだと思った。抜剣し、誰よりも己を憎んでいるだろう男に、真の意味でこの身を捧げることが叶ったのだと。
だがグレンダの意識はいつまでも途絶えずに、視界が暗くなろうともアルネから受けた肌の感触をあごに、頬に──唇に、ひしと伝わった。
(────────え)
口付け。
人はきっと、彼がグレンダに為した行いをそう呼ぶだろう。
一度、軽く触れ合った唇を離すと、アルネはグレンダの両頬を己の手で包み、もう一度顔を引き寄せる。
あぁまた接吻の雨が降る──そう直感した時、膝にぴたりと付けていたはずのグレンダの手は動いてしまった。
「おっと」
グレンダに手を引き剥がされ、胸を強く押されたアルネが。
「もしかして駄目?」
「は……え……な、にを」
「しまった、少し気を
いまだ混乱の渦に心を沈めているグレンダの表情で、悪戯っ子みたいに頬をかきそっぽを向いている。
「僕も我ながらいけないやつだな。またもきみの弱みに付け込むような真似を」
「いけないって……え? なに……いったい、どういうおつもりで……」
「ごめんよグレンダ。一旦仕切り直させて。僕にもう一度、良いカッコする機会を恵んではもらえないかい」
あまりの衝撃で、目尻に浮かべていた涙も引っ込んでしまう。
グレンダの今も目まぐるしく変わっていく表情を、アルネは言葉では謝りながらも内心面白がるように。
「もう一度、って……なにをするのですか?」
「えっ? キス??」
「なぜそうなるんですか!!」
「じゃあせめてハグだ」
「だからなぜそうなるんですか!?」
さっきまでしおらしかったグレンダが、すくと立ち上がり怒り散らかし、すっかり普段の調子を取り戻す。
そんなグレンダの様子に、アルネはむしろ嬉しそうだ。
「あぁ、良かった。いつものグレンダだ」
結局は寄ってきたアルネに頬をつつと撫でられる。
完全には乾き切っていない涙が、頬を伝わり通った跡をなぞりながら、
「きみはやはりそうでなくっちゃ。涙なんて似合わない」
そう言って微笑みかけてくるので、グレンダは信じ難い気持ちでアルネを見つめ返した。
海よりも空よりも澄み渡ったアルネの青い瞳が、とても優しい色をしていることが信じられない。
「なぜ……そんな言葉が出てくるのですか」
グレンダは惑う。
「なぜ許せるのですか。私があなたの大切なものを奪ったのですよ。たくさん……」
「らしいね。うん、きっとそうなんだろう。でも」
惑っているのはグレンダだけではないのだろう。
アルネも島に来てから、島に来る前からずっと惑っている──惑わされてきた。
「なるほどねぇ。どうりで、きみがとても綺麗だと思ったんだよ」
グレンダに惑わされているのだ。
この顔に、この瞳に、アルネは今も惑わされている。
「……っこ、これからも、きっと、私が居る限りいろいろなものをあなたから奪ってしまう。あの国にだって、今もあなたの大事な人がたくさん……!」
「そうだね。領主の仕事を放り出しておいて言うのもなんだけど、うん……雨は、やっぱり嫌だなあ」
「なら、私を生かしておく理由などひとつも!」
「なぁグレンダ」
アルネは困ったように目尻を下げて、
「その『大事』の中にきみが含まれているとは、どうして考えてくれないんだい」
「……っ、で、すが、私は!」
「グレンダに死なれたら僕が困るよ」
嘘や強がりを微塵も感じさせない穏やかな声に、グレンダも再び涙腺を緩めてしまう。頭をそっと撫でてくる、アルネの心身から確かなぬくもりを感じた。
♰ ♰ ♰ ♰ ♰
──二人だけの時間が流れていく。
アルネが触れてきたのは、左右にまとめられた亜麻色の毛先。
「なぜ、そう簡単に割り切れてしまうんですか……」
溢れる雫を何度も拭いながら問いかけるとアルネは、う〜ん、とわざとらしく首を捻った。
おそらく、彼の中では迷う隙もないほど完全な答えが存在していたのだろう。
それを少しだけ言い淀んだのは、きっと、人目を憚らずに抱きついてくるアルネにとっても、直接口に出すのが恥ずかしい台詞だったからだ。
「だってさぁ。──惚れた方が負け、ってよく言うじゃないか」
心臓が痛い。この痛みはどんな感情から湧いてきたのだろう。
アルネはポケットの中身を探る。いったいいつから仕込んでいたのか、抜き出してきたのは、グレンダの今は着ていない騎士服のネクタイだ。
真っ白なブラウスの襟元をめくり、ネクタイをするすると細いグレンダの首へ通す。
「よし」
いつだかに結んだ時よりも慣れた手つきでネクタイを縛り終えると、その胸元を見下ろし満足げにうなずいた。
「やっぱり、この姿が一番しっくりくるね」
グレンダは長らく、彼に聞きたかったことをたずねた。
出会ってから幾度となく惚気ては、時には強かな手段で迫ってきたアルネへ、
「アルネ様は私が……騎士だから、好いてくださっているのですか?」
自分で口にしておきながら、なんて恥ずかしい質問なんだと顔を
今度はすぐに答えを出せなかったのか、アルネは数秒ほど上を見てから、
「もちろん女性騎士に物珍しさはあっただろうけど……正直、僕はどっちでも良いかな」
「え?」
「今の僕にとってはきみのすべてが特別だから。それに、きみはたとえどんな境遇を経たところで、結局は美しい女性になったんだと思うよ。だってきみ、すごく強いから。剣に限った話じゃなく。騎士様でもお姫様でも、その辺にいるような普通の女の子だったとしても」
どうして仮にも母親の仇を相手に、ここまで平然とよどみなく愛の言葉を紡げるのだろう。
しかも、このままでは『
そんなグレンダの複雑すぎる感情は、アルネが放った次の言葉で大きく爆ぜる。
──抱えていたすべての迷いを、惑いを断ち切る魔法みたいな言葉を。
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