朽ちゆく孤島と雨の魔女(5)

 グレンダは膝を付いたまま、ジュビアに言い寄られているアルネの顔を直視できなかった。

 ずっと夢に見てきた景色が呪いとなり、グレンダの心を蝕んでいく。


「ああ……あぁああ……」


 両手で顔を押さえつけ、うずくまる。

 自分がまだ湖の中で眠っていた間、二十年前に起きたという災害は、己というただひとつの生命を育むために発生したのだ。

 罪なき人々が雨に打たれ、大地に溶けていった。

 アルネやタバサ、誰も特段求めてさえいない魔法の力を一方的に押し付けた。


 すべてはセルマという幻想上の巨大生物を甦らせる舞台装置──グレンダという、翡翠ひすい色の宝石を世に解き放つためだけに。



♰ ♰ ♰ ♰ ♰



 しばらく惚けていたアルネが、ついにジュビアを追い越し足を進め始めた。

 向かったのは湖の中心部だ。今はまだ封印されしセルマの寝床にして、かつてはグレンダも囚われていたという氷の柱。

 度重なる苦難で裾が汚れてしまったジャケットの、ポケットに両手を突っ込み、喜怒哀楽をまるで匂わせない表情で柱の前へ立つ。


 アルネの碧眼に映ったセルマの目は、もともと虹色なのか、柱に光が反射しているだけなのか不思議な色合いをしていて、焦点もほとんど合わない。

 微動だにしないそれをじぃと見据えている、アルネの心境などもはや今のグレンダには推し量れなかった。


(いえ……いいえ。彼がなにを考えているかなんて、誰の目にも明白よ)


 グレンダは俯いたままゆっくりと首を横へ振る。



 彼に合わせる顔がない。

 なにが騎士だ。なにが忠誠だ。彼に仕える資格など、初めから持ち合わせてなどいなかった。

 こんな真実が己の故郷で待ち受けていたのなら、アルネの甘言に浮つくこともなく、せめてひとり静かにボムゥル領を離れることだってできたのに。


(どうすれば良い……私はどうやって、この罪を償えば良いの……)


 腰にぶら下げた剣の鞘が視界の隅でちらつく。

 この喉を今すぐ掻き切ってしまいたい。ジュビアの悪行、大陸に残したカイラやセイディの進退、国や大陸にまつわるすべての事柄を放り出したい衝動に駆られた。


 だが、誰よりもグレンダを恨んでいたのはアルネだろう。

 グレンダこそ、真の意味で母親やボムゥル領でかつて暮らしていた人々の仇だった。目前にいる女が、まだ未来あったはずの多くの生命を死に至らしめたのだ。


 ──私が生まれてこなければ、あの日『死の雨シーレライン』は降らなかった。

 であれば当然、ジュビアが目論む二度目の雨だって。



「さ、セルマ様の元に行きましょうグレンダ」


 今度はグレンダの腕を引いていこうとするジュビアの、


「あなたの故郷とお父様をこの海の上で復活させる時が来たのよ」

「うるさい!!」


 甘たるい声も細い腕も振り切って叫ぶ。

 振り解きざま剣を抜いたグレンダは、その剣をジュビアではなく己の首筋へあてがう。


「……なにをしているの?」


 目をまん丸にさせたジュビアが、もう一度歩み寄ってこようとしたのを怒声で制止させる。


「来るな魔女! それ以上近づけば私はこのまま死んでやる!」

「あなただって魔女の端くれじゃない。二十年前もあたしのママとあなたのママで『死の雨シーレライン』は発動したのよ。今度はあたしたちが手を取り合わなくっちゃ──グレンダ。あなたはなにをしにここへ来たの?」


 言い聞かせるというよりも、雨魔法の発動こそふたりにとって当然の使命であり宿命だと言わんばかりの剣幕で。


「雨を降らせなければどうすると言うの。今さらノウドには帰れないでしょう」

「そうよ、帰れないわ。なにも知らずのうのうと生きてきた、愚かしい私が帰る場所なんてもうどこにも無い! だからせめて、自分が生まれながらに得た罪は自分の身をもって償うわ」


 グレンダはぐっと剣を持つ手の力を強めた。

 悲願の成就がなされないことに苛立っているのか、あるいは心底からグレンダの身を案じているのか、本音がよく分からないジュビアの悲しそうな表情を観察する余裕などもはやあるはずがない。

 肌に食い込ませた刃が、己の血で濡れようとしていた時。



「止めろ」


 低い声が森でこだまし、グレンダはびくりと肩を震わせる。

 いつのまにか湖を降りてきたアルネが、ひたひたと湿った地面を踏みしめ、重い足取りでふたりに近づいてくる。


 ──ああ、やはり自ら罰を下しに来たのか。

 グレンダは剣を落とし泣き崩れた。アルネにしてみれば、本当はグレンダのほうが涙を流す道理など無かっただろう。

 それならそれで本望。せめて無駄な抵抗はせず、大人しく彼の裁きを受けようと覚悟を決める。



♰ ♰ ♰ ♰ ♰



「アルネ様……アルネ様。申し訳ありませんでした」


 たまたまスカートで、騎士の格好をしていなかったのがせめてもの救いだ、と思った。

 グレンダは震えた声で贖罪の言葉を口にする。


「私のせいで、あの雨は……あなたのお母様は……私は騎士になどなるべきではなかった。あなたにお仕えする資格も……あなたにもカイラ様にも、誰かから愛を享受する権利など、本当は初めから持ち合わせてなどいなかったのです」


 今さら許しを乞うつもりもない。

 剣を静かにアルネへ差し出し、騎士として、騎士のまがい者としての最後の誠意を示す。


「どうぞ、アルネ様ご自身の手で断罪を。この醜き女に罰をお与えください」


 俯いていた視界からアルネの足が見えた。

 膝が、腰が、腕が、首が──顔が、刻一刻と迫ってくる。


 ついにアルネの手が伸びてきて、グレンダのあごをぐっと捕らえた。

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