朽ちゆく孤島と雨の魔女(4)
水が凍りつき、森林が水面中に反射した新緑の湖。
その中心でジュビアに畏まられ、微動だにせず佇んでいたそれは人ではなかった。
いつも地を瞬足で翔け回る、馬に見えた。
スティルク領でも目にした森の王者、
あるいは時として、人々に多大な災いをもたらす蛇であるようにも見えた。
とかく、なんらかの生命体であれど、決して人でも、この世の動物でもない。
今にも巨体でうごめき出しそうな、紛うことなき怪物が閉じ込められた
♰ ♰ ♰ ♰ ♰
「……しゅ、くん」
「ええ」
ようやく声を絞り出したアルネに、顔を下げたままジュビアが答えた。
「ジュビアが母の代よりお仕えしてきた、我が主君、セルマ様にございます」
「せ……る、ま」
「この島の王にして、あなたが大好きなグレンダの父に相当する御方でもある」
訳が分かっていないのはグレンダも同様だ。
ただし怪物が閉じ込められている、その柱には覚えがあった。
(あれ……私、もしかして私が夢で見た景色って……!)
グレンダは進んできた道をばっと振り返る。
間違いない、やはりそうだ。あの怪物が佇んでいる場所から、自分もまったく同じ景色を遥か昔に眺めていた。
水の音を静かに聞きながら──この身を風に晒されることもなく。
「僕にも理解できること、できないことがある……」
アルネが魚みたいにぱくぱくと口を開閉しながら、
「抽象的な説明じゃまるでわからないぞ。あれが島の王ってなんだ? あれがグレンダの父親なはずが無いだろう!?」
「父親と言い表さずして他にどう言い表せば良いの」
やっと顔を上げたジュビアに言い切られてしまう。
「グレンダもこの湖の中で生まれたのに」
「はぁああっ!?」
ジュビアの戯れ言を完全には否定できなくなった自分がいる。
かつて何度も見てきた夢は、もしやすべて、この湖で漂っていた時の光景だったのか。
無論あんな怪物には心当たりがないけれども、緑ばかり続く水面には不思議と親近感が湧いていた。
「彼はもともと、ノウド半島で祀られていた神様なの」
立ち上がってきたジュビアが、ふたりの元へ歩み寄ってくる。
おそらく母親の、さらに古い世代から長らく怪物に仕えてきたのだろう魔女の末裔がアルネに迫った。
「その信仰をある時、ヘリッグ家は裏切った。彼らはセルマ様をこの湖へ放り出し、島から出られないよう閉じ込めてしまった」
「……そんな話は知らない。誰からも聞いたことがない」
「ずっと昔だもの。きっとあなたも今の公爵も、過去の罪になどいちいち目を向けたりしないのね」
アルネはジュビアを睨みつけた。あたかも彼女が、自分たちは一方的な被害者だと言わんばかりの口振りだったからだ。
「それで報復を目論んだとでも言うつもりか? 過去にいつまでも縛られたお前たちが、ヘリッグの末代どころか、なんの罪も関係もない国民たちを巻き込んで──!」
「早まらないで、公子様。私もセルマ様も、別に怒ってなんかいないのよ」
ジュビアの不可解な言い分にアルネが眉をひそめている間、口も開けぬままグレンダは体の震えを抑えられないでいた。
長らく継ぎ接ぎのままだった記憶の欠片たちが、次第に大きな形となって、ひとつの新たな真実を得ようとしているのを肌で感じる。
「すべては対価よ。信仰も、信仰から得た力も、それを手放せば必ず、他のなにかを失う。世界はいつもそうやって巡り巡っていくものだから」
理解してしまう。
ジュビアが今、なにを言おうとしているのか、これからなにをしようとしているのか。
──かつて彼女の先代がなにをしたのかを、グレンダは理解してしまった。
「だからママと、セルマ様にお仕えしてきたもうひとりの使者は雨を降らせた」
「待って……」
「本当は一度目で彼を甦らせられたら良かったのだけれど。魔法も万能ではないの。大地に住まう人々を対価に、まずは島のお姫様ひとりを生み出すので精一杯」
「やめて……言わないで!」
「あなたは王と姫君に選ばれたのよ、アルネ・ボムゥル。あの雨で魔法を宿した穢れなき者だけが、この島を軸とした新しい秩序の住人となれる」
風を読む力を宿したアルネ。
雷を起こす力を宿したタバサ。
炎を纏う力を宿したエスニアの子どもたち。
そして──『雨の魔女』ジュビア。
「ね? 公子様。あなたが愛する人はとても美しいでしょう?」
グレンダは膝から崩れ落ちる。
湖の有り様とジュビアの証言から、あまりに残酷すぎる真相へ辿りつくまでに、アルネもさほど時間を要さなかった。
「報復だなんて滅相もない。あなたが得た愛の代償は、二十年前にちゃんと払ってもらいましたから」
「……まさか」
「だから次はあなたたちの番。病める時も健やかなる時も、あなた自身の愛がために新しい歴史をここで刻みましょう? もちろん、ジュビアも最後までお供します」
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