朽ちゆく孤島と雨の魔女(1)

 波の音を聞いた。

 小舟に延々と揺られていると、次第に時間の流れも数えられなくなってくる。


「グレンダ。……グレンダ」


 優しい声が鼓膜の中でこだまするように。グレンダはおぼろげだった意識をゆっくりと起こす。


「……アルネ……様……?」

「ごめんよ。本当はもう少し休ませてあげたいんだけど」

「……、……っ、ああっ!?」


 グレンダは飛び起きた。

 船上で急に暴れ出してしまうので、アルネは転覆を恐れ、グレンダの両肩を掴み落ち着かせようとする。


「も、申し訳ありませんっ! アルネ様を差し置いて私が眠りこけるなど……」

「だから良いってば、落ちる落ちる落ちる! なあ、そんなことよりあれを見てくれないか」


 アルネが空を指差した。

 二人の周囲にはしばらく青色しか広がっていなかった。上を見れば空が、前を後ろを見れば海しかなく、浜辺にたまたま転がっていたイカダを決死の思いで漕ぎ出してから、いったい何日が経ったのだろう。

 そんな青色にわずかな変化がもたらされたことで、アルネはすぐさまグレンダを起こしたのだ。



「あれは……海鳥でしょうか?」


 白い胴体に、腹だけが黒い鳥の群れ。


「ノウドでは見たことがありませんね」

「だろう? 彼ら、みんな同じ方角を目指してる」


 鳥の群れが進む先にはいまだ海しか続いていない。

 同じ景色に慣れすぎて、二人はとっくに方向感覚をも失っている。そこで頼りになったのが、やはりアルネの持つ魔法の力だった。


「……アルネ様はどう判断いたしますか?」

「そうだなあ。……きみはどう思う?」


 二人は顔を見合わせ、頷き合った。すぐにグレンダはイカダを漕ぎ始める。

 漂流覚悟で海上まで来てしまった以上、もはや取れる選択肢など限られている。迷う余地もなかったのだ。

 そうして海鳥たちの群れを追うようにイカダを進めること、幾星霜。


「んっ?」


 ずっと目を離していなかったはずのアルネの視界から、忽然と鳥の群れが姿を消してしまう。

 鳥たちが急激に速度を上げた様子もなく、まるで変わり映えしない青空だからこそ不可解な消失。

 泡沫のように──魔法のように消えてしまった。


「……ちょっと待てよ」


 アルネは両手を合わせ目を閉じる。さっきまで滑空していたはずの、鳥たちの気配を懸命に探った。

 やはり魔法で起きた異変には、魔法をもってして対抗するべし。アルネは確信を持って碧眼を見開く。


「いや、消えていない。確かに今もあの空を飛んでいる」

「どういうことでしょう?」

「なにか僕たちには見えない力で隠されているだけだ。鳥のほうが姿をくらましたわけじゃない。どういう仕掛けか僕にも分からないが……」

「このまま進みます。少しでも気になることが起きたら遠慮なさらずご報告を」


 グレンダもアルネの言葉を疑わなかった。

 たとえ自分の目には見えていなくとも、アルネにしか感じ取れない真相や景色もきっとある──そう、信じているのだ。



♰ ♰ ♰ ♰ ♰



 さらに海を進むこと、およそ十分じっぷんと少し。

 急に強い風の抵抗を感じたことで、グレンダはついイカダを漕ぐ手を緩めてしまう。


「止めるなグレンダ。もうちょっとだ!」


 アルネが声を張り、グレンダの背中に触れる。

 なぜだか触れられると自分も謎の力がみなぎってくるような、浮ついた感覚を骨身から得た。


「は、はい!」


 慌てて棒切れを握りなおし、ぐっと両腕に力を込めた。

 アルネが助力をしてくれているのだろうか、さっきよりは水を蹴るまでが軽い。すいすいと前進を目指していくと、ついに念願の時が訪れる。


「あ……!」


 最初は目を疑った。

 ずっと水平線しかなかった遥か彼方に、ぽっかりと浮かぶ半円が見えた。

 南の異大陸と捉えるには明らかに小さ過ぎる。かといって、サメやクジラのような生き物の類で無いことも、その緑色が物語っていただろう。


「大当たりだ。ぎりぎりまで近づかなければ視認できないような、透明で見えない霧で隠されてきたんだよ、僕たちはずっと」

「あ……ああ」

「どうだいグレンダ。あの島に覚えは?」


 アルネの声がわずかに弾んでいる。嬉しそうだ。

 だが、本当に喜ぶべきは彼じゃない。グレンダこそ、目前に現れたあの島を、大地を、森を、誰よりも探し求めてきた。


 つつ、とグレンダの頬を一筋の涙が伝う。

 涙は止まることを知らず、イカダを漕いでいた手で顔を押さえ、アルネに肩を抱かれながら子どもみたいに泣きじゃくった。


「……間違い、ないんだね」

「はい。はい……ありがとう、ございます……っ」


 感情も涙も抑えきれないままに、グレンダは枯れた喉で長らく思い焦がれてきた場所への愛を語った。

 アルネへの思慕よりも長く、騎士としての務めよりも深く、その胸にずっと刻み続けてきたひとつの愛を。



「やっと……やっと、帰ってこられました──私の、大事な故郷ばしょ

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