裏切り者(2)

 橋の中心が崩れていく。

 アルネを乗せた荷車が、前方を進んでいたグレンダが宙へ放り出された。


「グレンダ!」


 咄嗟にアルネは両手を合わせる。自由落下が始まるより早く、風の魔法でグレンダと自分を空中に押し留めた。

 荷車だけが谷底へひゅうと吸い込まれていく。


「は……、え?」

「そのまま絶対動くな!」


 空を泳ぐようにアルネがグレンダへずいと体を寄せた。

 背中を向けていたため赤い鳥との攻防を目撃していなかったグレンダは、今まさしく落ちようとしている状況でも、なにが起きたのか理解できず呆けている。

 アルネは腕を伸ばし、剣を腰に提げたグレンダの華奢な腰を掴む。もう片手で両膝の裏を支え、抱き抱えるような体勢で、まだ崩れていない板へ両足を着地させた。


「──、──っ! お、降ろしてください!」


 正気に戻ったグレンダがまず頬をかっと染め上げたのは、今の体勢が知る人ぞ知る、お姫様抱っこになってしまっているからだろう。

 命の危険よりも羞恥が先走ってしまったが、まもなく、近くにセイディの姿が見当たらないことに気がつく。


「肝を冷やしたよグレンダ。僕、同時にふたり以上を魔法で浮かせたのは初めてで……あれ? きみ、見た目ほど重くないな」

「降ろしてくださいってば! 私はそこまで軽い女じゃありません!」

「あれ、おかしいな。女性は軽いと言われる方が喜ぶものでは……いや、今議論することじゃないか」

「当たり前です! セイディがまだ……!」


 アルネもはっとして同じ方角へ視線を移す。

 セイディは崩された橋の反対側で尻を付いていた。荷物の大半は失ったが、アルネが楽器だけは肌身離さず持っていたように、自分で背負っていて無事だった銃火器の類を悠長に検分している。

 そのさらに背後から、近付いてくる不吉の足音。さっきよりもずっと大きい。

 ザン、ザン、ザン、ザン。



「なにやってるセイディ!」


 アルネは橋から手を伸ばす。


「すぐこっち飛んでこい! 大丈夫、お前の方がグレンダよかずっと軽いんだ。僕が魔法で受け止めてやる!」


 背中を向けたアルネの楽器ケースは破れていた。

 ヴィオラの木板も少し見えていて、グレンダは思わず注意喚起する。


「アルネ様。楽器が……」

「ヴィオラなんていくらでも替えが利くさ。人間の相棒と比べれば!」


 検分した銃火器を降ろし、セイディはようやく顔を上げた。

 真顔で平然と悪びれも躊躇いもせず、だが声色だけは事の深刻さをひた隠すように明るく努めている。


「先に行っててくれませんか。確実に連中からおふたりを引き離せるよう、あたしはちょっとだけ妨害工作じみた悪戯をしてきます」

「なにを言っているんだ!」


 なにを言っているんだ。

 アルネの怒声と、グレンダの心の叫びが完全に一致する。たったひとりを戦場いくさばも同然の土地へ置いてなるものか、とアルネは第二声を発した。


「くだらないこと企んでないで来いセイディ! お前も僕の相棒だろう? 意地でも無理矢理にでもこっち岸まで運んでやる──」


 言葉とは裏腹に、どうやらアルネの持つ魔法には、人が相手となると適用できる距離や範囲というものがあるらしい。

 セイディの体があの位置から浮かぶことはなく、なにより自分からこっちまで飛んでこようともしない、そのもどかしさにアルネが歯軋りし、


「馬鹿野郎! あるじの僕が諦めていない内から諦めるなよ……この、!!」


 激昂してもなおセイディはけろりとしていた。

 ああ本当に諦めてしまったのだ、とグレンダも思った。あの子は自分たちと旅を共にすることを放棄したのだと、自分の身を、将来を、幸福をわずかにも案じていないのだと。

 やはり帝国に来てからセイディは変わり果ててしまった。屋敷でもここまでの道中でも、あれほど屈託ない笑顔を浮かべていたのに。誰にでも気兼ねなく思いの丈を余すことなく口に出せる、自分よかずっとたくましく優しく、美しい少女なのだと──



♰ ♰ ♰ ♰ ♰



「──諦めてなんかいませんよ」


 セイディはアルネの声に応じた。

 ふと長い銃を携えたワンピース姿の少女が声に熱を乗せ、意気揚々と宣誓する。


「絶対諦めてやるもんですか。あたしはボムゥル領の参謀で、屋敷のメイドで、公子様のお目付役です。これからも公子様のおそばで働くために、もっと公子様のダメダメなご性分にツッコミ入れたり面倒見たりグレンダ様との恋路に野次入れるために、わざわざここまで付いてきたんですよ!」


 茜色の瞳がかっと見開かれる。

 低い地上に小さな太陽が昇ったみたいに、アルネの道程を照らすほどの眩しい笑顔で。


「最後までメイドのお務め、果たさせていただきます! だから──ほら、グレンダ様!」


 力強い声が放たれるよりも早く、グレンダの腕はアルネに伸びていた。

 その笑顔だけでじゅうぶんに彼女の意志はしかと伝わったからだ。


「どうか頼みますよ騎士様。あたしも信じてますからね──グレンダ様こそ、公子様を素敵な夢の果てへ連れ出してくださる最っっっ高のお姫様だって!」


 グレンダはアルネの手を引き駆け出した。

 何度アルネが声を掛けてこようと構わずに進んでいた橋を最後まで渡りきる。


「グレンダ。グレンダ! 駄目だグレンダ、セイディだけは!!」


 走りながら息を切らし取り乱すように、


「あいつは僕が屋敷に来て随分と早い頃から、ずっと……きみよりも早く、長く……!」

「仰る通りです、アルネ様!」


 今度はグレンダが声を張った。力強く、迷いなく淀みない緑色の瞳でひたすら前を見据えたまま。


「セイディは必ず追いついてきます。あの子は強い。あんなに小さな体でも、私が知るフリューエで一番強く優しい。あなたが誰よりも信頼に置き、カイラ様が誰よりも頼りにし、私が誰よりも認めた、優秀なボムゥル屋敷のメイドです!」

「グ、レンダ」

「信じましょう最後まで。進みましょう、目指す地に到達するまでは! 私たちが先に着いてあげなければ、セイディも後を追うことさえできないのですから」


 アルネは青い瞳を海よりも深い色で沈める。

 振り解こうとしていた腕の力を弱め、今度はその足を緩めることはなかった。



 橋から、セイディからふたりが遠ざかっていく。

 セイディはとうに親愛なるご主人様と、その騎士から踵を返していた。──その目に確かな、戦意の炎を宿しながら。

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