国境の護り手(1)
結局、アルネは店に戻ってきてからは二度と調理場を手伝うことがなかった。
店内で延々とヴィオラを奏で、ときには客たちと歓談し、酒を酌み交わし笑っているうちに閉店の時間を過ぎてしまう。
イース城での社交はあれほど嫌がっていたアルネが、朗らかな表情を見る限り、不思議と屈強で小汚い男たちとの会話はさほど苦にしていなかったようにグレンダは感じた。
きっと互いの立場を気にすることなく、大好きな音楽など趣味の話だけで盛り上がれる点が良かったのだろう。
「は〜あ。やっと帰った……」
最後の客が退店するのを見送って間もなく、誰よりもげんなりした表情を浮かべたのはエリックだ。
アルネのぶんまで調理場で包丁を握っていただけでなく、不足した具材を市場へ買いに走ったり、アルネたちが今晩泊まれる宿を手配したりと、夕方も夜もひたすら町中を駆け回る羽目になったからである。
「これじゃあ俺はいよいよ執事か便利屋か……とにかく騎士とは違う役回りの人間になっちまう」
「あなたこそノリノリだったじゃない」
嘆くエリックへグレンダがそう指摘すると、アルネが食い入るようにエリックへ寄ってきた。
「その通りだ、エリックくん! きみはなかなかどうして、本当に気前が良い奴だなあ」
「そいつはどうも。俺は調理と芸術に関してはグレンダより優秀なものでね」
「あぁまったく。いやあ一緒に演奏できて楽しかった! 一度きりなんてもったいないなぁ。きみもこのまま道中に付いてきてくれれば良いのに……」
どうやらタバサだけでなく、アルネまでもがエリックをお気に召してしまったらしい。
エリックはとてもふたりの高貴な人間から信頼を勝ち得た男とは思えない仏頂面で、アルネの誘いをさらりと跳ね除ける。
「仮に大道芸人でも、俺が仕えるあるじはひとりと決まっているんです。ねえ、あごで騎士を使うことに慣れっこなタバサ嬢?」
「おう。今日もお勤めご苦労! ついでに夜食をこっちまで運んでこい」
「嫌味が通じねえ〜〜〜! まじで
大袈裟に愚痴を垂れながら、エリックは律儀に調理場へ消えていく。
やがて肉を焼く音が聞こえてくると、タバサは満足げに椅子のひとつへ腰を下ろした。
「まあエリックはともかく、きみたちの今日の働きは及第点といったところか」
「及第点? 手厳しいですね〜。いつもよりも稼ぎは出たんじゃないかとあたしたちは自負しますけど……」
「稼ぎはきみらが居なくともいつだって出ている。私の店だ、当然だろう?」
昨夜の森中に続いて、今晩もタバサは酒瓶の蓋を開ける。
「問題は、きみたちが微塵も忍ぶ気配を見せないところだ。確かに町の連中は顔の見分けがつかないと言ったが、ここまで騒ぎを大きくされては私とて保証しかねるぞ?」
「どうせ明日にはスティルク領を出ますから平気です──タバサ様。あなたが約束通り馬の用意をしてくだされば、ね?」
セイディが念を押すように言い返せば、タバサはふんと鼻を鳴らす。
机にグラスは人数分用意されていて、特にアルネとグレンダのグラスへは赤紫色の液体をどぽどぽと注いだ。
「今夜は飲んでいけ。私の店の繁盛と、きみたちの今後の道中を願って乾杯しよう」
「……いただきます」
グレンダは堅い表情でグラスを受け取る。
アルネはすでにかなりの酒気を帯びているはずだが、あたかも素面のように振る舞っているあたり、やはり酒にはさほど弱くないらしかった。
イース城で見せていたあれは演技だったのかと訝しんでいる間に、セイディは氷水をぐいとあおり、とうとうグレンダがずっと引っかかっていた疑問を口にする。
「タバサ様。正直あたしは、まだあなたのことを完全には信用できません」
「おや」
「どうしてあたしたちにここまで良くしてくださるんですか? 公子様やグレンダ様が稼ぎに多少は貢献したと言っても、あなたの仰る通り、それだけが取引に応じる材料になったとはどうしても考えられないんです」
「誰よりも稼ぎに貢献したのはたぶんメイドちゃんだけどな。あの歌唱法、ヨーデルだろ? 夜はあれが一番客に受けていたぜ」
調理場からエリックの声が飛んできたが、タバサもセイディも完全に無視した。
乾杯に先んじてグラスを傾けると、タバサは片目のみを開け、
「淑女たる私の純粋な善意……と、受け取ってはいただけないかな?」
「残念ながら。あなたはそこまで殊勝なご令嬢ではなさそうですし」
セイディの毅然とした返しを待ってからグラスの中身を空にする。
アルネもグレンダもかなり前の段階より、セイディが主張していることとまったく同じ手応えを持っていた。
今日一日の生活は、男爵の目を盗んで馬を出すという危うい取引の代価としては、およそ建前にも満たないほどの内容だったのではないかと思っていたのだ。
もっとも、アルネだけは長いこと調理場で苦行に苛まれていたようだが。
「とことん失礼な連中だ。このあるじにしてこの従者ありと言ったところか。……ふむ……」
タバサは二杯目を自ら注ぎつつ、今度はアルネの顔色を伺ってくる。
すると痺れを切らしたのか、あるいはもとより告げる言葉を決めてあったのか、アルネは口を尖らせてさらにタバサを追及した。
「悪いことを企んでいるならともかく、なにか僕たちに話していないことがあるならさっさと言って欲しい。僕が交渉やら政治が苦手なのはもうわかっただろう? 僕はグレンダみたいな気遣いも、セイディみたいな空気の読み方もちっとも心得ていないんだ」
アルネにしては珍しくうそぶいたな、とグレンダは黙り込む。
確かに雰囲気を壊したり、周囲の調子を崩したりといった言動は多いが、それはまったく空気が読めていないからではなく、むしろある程度読めているからこそ意図してその空気を変えようとした結果なのだ。
三ヶ月も生活をともにすれば、次第にアルネが奇行を起こしたがる動機もグレンダにはおのずと見えてくる。
そんなアルネの飾らない言葉に、少しは気分を変えたのだろうか。
タバサはグラスを回し、後ろ髪を前へ傾けつつしばらく沈黙を貫いた。
♰ ♰ ♰ ♰ ♰
「……ふむ。まあ、そうだな……」
ついにタバサが重い口を開く。
「話してやっても良いか。どのみち二度は会うまい」
「会うまい、って……決めつけるなよ。またどこかで厄介になるかもしれないだろ」
「二度と頼るな厄介者。なあアルネ公子」
エリックが運んできた夜食にフォークを突き刺し、タバサはおもむろに。
「騎士など、所詮は使い捨ての生きた道具だ。きみがどれほど彼女やエリックを気に入ったところで、こいつらの行く末になど私にはさほど興味がない。きみもあまり過度にこだわりすぎないほうが身のためだぞ」
「……つまらない嘘を吐かないでくれ」
黄金色の瞳をじいと見抜くように、アルネは静かな反抗をする。
「グレンダはともかく、あの森で確かにあなたは彼の生死にこだわったじゃないか。僕をすぐに撃たず、あの場で戦闘から交渉に転じさせたのはタバサさんだぞ」
「ふふ。そう見えたか? ぼんやりしている割にはよく観察したな……いや」
心の読み合い、という点ではやはりタバサのほうが一枚上手だ。
肉を刺したままフォークをアルネへ向けると、獣のような眼光でその碧眼を射抜いた。
「必ずしも視覚のみで、感情の機微を汲み取っているとも限らない。特にきみなんかは」
「なんだって?」
「なぜ私が、幼少の頃にしか会っていないきみの顔を記憶していたと思う?」
とん、と。
タバサは自身の頭を指で小突く。その仕草はきっとアルネの銀髪を示していたのだろう。
「前に調べたことがあるのだ。その髪は『
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