旅立ち(2)

 鶏もまだ鳴かないような時間に、グレンダはアルネを叩き起こそうと寝室を飛び出した。

 だが寝室にアルネの姿はなく、昨夜囲んだ食卓へ引き返せば、すでに屋敷の住人全員が揃っていた。


「お……おはようございます」

「ああ。おはよう」


 むしゃむしゃとサラダを頬張りながら、アルネは寝巻き姿で挨拶する。

 グレンダが一番遅くに起きてくるなんて事態は、これまで一度たりとも起こり得なかったことだ。


(驚いた……セイディなんて、夜遅くまで馬車の準備をしてくれていたはずなのに)


 定位置で着席するとグレンダの目前には、小麦のパンとサラダとコーヒー、そしてラフランスが並べられている。

 カイラが用意した朝ご飯を食すのもこれで最後かと、グレンダはゆっくり噛み、じっくり味わい胃の中へ栄養を蓄えていく。


「……僕が気がかりなのはさ」


 カップ片手にアルネがぽつりと、


「僕が逃げ出したせいで、伯母さんが公爵からなにか罪に問われないかだけが、とにかく不安なんだ」

「処罰は少なからず受けると思うわ、はっきり言って。ナントカ教唆罪でね」


 こぼした懸念を、カイラはあっさり認めた。

 しかしカイラは綺麗に微笑みながら、あまりに頼もしい目論見を告げる。


「でも大丈夫、自分でなんとかしてみせます。私、あなたとは違って、自分が都合の良いように体裁を整えるのは大の得意でしてよ?」

「体裁って……」

「もしにっちもさっちも行かない雰囲気だったら……そうねえ。オイスタイン侯爵あたりに愛想振り撒いて公爵へけしかけて、上手いこと使ってやるわ」


 アルネもグレンダも、思わずコーヒーを吹き出しそうになった。

 あっけらかんとオイスタインの好意を利用するカイラの図太さに、セイディも心底から賞賛の声を浴びせたくなる。


「……私の心配をするなんて、随分偉そうなことを言えるようになったものね」


 カイラが長い息を吐き、


「図体だけでなくいろいろ大きくなっちゃって。寂しいわ……私もいよいよアルネの保護者を卒業ね」

「カイラ様」


 そう呟いたのに対し、グレンダは真面目な顔で問い質した。


「あなたは初めから、アルネ様を領地の外へお連れするために私を雇ったのですか? 領主というお役目から解放するために、私を……」

「……重いものを背負わせてごめんなさい、グレンダちゃん」


 カイラは正直に答えた。


「この子はずっと、母親を失った過去からこの故郷に囚われてきた。私も、この子の成長に縋りながら生きてしまった部分は少なくない」

「……伯母さん」

「でも、あの公開訓練であなたを見て思ったの。きっとあなたなら、私や妹が狭い世界に閉じ込めてしまったアルネを、ここから自由にさせてくれるって。……なぜでしょうね。女の勘というやつかしら?」


 グレンダは少しだけ間を空けてから、自身も率直な気持ちをカイラへ伝える。


「私もまだ迷っています。この選択が果たしてアルネ様にとって……私にとっても正しいものであったのか」


 左胸で光る藤の花ヒースに軽く触れてから、グレンダは小さく拳を固める。

 その目には迷いながらも、悩み抜いた末に抱いた新しい決意が宿っていた。


「まだわからないからこそ、今はアルネ様と旅路を共にします。私は騎士としてカイラ様に求められました。アルネ様に必要とされました。セイディも応援してくれる……だから」


 決意が深緑色に輝いて、


「この選択が正しかったことを、私が全霊を尽くして証明いたします──!」


 アルネとグレンダ自身の未来を明るく照らす。


 その気丈さに胸打たれたのか、カイラは初めて目元を潤ませる。

 屋敷では決して弱さを見せぬよう振る舞っていた彼女がこぼした一筋の涙に、グレンダもまた、心を大きく突き動かされた。

 立ち上がってカイラまで駆け寄ると、グレンダはひたとカイラを抱きしめる。



♰ ♰ ♰ ♰ ♰



 アルネだけではない。

 グレンダも、母親と呼べる存在がいないまま育ってきた少女だった。

 孤児院でハルワルドに拾われてからは、彼が剣を教えながら親代わりのように面倒を見てくれたけれど。


 ──愛というものを知らなかった。

 誰かに愛されたことも、その愛をどう受け止めれば良いかもわからないまま、グレンダは大人の女性になろうとしていた。




「ありがとう、グレンダちゃん」

「私も……私こそ、あなたには感謝しています」


 声を震わせてグレンダは告げる。

 アルネに抱き締められるまで、カイラをこうして抱き締めるまでずっと知らなかった。

 他人の肌とは、心とは、これほどまでにあたたかいものだったのか。


「カイラ様。ボムゥル領への配属……専属騎士としてのご指名、ありがとうございました」


 この胸に誓う。


「あなたからお受けした騎士の務め──授かったこの愛を、必ずや成就してみせます!」

「ええ。……ええ。どうか血が直接通わずとも、私が一番愛する我が子を頼みます」


 アルネだけでなくグレンダもまた、カイラが第二の母親のような存在となっていたのかもしれない。


 左右縛りツインテールを結んでくれた人。

 髪や顔立ちを褒めてくれた人。

 赤い洋服も似合うと教えてくれた人。


 窓の外はすでに空が明るみつつある。

 グレンダが涙をこぼせば、カイラはひどく優しい微笑みを返した。


「嬉しいわ。私のために泣いてくれる子が、アルネやセイディの他にもいたなんて……」

「そろそろお時間ね。グレンダ様、公子様。向かいましょう」


 馬も屋敷のそばで唸り、窓越しに出発を促してくる。


 ついに屋敷を出る時が来た。

 グレンダにとっては二度目のような感覚でも、アルネの表情を見れば、騎士学校を出た時と同じ心境を思い出すこととなる。



 公国を出るためにはまず、南北へ伸びた半島を縦断しなければならない。

 決して容易な道のりではないけれど、きっとこの三人であれば大丈夫。



♰ ♰ ♰ ♰ ♰



 身支度を終え玄関を出て馬車に乗り、アルネは青い瞳をカイラへ向ける。


「伯母さん。──いってきます」


 さよならとは言わなかった。これは新しい世界へと一歩踏み出すための旅立ちだ。


 二十年もの月日を共にしたカイラ。

 ボムゥル領で暮らすヨニーや領民たち。

 そしていつも心地よい波音と空気に包まれた、辺境の地ボムゥルにお別れを。


「いってらっしゃい。良い旅を!」


 初夏の風に乗せられた最後の激励を胸に刻み、セイディが鞭打った馬は走り出す。

 平穏な故郷に突如として現れた女騎士グレンダがもたらした激情は、ひとりの青年公子を突き動かし、新たな舞台へと運んでいく。


 ──戦いだ。

 これはアルネが見つけた、大事な人を護るための戦い。

 戦乱に呑まれつつあったノウド公国全土へさらなる激震を走らせることとなるであろう、愛と正義が入り混じる壮大な『亡命劇』の幕開けである。

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