偏愛の末路(3)
アルネとグレンダがボムゥル領に帰ってきた。
屋敷ではいつもカイラとセイディが晩ご飯を支度しているような、夕暮れ時だ。
車輪の音を聞きつけたセイディが、真っ先に玄関の扉を開きふたりを出迎えようとして、アルネの顔色が優れないことに自分も蒼白する。
話を聞きつけたカイラも「どうしたの? 大丈夫!?」などと駆け寄りアルネを介抱しようとしたが、アルネは誰に対しても、帰路をともにしたグレンダに対してすら、まったく同じ返答を繰り返したのだ。
「大丈夫さ。……僕は、大丈夫さ」
♰ ♰ ♰ ♰ ♰
──これではまるで、イエスの最後の晩餐だ。
体の具合はどこも悪くないと主張するアルネの机上に、好物の
カチャカチャとナイフを動かし、白い顔で黙々と食べているアルネを、傍らでカイラとセイディが心配そうに眺めていたあたりで。
「……カイラ様、セイディ」
ようやくグレンダが、事の真相をひも解いた。
「私は近いうちにクロンブラッドへ呼ばれるかもしれません」
グレンダはここに至るまでの成り行きを明かした。
アルネとの舞踏やクラウと交わした会話など私情が絡むことは伏せつつも、ふたりがイース領で起きた事件をはっきりと脳内で
カイラもセイディもだんだんと状況の深刻さを察し始め、胃の中で料理を己の血肉としながら、血を流した城の使用人や騎士たちにそれぞれ思いを馳せていた。
しかし、グレンダの語り口で他のなによりもカイラの耳へ強く残したのは──
「『
さっと目の色を変えたカイラが、
「そんなことを言われたの? ……本当に?」
「はい。あたかも明日の天気を当てるような調子で」
聞き返せばグレンダがはっきりと答える。
「もちろん、予言でもなんでもなく、あの女の戯れ言に過ぎないかもしれません。自身が『雨の魔女』だという名乗りも。……ただ」
「ただ?」
「私や騎士団を相手に、常人ではあり得ない挙動も多く見せたことだけは確かです」
ついさっき噛んだ赤いベリーが、後から酸味を帯びて口内を襲う。
グレンダはコップ一杯ぶんの水を飲み干し、改まった態度でカイラに告げる。
「もし本当に『魔女』だったなら……アルネ様のように魔法が使える者なのだとしたら、魔術師が自らの裁量で大地へ、それも国土全体へ雨を降らせるようなことが果たして可能なのでしょうか」
「グレンダちゃん。……あの雨が、自然災害ではないと言いたいのね?」
「可能性です、根拠はまったくありません。……ですが……」
セイディはまったく声も上げられないほど驚いているようだったが、カイラはもう少しばかり冷静さを貫いているように見えた。あるいは装っているだけかもしれないが、表情を取り繕うだけの心の余裕は保っていたらしい。
フォークから手を離し、カイラはグレンダに主張の続きを促す。
「ですが……なあに?」
「はい。たとえ女の言葉が戯れ言に過ぎなかったとしても、一度耳に入れた以上……それが本当に偽りかどうかを、この目でしかと確かめる必要は……あるのではないかと、私は考えています」
隣りの席で唾を飲み込んだのはアルネだった。
次に発したグレンダの台詞は、すでに青ざめていたアルネをいっそう取り乱させるにはじゅうぶん過ぎる威力を秘めていた。
「公国のというよりも……この屋敷とボムゥル領の安寧がため、もしクロンブラッドへの召集がかかったなら、私は──」
「絶対に行くな!!」
最後まで言い終えるより早く。
アルネはガッ!! とまだナイフを握ったままだったグレンダの手首を掴む。
弾みで手から離れたナイフは机ではなく、カラリと乾いた音を立てて床へ滑り落ちた。
「──っ、危ないアルネ様、お怪我しますよ!」
「絶対行かせないからな。おじさんがなに言おうが公爵に呼ばれようが……きみがなにを決めようが!!」
「ですが、それでは……! アルネ様とこの土地をお護りするためにも、現地でしか得られない情報だってあるのです!」
「そのアルネ様が行くなと言っているのが聞こえないのか!?」
「やっ、やめてくださいふたりとも!!」
半ば口論になりかけていたところを、セイディが焦って引き止める。
カイラもセイディも察し始めた……ふたりはきっと、馬車の帰り道でもずっとこの調子で言い争っていだのだろう。
「公子様。いくらご自分が公子だからって、ご自分のことを
「黙っていろセイディ、そんな話はどうでも良い! ──グレンダ、おじさんの話に惑わされるな。あいつは自分が功績を上げたいから、きみのことも焚き付けてきたんだ」
「そんな失礼をおっしゃってはいけません! ご領主様はアルネ様の身を案じておりました。昨晩も
「僕じゃない、自分の沽券に関わるから良い顔しただけだ!」
さっきまで白かったアルネの顔が、次第に赤く燃え上がっていく。
彼の脳裏にちらついたのは、おそらく今朝の会合ではなく昨晩に会場で浴びせられたオイスタインの言葉だったのだろう。
「おじさん……あの言葉が本音か建前かはわからない。単に伯母さんや、周囲の貴族相手に体裁を取り繕いたいだけかもしれない」
「アルネ様っ!」
グレンダが顔色を変え、カイラの反応を伺う。カイラはやはり表情を変えない。
机に肘を付けたアルネが組んだ両手で額を押さえ、そのまま俯いてぶつくさと、
「けど、だとしても……わかっているんだよ、僕だって。たとえすべてが方便だったとしても、やっぱりおじさんは立派なヘリッグ家の領主だ。
卑屈さをひけらかしながら、アルネは食卓で誰よりも思い詰めていた。
食事を最後まで済ませたセイディが、片頬だけを膨らませ、ここまでの経緯とふたりの主張を自分なりに消化していく。
「ま、実際グレンダ様は強いですからねえ。その様子だと、侯爵様やあちらの騎士様たちにも剣筋をかなり見込まれたということなんでしょうか?」
「かなりどころの騒ぎじゃない! ほら見たことかグレンダ。クラウとかいう彼、案の定きみの評判を常日頃から仲間に触れ回っていたみたいじゃないか」
「そ、それは……」
アルネが酔った勢いで語っていた男の
さては、昨晩の彼はやはり意識がしっかり残っていたんじゃないかとグレンダが勘繰る暇もなく。
「女性騎士は肩身が狭いだなんて、よく言えたものだ。外へ出てもきみという奴は、貴婦人からも同僚たちからも、じゅうぶん皆に愛されていたじゃないか!」
「なるほどぉ。おまけに配属も辺境とあっては、なおさら帝国との戦いへ駆り出されやすいわけですね」
「……セイディ。それはどういう意味?」
「襲撃は受けたと言っても、先に戦争を仕掛けるのはこちら側でしょう? その逆なら自国の防衛戦ということで、
「……! 確かに……ええ。その通りだわ、セイディ……」
セイディの分析にグレンダは目から鱗をはらはら落とす。
てっきり襲撃の当事者だから呼ばれる可能性が高いと思い込んでいたが、もしセイディの見立てが正しければ、仮にあのパーティへ呼ばれていなくとも、どのみちグレンダへは公爵からの通達書が届く定めだったのかもしれない。
──やはり、
(いずれにしても、あの女だけは……雨のことを知る彼女だけは、捨て置くわけにはいかないわ)
唇を固く引き結び、グレンダが再び覚悟を決めようとしていた時。
♰ ♰ ♰ ♰ ♰
「……腹を括りなさい、アルネ」
カイラの冷たい声が食卓の上でしんと響く。
終始震えていたアルネが顔を上げれば、そこには凛とした佇まいで碧眼を向けるカイラがいた。
「争いは遅かれ早かれ起こるもの。その兆しがついに見えたというだけの話でしょう」
「伯母さん! でも、僕は……」
「あなただって一度は、自分にとってかけがえのないもののため、立ち上がらなければいけない日があるのよ」
慄くアルネを突き放すように、カイラはすっと起立する。
彼女の唇から紡がれた次の台詞に、アルネもセイディも、そしてグレンダが誰よりも一番はっとしたのだ。
「戦いの意義を、価値を、ここでちゃんと定めるのよ。──あなたが今、護りたいものはなに?」
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