二章 戦乱の予兆と偏愛の末路
北方からの招待状(1)
初夏に入れば、海から流れてくる風にも湿っぽさが出てくる。
グレンダがボムゥル領の専属騎士となってから、ふた月ほどが経過した。
屋敷で誰よりも早く起きたグレンダが、騎士服に着替えるなりアルネの寝室へ駆け込んだのは、まだ鶏が鳴いて間もない朝だった。
「アルネ様。……アルネ様!」
毛布にくるまっている銀髪の男を、グレンダは両手で強く揺さぶる。
「起きてくださいアルネ様! もう予定の時刻は過ぎています」
「……ん〜……」
「今起きないと出発に間に合いませんから!」
毛布を引き剥がすと、アルネは寒そうに両腕で自身の体を縮こまらせた。グレンダは子どもみたいなぐずり方に眉をひそめながら、
「ご無礼を!」
頬をぎゅむとつねってみる。
アルネの喉から「んぎゅう……!」と珍妙なうめき声が漏れたが、まだ痛覚には鈍いらしく、目を瞑ったまま長い両腕をグレンダへと伸ばす。
不意を突かれたグレンダは、そのまま体勢を崩しアルネの上へ覆い被さってしまう。
「……っ、アルネ様──」
「あと五分、いや五十分……」
覚醒しきっていないアルネが掠れた声で囁いてくる。
「さあ……グレンダも僕と……二度寝の快感を味わってみない……?」
グレンダは布団とアルネの暖かな誘惑を、にべもなく振り切った。
「あと五十分もあれば出発のお時間です。まだごねるようでしたら……こうですっ!」
騎士学校副首席卒業の
アルネの腕を掴み返すなり、ベッドの上で長身の図体を一回転させてやる。
「ふげぇっ!?」
頭からひっくり返ったアルネ。まもなくうっかり扉に挟まった蛙が潰れた声を出している音みたいな悲鳴。
「ひっどい……ひどいよグレンダ……」
「いつまでも起きてこないからいけないのです。さ、早くお支度を」
さすがに目が覚めたのだろう、アルネは逆さまにひっくり返ったままじとりとグレンダを見据えている。
アルネは両腕を組みながらあごで扉を示し続けているグレンダを見ると、観念したように体を起こした。頭をかき、いつものように気だるそうな顔でぼやきながら。
「……行きたくないなあ」
♰ ♰ ♰ ♰ ♰
一週間ほど前、庭でモーニングティーに興じていたアルネたちの元へ、ヨニーから一通の手紙が届けられた。
「すっかり忘れていたわ。もうそういう季節だったのね」
カイラが鏡台の前にグレンダを座らせ、亜麻色の長髪を左右により分けながら呟く。
グレンダは本当のところ、職務中は
「毎年お誘いを受けているのですか?」
「ええ。……いつもは私だけ行っているのだけれど……」
カイラは鏡の中で少しだけ目を伏せながら、
「アルネも良い歳した大人なんだから。そろそろあの子にも、一人前の領主としてのお務めを果たしてもらわないと」
そう言ってグレンダの髪から手を離した。
カイラの手ほどきで生み出された
これからアルネとグレンダが向かおうとしているのは、ボムゥル領から北方にある山岳地帯──イース領。
主にカイラが領主とは長い付き合いを持つようで、二十年前に起きた大災害『
アルネがボムゥル領主となってからも、夏が迫ると毎年のように城で開かれる社交パーティへの招待を受けていた。
アルネが今朝に限ってグレンダに無理矢理叩き起こされていたのも、そのパーティの時刻までにイース領へ向かわなければならなかったためである。
「どうして伯母さんは付いてきてくれないんだい?」
支度を終えて馬車に乗り込む間際、アルネは怪訝そうにカイラを見下ろした。
「こういうのはいつも伯母さんの役目だったじゃないか」
「四の五の言うんじゃありません。グレンダちゃんが付いているんだから寂しくないでしょう?」
「寂しいから言っているわけじゃないよ」
子ども扱いされて膨れ面をするアルネ。
今回の旅路では、カイラだけでなくセイディも留守番をするらしい。
「伯母様。こういうときはね……」
セイディは悪戯な笑顔を浮かべながらカイラに耳打ちする。耳打ちとは言っても、やはりアルネにも声が届く程度の大きさで、
「騎士様と二人きりで過ごせるよう気を遣ってあげたのよ、とでも言って差し上げた方が公子様もお黙りになるわ」
そんなことを言い出すから、アルネは途端に赤面する。
脇で話を聞いていたグレンダも仰天するほど、アルネは憤慨し声を荒げた。
「馬鹿者。大人をからかうんじゃないっ!!」
「あっははははははははははははっ!!」
セイディがけらけら笑い転げている間に、馬車はゆっくりと動き始める。
きょとんとするグレンダと口をぱくぱくさせているアルネをよそに、馬車は無慈悲にも止まることを知らず、あっというまにカイラやセイディの元を離れていった。
「……いってらっしゃい」
遠ざかった馬車をしばらく眺めながら、カイラはぽつりと声を掛ける。
その口元こそ穏やかな笑みを残していたものの、なぜだか彼女の方こそ、アルネとグレンダがいなくなってしまうのを寂しがっているようにもセイディの目には映ったのだ。
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