ある初夏のモーニングティー(2)
「おはようございます、公子様!」
「寒い……」
明快な声であいさつするセイディにも、アルネはひどく眠そうなあくびで返す。
ジャケットこそ羽織っていたが、シャツはボタンが一番上まで閉まりきっておらず、リボンも首の下で中途半端にぶら下がっていた。本当につい先ほどまで寝巻きだったことがうかがえる。
「アルネったら、良い歳して相変わらずのお寝坊さん」
呆れるようにまぶたを閉じたカイラ。
「あなたみたいなろくでなしに食べさせるパンやお菓子はありません」
「構わないね。ラフランスと熱い紅茶があれば十分」
「飲ませる紅茶もありません」
「頼むよ伯母さん。本当に寒いんだ。まったく……もうじき夏なんじゃないのか」
嘆くアルネへ、グレンダは凛とした態度で告げる。
「梅雨も近いですから、気温は当分現状のままかと」
「いやだなあ。雨は嫌いなんだ」
ジャケットの袖からは白いフリルをのぞかせている。
グレンダは立ち上がりアルネへと足を進めた。立ち上がった際に、剣の鞘が椅子の背もたれをかすめていく。
「失礼します、アルネ様」
断りを入れてからグレンダは両手をアルネの首元へ伸ばす。
シャツのボタンをすべて閉め、傾いた襟を整え、最後にリボンを鎖骨の中心部でするすると結ぶ。
身支度をすべて終えてから、グレンダは一歩後ろへ引いた。
「これで、領民の前に出ても恥ずかしくない身ごしらえになりました」
「はは。ありがとう。……なあグレンダ」
アルネは少しだけ周りの目を気にしながら、完璧に整っていたグレンダの襟元を見下ろす。
グレンダの騎士服は黒を基調としていて、細い首を覆うように襟がぴんと立っている。
「きみもまだ、いつものネクタイを付けていないね?」
「はい。先ほどまで稽古に励んでいて外していました」
「僕に付けさせてくれないか」
グレンダは静かにうなずき、
左右に縛っていた髪で隠れていた耳が、アルネの手によって外気へ晒された。
「変な気分だなあ」
ややぎこちない手つきで、
「男の僕がリボンで、きみのほうがネクタイだなんて」
「……騎士ですから」
「その髪型も似合っているよ」
ネクタイを締め終えるなり、アルネはそう告げた。
数刻をさかのぼり少女に戻ったような感覚になる、不思議な魔法。
騎士として長らく過ごしてきた自分には、到底縁がないと思い込んでいたその髪型を、麗しき我があるじは似合っていると。
大きく見開かれたグレンダの両眼には森が見える。
その瞳はあまりに鮮やかで眩しく、刹那的な深い緑色の輝きを孕んでいた。
二人だけの時間が流れていく。
♰ ♰ ♰ ♰ ♰
「……やっぱり、綺麗な目だ」
アルネの称える声にはっと、グレンダは呆けかけた頬をすぐに引き締め直した。
「世辞を言うお暇があるなら書類を少しでも多く片してください。セイディもヨニーもすでに職務を始めています」
「……騎士様は男の怠慢に厳しいなあ……」
踵を返して机へすたすた歩くグレンダの背中に、アルネは情けないぼやきをこぼす。
そんな二人を眺めていた外野が、口々に野次を飛ばした。
「あ〜なんだ良かったあ。お二人にあたしたちの存在忘れられたかと思った」
「朝から眼福ねえ」
「俺には地獄みたいな景色ですけど……おのれ公子様……」
彼らの目は確かに捉えていた。
あるじへ背中を向けたグレンダの、毅然と振る舞っている両方の頬だけが、くっきりと桃色に染まっていくのを。
(私も、浮かれている場合じゃない)
グレンダは胸に固く誓う。
(公国でなにが起ころうと、私がなすべき務めはひとつだけ。このかたを──アルネ様をお護りする。たとえどんな困難があろうとも)
女騎士グレンダの使命にして宿命だ。
机越しに向かい合い着席した、その
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