翠眼の女騎士と偏愛公子の亡命譚〜生まれ変わったら風になる
仲野ゆらぎ
第一部 翠眼の女騎士と偏愛公子の亡命譚〜生まれ変わったら風になる
ある初夏のモーニングティー(1)
──すべての女性には、美しくなれる『魔法』が宿るらしい。
たとえあなたが、剣と戦場に生きる『女騎士』だったとしても。
♰ ♰ ♰ ♰ ♰
初夏の風が、亜麻色の髪をサァとたなびかせる。
黒を基調とした騎士服に身を包み、剣を構えていたグレンダの耳をくすぐったのは、ノウド公国ボムゥル領、その領主屋敷の二階窓より奏でられた、ヴィオラの柔らかな旋律だ。
「アルネ。……アルネ!」
ほどなくして、庭から旋律が聞こえてきた方角をあおいだ一人の淑女が、
「起きているなら降りてきなさい!」
と、大きく声を張ったのもグレンダは耳にする。
庭に置かれた机へは、淑女が淹れた紅茶のポットと、焼き菓子が用意されていた。
淑女の名はカイラ・ボムゥル。
今のグレンダにとっては第二のあるじ、そして母親にも近しい存在だ。
「ほら、グレンダちゃんも!」
カイラとは少し離れた位置で素振りをしていたグレンダは、
「こっちへおいで。今日はあなたの好きなラフランスもあるわよ」
「恐れ入ります」
そう呼ばれるとすぐに応じ、剣を腰へ提げていた鞘へ収める。キン、と鉄の音があたりでかすかに反響した。
落ち着いた足取りで机へ歩み寄れば、並べられた椅子の一つに早くも腰掛けていた、グレンダよりも幼なげな少女が、
「あ〜あ」
わざとらしく嘆いて、頬をぷくりと膨らませる。
「グレンダ様ってば、まぁたその縛り方!」
机の下で足をばたつかせ、少女はグレンダの頭部を指さす。
「せっかく伯母様が整えてくださってたのにぃ」
少女が不満がっていたのは、後頭部のあたりで一束にまとめられた長髪だ。グレンダは決まりが悪そうに、その縛り口へ触れる。
今朝カイラがしてくれた、あの髪の結び方は、グレンダの日課であった剣の稽古にはあまり向いていない──。
そう直接口に出してしまうのは騎士として、この屋敷に仕える者として愚行だと、グレンダは長らく躊躇っていたけれど。
しかしカイラは、さほど気に留めていない様子だった。稽古が済んだと見るや、
「良いわ。また縛ってあげる」
ポット片手に笑いかけ、もう片方の手で、グレンダを空いている椅子へと招く。
着席するなり、カイラはわざわざグレンダの目前へ鏡を据えてから背後に立つ。
わずかにシワのできた指先で亜麻色の髪をとかし、髪留めを外す。ぶわあ、と急に吹いた風が、広がったグレンダの髪を青空の下で波打たせた。
「ああ──やっぱり」
縛り直せば、カイラはその背中へうっとりと感嘆を漏らす。
「髪の長い女の子は、
「伯母様にだってきっとお似合いよ」
両肘を机に付け、自らの両手でお皿を作って頬を添えさせた少女が反論すれば、カイラはゆるりと首を振る。
「私はもうダメ、
少女の頭へ優しく手を置き、
「セイディも、もう少し伸びたら可愛く結んであげます」
「まあっ、嬉しい!」
拳で頭上へ
セイディの茶髪は肩にかかるか否かくらいで、側頭部の両側で縛るためにはまだまだ長さが足りていないようだ。
「楽しみね。あたしのも、早くグレンダ様くらいまで伸びてほしいわ」
そう口ずさんだあたりで、屋敷の門外より新しい影が近付いてくる。
ザン、ザン。
町から続いた一本道を進んで来たのであろう、革靴の音が大きくなっていく。
肩掛け鞄を揺らし、ハンチング帽を深く被り込んだおかっぱ頭の少年が、
「──伸びたからどうなるってんだ?」
庭の話を聞いていたのか、門をくぐるなり皮肉混じりにボヤく。
「はんっ。全然ちげえや」
グレンダとセイディを交互に見比べ、
「いくら髪型を変えても、お前のガキっぽさは拭えねえな。セイディ」
「なんですって?」
少年が大袈裟なため息を吐けば、セイディはがたんと勢いよく起立する。机上のカップがかすかに震えた。
「ガキが生意気言うんじゃないわよ、ヨニーの減らず口」
セイディは負けじと言い返す。
「仕事しに来たんなら、さっさとそれ寄越しておうちに帰りなさい、坊や?」
彼女の視線にあったのは鞄だ。
ヨニーは町の配達屋で、領土内外から持ち込まれる手紙や荷物を届けている。この屋敷へもよく通っていた。
しっしっと手の甲でヨニーを追い払う姿勢のセイディ。対するカイラはとても淑女的に手招きして、
「いらっしゃいヨニー。あなたもお茶していかない?」
などと誘いをかけたので、セイディは不服そうな声を上げる。
「ええ〜っ? 伯母様! ヨニーなんか別にもてなさなくたって……」
「良いじゃない。うちの誰かさんと違って、朝早くからきっちりお仕事してて偉いわ」
カイラは再び屋敷の窓を見上げる。いつのまにかヴィオラの音色は聞こえなくなっていた。
ハンチング帽を脱いで椅子へ腰掛けたヨニーは、
「はい。今朝のぶん」
二通の封筒を取り出し、うち片方をカイラ、もう片方をグレンダへ渡す。
カイラ──正確にはボムゥル領主宛ての茶封筒へは、
グレンダ宛ての白い封筒には、ていねいな筆致で『
その場で開封を始めるグレンダ。セイディがひょこりと中身をのぞき込む。
「どなたから?」
「おそらく『消えた
『
グレンダの回答にさっと顔色を変えたのはヨニーだ。椅子の上で身体を跳ねさせ、
「ぐ……っぐぐ、グレンダさん!」
青ざめさせたあどけない表情をグレンダへ向ける。
「まっまさか、よその騎士と恋文⁉︎ ここっここ、公子様というものがありながら……」
「いえ」グレンダの否定は早い。「彼には隣国の情報共有を頼んでいただけよ」
いたって真剣な面持ちで、同僚が記した内容へ目を通している。
「スティルク領は国境にあるから」
「そーよそーよ」セイディがしきりに頷く。「グレンダ様が浮気なんかするはずないわ」
「ぐ、ぬ」
「だいたいヨニーは、グレンダ様にとやかく言える立場じゃないでしょう? あんたみたいなお子様に、グレンダ様のお相手は到底務まらないんだから!」
「ばっ、バカやろう!」
ヨニーは途端に顔を真っ赤に染めた。
「まだ望みがまったくないわけじゃねえだろ⁉︎」
どうやら、気を揉んでいたのは浮気うんぬんが理由ではなさそうだ。顔が青くなったり赤くなったり、朝からヨニーは忙しい。
だが、文面を読み終えたグレンダの表情はどこか浮かない。あまりに色恋沙汰とは縁が遠そうな様子で、
「……ね、グレンダ様」
セイディもその心境を探るように、改めてグレンダの顔をのぞいた。
「あちらの騎士様はなんて?」
グレンダは注がれた自分の紅茶を一口、喉へ流し込み、
「……隣国の動きがなかなか読みづらいと」
カップを皿へ置きつつ、答える。
「スティルク領へは常に濃い霧がかかっていて、特に……けど、やはり軍隊による物資移動は、例年よりもずいぶんと活発なんじゃないかと『
「ですよねえ、やっぱり」
答えを聞くなり深く座り直したセイディは、机の焼き菓子へ手を伸ばす。
「モノの流れは人の流れってよく言いますから。隣町の友だちもしょっちゅうボヤいてます。クロンブラッドの、追加で食料寄越せって催促がうるさいのなんのって」
クロンブラッドとは、ここノウド公国の首都だ。
あの町には、グレンダが直近まで過ごしていた騎士学校『
セイディは菓子を何個か口へ放りながら、まだ未開封だった茶封筒へ視線を移した。
「そっちもどうせ、公爵の通達書とかですよ。お次は人手の融通でしょうか? それとも、いよいよ公子様にも召集がかかるんですかね」
いかにも厄介ごとと言いたげな表情で、
「こんな辺境にまで声を掛けてくるなんて、公爵はよほど、隣国との睨みあいに痺れを切らしているんでしょうか?」
「隣国は確か、ノウドとは同盟を結んでいるはずだろ?」
ヨニーも焼き菓子へ手を伸ばす。
「それがどうして……」
「その同盟はあくまでも、前から対立している帝国との交戦に備えた保険でしょ」
セイディがいち早くヨニーの疑問に答えようとする。
「完全に相手を信用に置けるほど、素敵な関係は築けていないのよ。お子様にはわからない話でしょうけど」
「だから、俺をガキ扱いするな!」
再び赤面して怒鳴るヨニー。かくいうセイディも、彼とは大差ない年頃のはずだが。
一人だけ席を立ったまま終始黙り込んでいたカイラが、
「……また争いが始まるのかしら」
独り言のように呟くと、グレンダはすかさず姿勢を正し、
「カイラ様」
よく通る声で。
「いかなる情勢においても、私はあなたの領土と家族を──アルネ様を、お守りします」
その宣誓に偽りはない。
グレンダがカイラへ、そして今のあるじへ示した忠誠の心は、深みがかった緑色の瞳、その奥までしっかりと染み込んでいる。
その
♰ ♰ ♰ ♰ ♰
ちょうどその時だ。
机を取り囲んでいた四人の後ろで、屋敷の玄関扉がギィと軋んだ音を立てる。
のっそりと姿を現し、庭の土を踏んだのは、さっきまでヴィオラを奏でていた青年だった。
アルネ・ボムゥル。
吹いた風で溶けてしまいそうな白い肌に、水よりも透き通った銀髪と、空よりも澄み渡った青い瞳。
いつもだだっ広い屋敷で気だるそうにしている、ボムゥル領のあるじ──そして。
グレンダの、この半島で誰よりも大事な人。
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