第15話

 あの不思議な空間から戻ってきたサクラは学校に戻ることはせず、走って家に帰った。

 アンが教えてくれた『原初の本』がどこにあるかわからないからまずは自分の家の本から片っ端に調べようと思ったのだ。

(本の形をしているわけじゃないって言ってたけど、本当に私に見つけられるのかな?)

 弱気になる気持ちがないわけじゃなかった。だけどアンの言う通り、サクラがしっかりしなければサクラは大事なものを失ってしまう。それだけは嫌だった。だからなんとか気持ちを奮い立たせてサクラは足を進める。

 家に帰ってきたサクラはただいまも言わずに自室へと直行した。サクラの部屋には多くはないがいろんな本が本棚に並べられていた。その本一つ、一つを掘り起こすように次から次へと調べ始める。

「これじゃない……これも違う……」

 サクラは調べた本を本棚に戻す時間ももどかしく思い地面にぽいぽい投げ捨てていく。そして本棚が空になった時、その場に座り込んだ。

 アンは必ずサクラなら見つけられると言ったが、サクラはこれは途方もない作業なのではないだろうかと思った。姿、形もわからず、どこにあるかもわからない、そんな砂漠から一粒の金を探すような作業をサクラはしているんじゃないかと改めて気づいた。

(どうしよう……時間がないのに……早く見つけないといけないのに)

 焦る気持ちがサクラの心を掻き乱す。サクラは散らかした本をそのままに立ち上がって机の上を見る。勉強するための筆記具や教科書、ノートが乱雑に置かれている。机に備え付けられた棚の上には辞書や勉強に使っている細々なものが置かれていた。その中に伏せて置かれた写真たてをサクラは見つけた。

(なんの写真を飾ってたんだっけ?)

 そう思いながらその写真に手を伸ばす。写真たてを裏返して写真が飾られている方を見る。その写真たてにはピースをしながら楽しそうに笑うサクラが映っていた。その隣には同じくピースをしている人物が写っていた。しかしその顔は黒く塗りつぶされていた。

 サクラは思わずその塗りつぶされた顔をなぞる。その塗りつぶされた下にある人こそ、サクラの探し人であるに違いないと思った。

 そう感じた時、ふとサクラの頭に記憶がよぎった。

 それはその写真に込められた記憶だった。

 サクラは彼女と一緒に山にキャンプしに行ったことがあった。家族ぐるみでの付き合いのあるサクラ達はみんなで楽しく水遊びをしたり、バーベキューをしたりとても楽しい時間をそこで過ごした。

『サクラ!』

 顔を黒く塗りつぶされている彼女がサクラの名前を呼ぶ。サクラもその声に顔をあげて笑顔を見せる。

『◾️◾️◾️!』

 彼女の名前は都合よくサクラの耳には届かない。だけどサクラはその名前を元気よく呼んだ。二人は家族に並ぶように言われて一緒に並ぶ。そしてカメラを構えたサクラの父の合図で二人は満面の笑みを浮かべる。

 ずっと一緒だ。

 これからも、ずっと、ずっと____。

 そんな想いを込めながらサクラは彼女に笑いかける。彼女もそれに応えるようにサクラの手を強く握る。

 離ればなれにならないように、固く、結ばれた手を見て。

 顔を上げると、そこはサクラの部屋だった。

 サクラは呆然と今見た光景を頭の中で反芻させる。そしてぽろぽろと涙を流す。

 忘れてはいけない人なのにはっきりと思い出せないことがもどかしく思えた。こんなにも大切なのに、こんなにも会いたいと思うのに、この手が届かないことがサクラの心を苦しめた。

 顔も名前も思い出せない彼女のことを、それでもサクラはこの世の誰よりも大切な人だと思った。

 サクラは流れる涙を乱暴に拭うと、ぱんっと両頬を叩く。こんなところでメソメソしている時間はない。

 サクラは強い意志を瞳に宿しながら、手にした写真たてを大事そうに元に戻す。今度は伏せたりしない。ちゃんと二人の思い出を忘れないように。

 サクラはこの部屋にはもう何もないと、本能的に悟った。最後にもう一度黒く塗りつぶされた写真の中の彼女を見ると、振り返ることなく部屋を出た。

 サクラはこの記憶はこの世界に取り残された彼女の記憶の一つなのかもしれないと考えた。

 アンはこの世界が不完全で出来損ないな世界だと言っていた。そしてこの世界には今、サクラと彼女の物語が絡まった糸のように混在している。サクラはその中の彼女の記憶の一部を垣間見たのではないだろうか。

 いや、それともこれはサクラ自身の記憶だったかもしれない。

 どちらにしてもこの記憶はこの世界に流れ込んだ記憶に過ぎず、時間をかければかけるほどより曖昧になり、いつかは消えて無くなってしまうのだろう。

 そうなる前にサクラは『原初の本』を、そして彼女を見つける必要があった。

 サクラが次に向かったのは市営の図書館だった。大きくはないその図書館はサクラがよく訪れたことのある場所だった。

 サクラは蒸し暑く、相変わらずどんよりとした天気の中その図書館にやってきた。図書館に入ると空調が効いているのか涼しい風がサクラの体を包み込む。

 図書館は入ってすぐのところに貸し出しカウンターがあり、そこにはいつも職員の人がいるはずだった。だけど、今はなぜかそこには誰もいなかった。

(そういえば、家に帰った時も誰もいなかった)

 サクラの母は専業主婦をしておりよっぽどのことがない限り、家にいた。だからこの時間も家にいるはずだったのに、サクラが帰った時いつも声をかけてくれる母の声がしなかった。もしかしたら、サクラが気が付いていないだけだったかもしれないが、それにしては家の中は静かすぎた気がした。

 サクラは貸し出しカウンターを横目に図書館の奥に進む。サクラはこの図書館でよく児童文学書を借りて読むことが多かった。

 児童文学書が置かれた棚にやってくると一つ一つ丁寧に確認していく。しかし、当然のことながら図書館の本は、いくら小さい図書館とはいえ膨大な量だった。

 『原初の本』という名前の手がかりだけでサクラは本を中心に探していたが、これでは効率が悪すぎた。サクラは心の内で、もっとアンに聞いておけばよかった、と後悔した。しかし、今更後悔したところでアンともう一度話せるわけじゃなかった。サクラは仕方なくもう一度児童書を確認していく。

「あ!」

 その時サクラは一冊の児童書を見つけた。その児童書はサクラが特に気に入っている本の一つだった。そして、彼女が気に入ってる本でもあったはずだ。

(そうだ……そうよ!これ、確かあの子が教えてくれたんだ)

 サクラはその児童書を手に取る。可愛らしい女の子二人が表紙には描かれている。仲が良さそうな二人の女の子が一緒に大冒険をする話だったはずだ。

 彼女はこの話をサクラと自分に当てはめて考えて、いつか一緒にいろんなところに行けたらいいね、と言ってくれた。サクラはその考えをとても素敵に感じて、この先もずっと彼女といるんだと思うと胸が高鳴るような気持ちになった。

「どうして……忘れてたんだろう」

 サクラは児童書を手にポツリと呟く。その声は誰に拾われることなくどこかへと消えていく。

 大事な記憶のはずだったのに、サクラはいまの今まで思い出すことができなかった。彼女との大切な約束、それをサクラは忘れていた。他にも忘れていることがたくさんあるのだろうと思うと、早く思い出さなければと心がはやる気持ちになる。

 カタン。

 突如聞こえてきた音にはっとして顔を上げる。

「サクラ?」

 サクラのいる児童文学コーナーの奥からポニーテールに髪を縛ったその子が現れた。その子は鈴原アンリだった。

 サクラは思わずひゅっと息を呑んだ。誰もいないはずの図書館にどうしてアンリがいるのかと戸惑った。

「こんなところで何してるの?探したんだよ?」

 アンリは暗がりからじっとサクラを見ている。まるで獣のように光る二つの瞳がサクラに恐怖心を抱かせる。

 サクラは手にしていた本をきゅっと握り込み、アンリから距離を取るように一歩足を下げた。するとアンリは能面の様な顔のままサクラに一歩近づいた。

「どうして?なんで、逃げようとするの?私たち、親友だよね?」

 アンリの詰問がサクラには苦しかった。この現実において、確かにアンリはサクラの親友のはずだった。だけどこの世界の綻びに気がついたサクラにとって、アンリは彼女の偽物にしか見えなかったのだ。

 アンリはもう一歩、暗がりからサクラの方に近寄る。一歩、一歩と確実にサクラに近づく。サクラは恐怖で足が地面に縫い付けられた様に動くことができなかった。

 アンリの姿が物陰から出てくる。その顔は黒く塗りつぶされたかの様に真っ黒で、その黒い顔の中心で二つの瞳が光っている。とてもじゃないが普通の人ではないその姿にサクラは息を呑む。

 アンリが一歩ずつサクラに近づくたびにその姿は人から人ならざるものへと姿を変える。

「どぉしてぇ?サクラァ……わたしぃたち、ともぉだちぃでしょぉう?」

 アンリの背は縮み、顔だけだった黒いモヤは全身を覆い今では黒い汚泥の様なものが目の前で蠢いている。体からはいくつもの手がサクラへと向かって伸ばされ、まるでサクラという人間を飲み込もうとしていた。

 醜いその化け物を見たサクラは咄嗟に手に持っていた本を投げつけた。その本が化け物に成り果てたアンリに当たるとピカッと光が放たれた。

「うぎゃぁぁ!!」

 アンリは痛そうに目を覆うとその場でオロオロし出した。そして「いたい、いたいよぉ」とまるで泣いているかの様に呻いていた。サクラから意識が離れたその瞬間をサクラは見逃さなかった。

 歩き方を思い出した様に、一歩、一歩と後ろに足を進めると踵を返して走り出した。

 あれに追いつかれたらきっと全てが終わりだ、とそう思った。だから全力でその場を離れた。アンリはいまだに衝撃から立ち直っていないのか、その場でモゴモゴと体を動かしているだけだった。

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