葉山理緒と人見ゆあ 17

「ん、あ……」


 うめきのようなものが口から洩れて、それで目を覚ました。

 そう思ったのだが、たぶんもともとなんとなく起きてはいたような気がする。頭がぼーっとするまま半覚醒だっただけで。

 手探りでスマートフォンを探してみるのだが、散らばったお菓子の空き袋などが手にあたるばかりだった。諦めて床を押して体を持ち上げる。

 テーブルの上に見つけたスマートフォンを手に取って時間を確認する。


(9時……)


 学校があれば完全にアウトだが、夏休みの理緒にとっては十分すぎるほどの早起きだ。

 二度寝をしたい心地で倒れこむように床に横になる。

 目を閉じて、あれ、とようやく床で寝ていることを疑問に思った。

 もう一度目を開けて視線を巡らせると、同じように床に寝転がっている人物が目に入った。顔は見えなかったが、服装から沙耶だとわかる。

 ようやく頭が少し働いてきて、昨夜に沙耶と香澄が家に来ていたことを思い出した。

 夜中までの暴飲暴食、だらだら話して笑ったり香澄に突っ込みを入れたりしていたこともぼんやりと思い出された。


「そうだった……」


 上体を起こして、軽く頭を振る。猛烈にタバコを吸いたくなって、タバコを取ってベランダに出た。

 ベランダに座り込んでタバコに火を点ける。吸い込んだ煙を吐き出すと、頭がクリアになっていく。

 心が静かに凪いでいる。とても久しぶりのことで、漠然と空を見上げた。

 ベランダの下からは車が走る音がして、人の声があるわけではないけれどなんていうか人がいる世界の気配を感じる。そんなこと、ここしばらく感じることもなかった。

 香澄や沙耶と一緒にいて、なんでもない話をして、いつの間にか時間が経っている。

 理緒の日常だったはずのものが、昨夜の光景だ。それがずいぶん久しぶりに感じるのは、やはりゆあとのことがあったからだ。

 夏休みに入ってからはスマートフォンでのやりとりはあっても、香澄と沙耶に会うことはほとんどなかった。今思えば色々と薄情だったかもしれない。


「楽しかったな……」

 

 親友とすごす時間が、素直にそう口にさせた。

 これからも、何度でも、こういう時間が欲しい。

 ゆあと付き合い始めた時もそういう気持ちだったはずなのに、今はそうは思えない。

 シャッという音がして、部屋の中のカーテンが開いた。

 起きたかなと視線を向けると、沙耶が必死の表情でこちらを見ていた。


「ど、どうしたの?」


 窓越しで聞こえるかわからなかったが、思わず訊ねる。

 沙耶は空気が抜けたように深々と息を吐いた。窓をゆっくりと開けてベランダに入ってきたので、慌ててタバコを灰皿に揉み消す。

 沙耶はじっと理緒を見つめた。不満そうな顔に、タバコを吸っていたのを咎められるのかと首を縮める。


「……どこ行ったかと思った」

「どこも行かないよ」


 理緒の返答に返ってきたのは、より厳しいというかほとんど睨んでいるような眼差しだった。

 たじろぐ理緒に、沙耶は拗ねた口調で応える。


「絶対だよ。理緒ちゃんがいなくなったら嫌だから」

「……うん」


 頷いて、沙耶の言っていることが染み入ってきた。

 意識的ではなかったとはいえ、車道に飛び出して死のうとした話はした。沙耶からすれば、一緒にいた理緒がいなくなったと思えば不安になるのは当然だっただろう。

 自分のことしか考えられない自分が嫌になる。ゆあとのこともどうにもできなくて、こうして心配ばかりかけている。

 なんとかしないといけない。誰に何も言わないままでいて失敗した。二人に一緒にいてほしいと口にして、それだけで救われたつもりになった。


(……いや)


 違う。つもりではなく、救われた。

 紫もそうだし、二人がいてくれて、大切な人たちと一緒にいるときが理緒にとっての穏やかな時間だ。

 ――ゆあも、大切な人だと思っていたけど。

 すとん、と腑に落ちるものがあった。


「沙耶、ありがとう」

「……?」

「一緒にいてくれて、すごく嬉しかった」

「理緒ちゃん……?」


 少し疑わし気な沙耶を安心させたくて、笑みを作る。意識した笑顔は苦手なのだが、自然と浮かべることができた。

 たぶん、自然な感情だからだ。無理なく、笑う必要がないからだ。


「なんか、久しぶりだった気がする。沙耶と香澄と、一緒にいられて。いつもそうしてたはずなのに懐かしかったよ。あたし、間違えたね」

「……理緒ちゃんは悪くないよ」


 沙耶の否定の言葉には応えず、言いたいことを口にする。


「もう、辛いところにいたくない。楽しく過ごしたい……幸せになりたい」


 そう思って地元から逃げてきたのに、同じようなぬかるみにはまっていた。

 幸せになりたい、なんてありふれた願いを思い浮かべることすらできなかった。

 幸せのなりかたなんてよくわからないけど、誰と一緒にいればいいのかはわかったような気がする。

 その一歩として、決意を告げる。


「ゆあと、別れる」

「……うん」

「そしたら、夏休みの残りはずっと二人と遊ぶ」

「うん」

「楽しいことたくさんしたい」

「うん、しよう」

「だから、ゆあとは別れる」

「うん」


 小さく頷いた沙耶の手がぴくりと動いた。

 ゆっくりと手を伸ばして、沙耶の手をとる。


「……沙耶の手って、結構小さい?」

「そう、かな……」

「あたしと同じぐらいだ」


 付き合い始めはゆあと手をつなぐとドキドキした。今ではゆあの手は心の痛みをえぐるものになっている。

 人に触れるのは苦手だ。トラウマもあるし、たぶん性格的にもべたべたするのは向いていない気がする。

 それでも今は触れたくなった。沙耶の小さな手の意外な冷たさが心地よくて、心が温かくなる。

 今なら香澄が抱き着いてきても抵抗しないかもしれない。普段の自分なら絶対に考えない発想に、自分自身がおかしくなった。

 うつむいてしまった沙耶に、慌てて手を放す。


「ごめん、やだった?」

「そうじゃない、けど……珍しいなって。香澄ちゃんみたいなことするから」

「……あー、そっか」


 香澄みたいと言われると複雑だったが、どうしてだかそれでもいいかと思ってしまう。

 ちら、と窓から部屋を覗く。そういえば香澄の姿が見えなかったが。


「香澄、帰った?」

「えっと……理緒ちゃんが使ってないからいっかってベッドで寝てた、ような」

「あいつ……」


 半眼でうめいて、頭を振る。眠気はいつの間にか完全に消えていた。


「香澄を蹴り起して、なんか食べに行こっか」

「う、うん……理緒ちゃん?」

「なに?」

「…………」

「沙耶?」


 躊躇う沙耶に首をかしげると、沙耶は目を泳がせながら続ける。


「……香澄ちゃんを蹴って起こすの、私もやった方がいい?」


 沙耶の言葉を一拍遅れて理解して、こらえきれずに噴出した。


「あははっ、いいねそれ。香澄もさすがに驚くんじゃない?」

「が、がんばる……」


 ぎゅっと拳を握る沙耶と部屋に戻る。

 楽しい、自然に笑える、変に顔色を伺うことなく話すことができる。

 求めているのはきっとそんな簡単なことで、それさえできれば良かった。

 理緒にとってそれが叶うのは、ゆあではなかった。

 それを思うと胸がちくりとするが、今は楽しい時間を満喫したい。

 できることなら、ずっとそうしていたい。

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あなたを想う人がいて 朝霞肇 @asaka_hajime

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