第42話 6月26日 金曜日②

 彼女と話してたらいつの間にか菊池さんに電話するのを忘れてしまっていた。

 

 「あっ、そうだ。ちょっといつもの電話いい?」

 

 「うん」

 

 彼女はこの電話ボックスから五メートルほど離れて行った。

 やっぱりこれだけの距離が空くと僕の会話が彼女に聞こえるわけがない。

 僕は慌てて公衆電話にテレホンカードを入れた。

 しばらくプルルルと呼び出し音がなって菊池さんの声がした。

 今日は四時四十五分までの休憩のはずだからまだ大丈夫だろう。

 

 「菊池さん、ちょっと遅れました。すみません」

 

 「いや、いいんだよ」

 

 「今日はどうでしょうか?」

 

 「うん。安定してたよ」

 

 「そうですか。確認ありがとうございます」

 

 僕がそう言ったあと菊池さんと僕の会話のあいだにわずかな間ができた。

 

 「……ねえ、拓海くん。あのね」

 

 「はい」

 

 なんだろう? じつは母さんの状態が悪化したとか?

 

 「拓海くんがお母さんのお見舞いにきた日も拓海くんは用事があるって言ってたし。二十三日の火曜日も”明日は電話をかけられないかもしれない”って言ってじっさい電話はかかってこなかった。僕に梅木さんのことを訊いてきたときも考えごとをしていて心ここにあらずだった気がする。それに今日の電話もいつもよりだいぶ遅れた」

 

 ああ、僕があまりに身勝手に予定を変えるからついに菊池さんを怒らせてしまった。

 

 「すみません」

 

 「違うんだよ」

 

 菊池さんは怒るどころかものすごく穏やかだった。

 

 「何がですか?」

 

 「拓海くん。もういいんじゃないかい?」

 

 「えっと、それってどういう意味ですか?」

 

 「毎日毎日、僕に電話をかけることさ」

 

 迷惑がられてるのかもしれない。

 僕はまるで不幸という砂鉄を集める磁石みたいだ。

 母さんの見舞いに行った日に僕は菊池さんのスマホの着信履歴を見た。

 来る日も来る日も僕がかけた電話の【公衆電話】【公衆電話】【公衆電話】【公衆電話】【公衆電話】【公衆電話】の履歴ばっかり。


 そりゃあ嫌になるよな。

 毎日毎日、夕方の休憩時間には僕からの電話。

 電話しない日もあれば遅れてかけてみたり。

 

 「ご迷惑ですよね? 毎日毎日、母さんの様子を見てもらって」

 

 「そうじゃないんだ。拓海くんは前にも僕の休憩時間を潰したって気にかけてくれたけれどそれは本当にかまわないんだよ。これを提案したのは僕からなんだし。何より僕は拓海くんのお母さんのご両親にお世話になったんだからね。拓海くんは優しすぎる。それはお母さんに対してもだよ?」

 

 「はあ……」

 

 「拓海くん。僕が言いたいのはね。きみは毎日電話かけることを義務にしている。電話をかけなければいけないと思ってるんだ」

 

 「えっ?」

 

 「もしも今の生活の中で電話をかけることを忘れるくらい夢中になれることがあったらそっちに集中したっていいんだよ? ただでさえ今はヤングケアラーが問題になってるんだし。あいにく拓海くんのお母さんは命に係わるような状態じゃない。仮に何かあれば僕が町内会の誰かに電話してとりついでもらうこともできる。電気が止まったときのように僕が車で拓海くんの家に行くこともできるし。それに大納言の大場さんも何かのときには遠慮なく連絡してほしいとおっしゃってたよ」


 「菊池さん。大将、じゃなく大場さんと話したことあるんですか?」


 「拓海くんがアルバイトをはじめるときに備考欄に僕が保護者代わりになるって旨を書いたじゃない?」

 

 目から鱗だった。

 そうだ履歴書の備考欄に緊急連絡先として菊池さんの名前と住所と携帯番号を書いたんだ。

 ふたりでそんなことまで話してたのか。

 

 「拓海くん。もう一回本当・・の高校生に戻ったらどうだろう?」

 

 「えっ……と」

 

 「それにね」

 

 「はい」

 

 「拓海くんのお母さんの入院費なんだけどね」

 

 僕はその入院費から目を背けていた気がする。

 じっさいどうなっているんだろう? 母さんの保険証があったからなんとなくそれでやってるいけてたような気がしてたけど……。

 

 「ああ、はい」

 

 身構えてしまう。

 

 「S町のひとり親家庭等医療費助成制度のひとつである高額医療費制度を適用してるから安心して 」

 

 「じゃあ、そんなに費用はかかってないんですか?」

 

 「拓海くんのお母さんが持っていた定期をひとつ解約して使わせてもらってるしね。そのあたりは大丈夫だから心配しないで」

 

 「そうですか」

 

 心が軽くなった。

 

 「でも、それもこれも警察の梅木さんが尽力してくれたおかげなんだよ」

 

 「えっ、あの刑事さんが?」

 

 「そう」

 

 僕は何も知らなかった。

 警察はあれで終わりだと思っていた。

 事情を訊いてあとは”さよなら”みたいに思ってた。

 警察を怨んでいたのはただの逆恨みだ。


 僕は憎しみの対象を間違えていた。

 たぶんそれは詐欺グールプの犯人の顔がわからないからなんだ。

 それよりも担当してくれた梅木さんを憎むほうが楽だったから。

 絶対的に騙す人間が悪いのに僕はどうしてそんなふうに思ってしまったんだろう……?


 「あと、ときどき担任の水木先生からも連絡がくるよ」

 

 えっ!? 

 水木先生も? 日曜日に特別【コンピュータ室】を開けてくれたりもした。

 

 「拓海くん。きみは世界の何もかも信じてないけど。まあ、お母さんがあんなふうになってしまったんだからそれも無理はないと思う。でも世の中だってそうそう捨てたもんじゃないよ」


 「そうですね」

 

 そうだ僕はこの世界のすべてを拒絶してたんだ。

 すべてが敵だと思ってた。

 貧すれば鈍するなんてよくいったものだ。

 

 「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらってしばらく電話を控えさせてもらおうと思います」

 

 「うん。きっとお母さんもそれを望むはずだよ? 今しかない時間を楽しんで」

 

 「はい。ありがとうございます」

 

 今日はテレホンカードをだいぶ使ったな。

 でも新しいテレホンカードにしたから残りはまだ「35」パワーもある。


 菊池さん、大将、水木先生それにあの警察の梅木さん。

 僕は僕の知らないところでたくさんの人に助けてもらってたんだ。

 僕、自身が気づいていなかったことを菊池さんに気づかせてもらった。

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