第22話 6月13日 土曜日③

 自動ドアをくぐって病院に入ると菊池さんはすでに総合受付のところにいた。

 ――あっ。菊池さんがそんな感じの表情でスマホを片手に手を上げた。

 目印があってわかりやすい。

 僕は足早に菊池さんのもとへと向かう。


 「拓海くん。今日、ちょっとお母さんの具合が悪くなっちゃったみたいなんだ」

 

 バスに乗る前に菊池さんに電話したときはまあまあ安定してたんだけど体調のことだし刻々と変化するのはしょうがないか。

 

 「そうですか」

 

 「面会は無理かもしれないけれど顔だけでも見ていくのはどうだろう?」

 

 「そうですね」

 

 病棟前の廊下からそっと顔だけでも見ようと思った。

 僕は病院の総合受付で面会のことを伝える。


 K市にあるこの病院では面会者の腕にその日の日付の入ったシールを貼りそれを許可証代わりにしている。

 面会者の人数を制限することは感染症の予防や防犯の面でも有効らしい。

 今、僕の右腕には【6/13】というシールが貼ってある。

 

 受付の横にある備え付けのテーブルに座わって面会申込み用紙に僕の名前、続柄つづきがら電話番号、面会希望時間なんかを書き菊池さんと一緒に母さんのいる病棟に向かう。


 エレベーターを待っているあいだまだ母さんと一緒に住んでいたころのふつうの表情を思いだした。

 自然な表情というのは本当に”自然”に出てくるものなんだ。

 エレベーターに乗って母さんが入院しているフロアで下りる。

 

 エッセンシャルワーカーのスタッフさんたちがいる看護師詰所に面会の書類を出す。

 菊池さんは気を使ってくれたようで、さきに一階に戻っていると僕に背を向けた。

 僕は母さんが入院している部屋の前まで行ってすこしだけ部屋の様子をうかがう。

 

 菊池さんが前もってカーテンを開けておいてくれたのか? あるいはそういう伝言をきいた看護師さんが開けておいてくれたのか? 病室のベッドにいる母さんがよく見えた。


 入院してからの母さんは無表情に近い。

 目が虚ろ、よくいう生気がない、そんな状態だ。

 カラーリングをしないとあんな白髪があるんだ。

 苦労したからな。


 母さんはベットの上で大人しくしていたけれど何かをぶつぶつと呟いていた。

 これはまだ良いほうで記憶がフラッシュバックすると声をあげて錯乱することもある。

 後悔、悲しみ、怒り、絶望いったいどんな感情なのか僕にはわからない。

 

 子どもであっても自分以外の思いなんてわかるわけがない。

 心は豆腐のようなものでそれが崩れてしまうと治すのはなかなか難しいと担当医は言っていた。

 ただ医者はやっぱり医者なんだと安心する。


 心は胸の奥になんかないときっぱりと説明してくれた。

 結局のところ母さんの発作は脳の機能が低下して起こっているようだ。

 僕は、はっきりと脳に原因があると断定してくれて単純に嬉しかった。


 最近は治療法も進んでいてこういう心の病もわりと簡単に治る日がくるかもしれない。

 かつては心の風邪なんて呼びかたもあったわけだし。

 だったら母さんはあたまの風邪ですこし熱が高いだけ。

 僕はなんとなくそう思った。

 

 まあ、顔だけでも見られたからいいか。

 菊池さんにはまだあの白い封筒のことは言わずもうすこし様子を見てみることにした。

 僕がバスの中で何度も思ったように「受け子」があの金額を取り立てにくるのはちょっと考えづらい。

 

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