第14話 6月9日 火曜日④
アルバイト中なのに仕事だという気がしない。
そういや今日、家に帰ってポストのなか確認したっけ? それさえ忘れてしまっていた。
どうしてこんなにふわふわしてるんだろう? 鮮明に覚えているのは家に帰ってマントレーニアのカップをダイニングテーブルに置いたことだけ。
あっ、なぜかポケットにテレホンカードを買ったときのシールが入ってる。
着替えのときに紛れ込んだのか? 制服からどうやって移動してきたんだろう。
なんだかずっと
おっと、食器を洗わないと。
店の中にはこの時間帯にはめずらしく僕と同じ年くらいの女子三人組がコの字型のカウンター席に座っていた。
カウンターの真ん中は店に入っていちばん最初に目につく場所だから三人も座っていればなかなか圧迫感がある。
まあ、そのぶん華やかではあるけど。
僕は大納言の専用の洗い桶の中でつぎつぎと食器たちを洗っていく。
業務用の洗剤は油汚れがよく落ちるようになっていて、そんなに食器をこすらなくてもきれいになる。
指先で食器をこすってみるとキュキュっとバスケットシューズの底で鳴るような音がした。
その音で油が落ちているとすぐにわかる。
油のヌルヌルがこんなきれいになるんだから、それは、あれっ、このどんぶりってさっき洗ったやつだ。
僕は今、同じラーメンどんぶりを二回洗っていた。
なんだか迷宮に迷い込んだように同じ食器類を繰り返し洗っていたようだ。
「泥棒の子どもから金を盗たってそれは正義」
女子三人組のうちのひとりがそう言った。
三人の中では長身の娘だ。
盗み聞きはしたくないけど、ついつい僕のアンテナが反応してしまった。
同意はできる。
食器がキュキュと鳴った。
よしつぎの皿。
「ほら歴史の中で似たことをやってた人いるじゃん」
「誰?」
「ルパンの仲間」
「ああ、石川五右衛門。ルパンのは石川五ェ門で字がすこし違うけどね。発音は同じでもルパンのは”え”が片仮名の小さいエ、な」
「
いくら泥棒を取り締まっても泥棒に盗られた物は被害者に返ってこない。
それこそ義賊にでも頼らないと。
取り締まる人は取り締まるために存在していて盗られたもの取り返すために存在しているわけじゃない。
だから盗られた物は返ってこないというのが世の常だ。
覆水盆に返らず零れてしまった水はもう元には戻らない。
「はぁ、うちらも、もう高三だし。来年からどうしよう」
「義賊って職業?」
「な、わけないし」
「
社会がそれを許さないだろうけれど仮に今の世に義賊なんて職業があれば救われる人はたくさんいると思う。
彼女たちも高三、か? 僕と同じ学年の彼女たちには将来の選択肢がある。
何かを選べるっていうのは本当に幸せなことだ。
手のあいた秋山さんが僕の横にきてエプロンのポケットから一口チョコを出してくれた。
「はい。拓海くん」
まだ洗い桶にコップ類は残っているけれど、ちょうど食器を洗い終えたところだから一息つくか。
「あっ、どうも」
秋山さんがときどきくれるおやつは僕のアルバイト中の楽しみのひとつでもある。
僕がチョコを口に入れると、今度は秋山さんがスマホを広げた。
「拓海くん。これ見て」
「なんですか?」
秋山さんが画面を上にスクロールさせると、どこかの誰かが運営している「このラーメンがヤバい。(このヤバ)」というブログのタイトルが見えた。
「このヤバ、よ。拓海くん知らない?」
僕は知らなけれど、そこそこ有名なグルメブロガーが書いてるものらしいことはわかった。
僕も、まあまあネットには詳しいけれどグルメ系はちょっと専門外だ。
「このヤバ」って、すでに省略されている部分もタイトルの一部なんだ。
読者数がスゴイことになっていた。
最近は「YouTuber」やSNSの「インフルエンサー」の影響力もすごいけどブログの影響力もいまだにすごいみたいだ。
「このヤバ」には、ちょうどこの店、「ラーメン大納言」のことが書かれていた。
それは店のいちばん人気のメニューの味噌バターチャーシュー麺についての記事で総合評価もある。
星が三つあってその中のふたつが黄色、みっつめは半分が黄色で半分が灰色。
二・五点って感じかな?
つまり僕がアルバイトをしている「ラーメン大納言」の店全体の評価は星二・五ってことになる。
なかなか高得点のラーメン店ということだろう。
「この人いつ
「ですね。でもS町は今、化石関連の観光客が多いですから」
「でも、ふつうの客に混ざってこんなことやってるのよね?」
秋山さんは指でスマホの画面をスクロールさせてブログの記事を上下にいったりきたりしている。
「覆面調査員みたいなブロガーですね?」
僕の声は僕のうしろで野菜を切っている大将に聞こえたかもしれない。
まな板の上でトントンと鳴っていた音が急に止まった。
「覆面調査員ってあのミシュランみたいな?」
秋山さんはそう声を上げたあと、小さく「えっ」か「おっ」のどちらかわからない言葉をもらした。
「ミシュランだぁ。バカか。星の光より油のテカリよ」
大将にもやっぱり僕らの会話が届いてたみたいだ。
しかも大将もこのブログのこと知ってたのか? 秋山さんがスマホで教えたのかもしれない? まあ、いつもと違う客層がきてる時点で気づいたかもしれないし。
今、大納言のテレビは相撲中継を中断させて入る十分間ニュースになった。
大将はそんなニュースなんてまったく気にせず、また、まな板の上で長ネギを切りはじめた。
――大手ショッピングサイトで個人情報が流出したとして、現在緊急メンテナンスをおこなってる模様です。流出したとされる個人情報の数は二十万件以上にのぼり――。
でも流出したものは二度と止められない。
「あっ、うちもここ使ってる。情報漏れたかも。ヤバす」
さっきの女子三人組のうちのひとりがテレビを見ながら言った。
けれど事の重大さをまったく理解していないようだった。
なぜならその会話はそこで終わってしまい三人組の中でもいちばん背の高い娘がベージュの長財布を出して会計の相談をはじめたからだ。
個人情報が洩れる危険をあまりに軽く見ている。
でも、それを学校では重大なことだとは教えてくれない。
話題にあがってもまるまる一時間、授業を使って勉強するなんてことはない。
「使えるポンイントカードがあったら全部使っちゃおう」
「泥棒一族が自分で警察行くわけなんてないんだし」
「だよね~」
秋山さんはルパンと義賊の話をしている女子たちの中でいちばん背が高い娘が持っているベージュの財布をチラチラと見ている。
敏感に反応しているのはその財布の端で揺れている「L」というアルファベットのロゴのキーホルダーだ。
秋山さんは声をひそめた。
「あれって。私がつぎに応援しようとしてる
ルード? へーそういうことか。
でも、僕と同じくらいの女子なら
「デビュー前なのに全国展開してるドラッグストアとももうタイアップしてるんだよね」
僕は秋山さんと話しながらも食器洗いを再開した。
泡立ったスポンジでコップの縁を念入りに洗っていく。
あの娘もそういうアイドルに興味があるんだろうか? ああ、このコップを洗うのも二回目だった。
僕は手の甲で水を出しコップをすすいだ。
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