第5話 6月8日 月曜日⑤

 彼女はまたけらけらと笑った。

 その笑いかたはときどき道ですれ違う幼稚園児の列から聞こえてくる笑いかたに似ている。

 謙遜だとか遠慮だとか悪意がまったくない笑いかただ。

 これを無邪気とかって呼ぶのかな。


 彼女は笑いながら千円札をまた四つ折りにしてがま口財布の「がま口」に入れてからまた離れ離れになっていた球体と球体をぱちんと交差させた。

 

 「冗談ってわかってるなら小銭だしてね。お釣りはでないから慎重に」

 

 「どういうこと?」

 

 彼女は電話ボックスの中ではじめて振り返った。

 僕はとっさに仰け反るようにして扉を押さえている手を放してしまった。

 慌ててすぐにドアを掴み直す。

 そっか僕が善意で言ったことも知らない人にとってはまるで意味をなさない。

 どころか話も通じないのか。

 

 「電話機のその右上にある細長い隙間に小銭が入るのはわかるよね?」

 

 「ああ、これね~。これはわかりますよ~」

 

 彼女はまた丁寧語で硬貨投入口を指差している。

 

 「だってジュースの自販と縦横の位置が違うだけだもん」

 

 いわれてみればそうだ。 

 理髪店の前で自動販売機を見たけれど、公衆電話の硬貨投入口は自動販売機の硬貨投入口を縦にしただけだ。

 

 「まず公衆電話で使える小銭は十円と百円だけだから。たとえば十円ぶん話すのに百円を入れてもお釣りはでない」

 

 「えっ、新手の詐欺?」

 

 詐欺とは他人を騙してお金なんかを奪ったり損害を与えたり相手の心に傷を負わすこと……。

 まあ、いっか。

 言いたいことはわかる。

 彼女はどことなく言っちゃいけない言葉だったという顔をしていた。

 気のせいかな?


 仮にこの公衆電話がお金を奪うための装置なら年がら年中、町の中に置きっぱなしっていうのもおかしな話だ。

 騙された人たちの通報によって警察なり弁護士なりが何かしらのアクションを起こすはず。


 「ごめん」

 

 彼女はか細く謝って真顔になった。

 その――ごめん、はどうやら話のペースを乱してごめんのようだ。

 

 「詐欺じゃないよ。この電話はそういう仕組みなんだ。というか全国すべての公衆電話は同じ仕様だと思う。遠距離になればなるほど十円で通話できる時間も短くなるし。一分だけ話したいのに百円を入れたらそれはかける側のミスってこと。さらには深夜と早朝によっても通話料金が変わる」

 

 「げ、激ムズ。私を試してるのね?」

 

 なんだか芝居下手の役者のようだった。

 たしかに遠く距離の離れた人とどんな話をするのか?を考えながら硬貨を入れていくのは難しい。

 それは激ムズに違いない。


 「たしかに簡単ではないね」


 「きみのおすすめは? いくらを入れてどこにかけて何分話す?」

 

 いやいや僕にそんな質問をされても……きみこそまずどこに電話かけるか決めてからその相手とどれくらい話すかを考えて投入金額を決めないと。

 そもそも電話をかけたい相手がいたんじゃないの? ただ公衆電話を使ってみたかっただけ? 僕はまるで食べ物の好き嫌いでも訊かれているようなニュアンスで質問された。

 

 「僕なら最初に誰とどれくらい話しをするか決めてから電話をかけるよ」

 

 「そうか~。そうだよね~」

 

 彼女は首を傾げて考え込んでいる。

 傾いた頭が電話ボックスのガラスの壁にくっつくほど曲っていった。

 悩みすぎ。

 

 「まずは練習でかける場所がないか考えてよ?」

 

 はっ? 彼女はガバっと首の位置を戻した。 

 

 「どこかって?」

 

 僕も訊き返す。

 

 「初心者がいちばん最初にかけるようなところ」

 

 すごい発想をする娘だ。

 ただ公衆電話から電話をするだけなのに何かの競技のようになってしまった。

 初心者がいちばん最初に電話かけるってところ? これって水泳ならまずはビート板を使って練習をはじめるっていうのに近い。


 というか僕には公衆電話の初心者たちが一律で最初に電話をかけるところなんて思いつかない。

 ……けれど、あるとすれば”あっち”か”あっち”か、かな?


 「じゃあ」

 

 僕がそう言ったときだった。

 

 「110番ひゃくとうばん119番ひゃくじゅうきゅうばんね」

 

 「ぜ、絶対ダメだよ。それに110番ひゃくとうばん119番ひゃくじゅうきゅうばんなら電話機の左下にある赤いボタンを押せば無料で繋がるし」

 

 「あら便利」

 

 あら便利って、彼女はこれまでになく満面の笑みを浮かべた。

 どうして彼女の表情がそんなにはっきりわかったのか?それは今、僕が彼女と向かい合ってるからだ。

 いつの間にかこの態勢になっていた。


 僕は腕でドアを押さえるのをやめて今や背中全体を使ってドアを押さえている。

 彼女にその赤いボタンの存在を教えたことをすこし後悔した。

 まさかとは思うけど押したりしないよな? 不安が過ったけれど、この娘だってすごく非常識なわけじゃないから大丈夫だろう。

 

 「けど押さないでね?」

 

 「どうかな~。怖い人が迫ってきたら押しちゃうかもしれないよ」

 

 笑いを堪えながら曖昧に返事をした。

 この感じは大丈夫なやつだ。

 それに怖い人が迫ってきたら、そのときは「110」を押していいと思う。

 むしろそれが正しい使いかただ。

 ただ僕は「110番ひゃくとうばん」が本当に一市民を助けてくれるかどうかの責任は持てない。


 「んで僕のおすすめは117か177かな」


 「117と177。なんてややこしいの」


 「まあ、そうだね」


 ”117”と”177”はたしかにややこしい。

 正直、僕も今どっちがどっちだったっけ?って思った。

 心の中で整理する。


 「117が天気予報で177が時報」

 

 「えー117を押すと天気を教えてくれるの?」

 

 「そうだけど」

 

 彼女は目を丸くして驚いた。

 それも理解はできる。

 天気予報ならテレビでも頻繁にやっているし、ネット環境があればいつでもどこでも確認したい地域の天気を調べられる。

 ましてPCやスマホならテレビと違って自分が住んでいる地域が出てくるまで待つ必要もない。


 「目から鱗」


 なぜ目から鱗が落ちたんだろう? そこまですごい知識だったかな?

 

 「ところで時報ってなに?」

 

 「ああ、あれだよ。何時何分をお知らせしますってやつ」

 

 「へーそれって何に使うもの?」

 

 えっ? この娘は意表をついて鋭いことを訊いてくる。

 時報の使い道か? あれってじっさいなんのためにあるんだろう? あれを聞きながらカップ麺を待つっていうのも現実的じゃないな。

 

 「さあ、わからない」

 

 「そっか。じゃあ初心者の私は天気予報にかけてみます」

 

 彼女はそこで言葉を区切った。

 

 「なのですが。ちょっとスーパーかコンビニに行ってきまーす」

 

 

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