第8話 ステータス・クローズ
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22時を告げる時計の鐘が、食堂に響き渡った。絨毯に赤い血が染みるのも無視して、カチリ、コチリと、機械的な音を立て続けている。
「…………ハッ!?わ、私は、何を……!?ああ……ああ、ジュネ……!?ジュネーーーー!!」
HP僅かな娘を斬った父は、自分が何をしたのか、斬り殺してからようやく気付いたらしい。自分の娘を自分の手で殺害した父は、まるで自分の右手を呪うように左手で覆い隠し、泣きながら崩れ落ちていた。
細腕の娘が勇者を殴っても、1ダメージは保証されている世界だ。研いだ鉄剣で胴を斬れば、当然1ダメージでは済まない。まず50ダメージは与えただろう。
ジュネ・ジャンメールは、父親からの物理攻撃によってHP0となり、その生涯を閉じた――
「……よく頑張ったね、シュウ。おつかれさま」
――と、今までならばそう記述されていたに違いない。
「ジュネ!?おお、ジュネ!!生きていたのか!!奇跡だ!これぞ女神の奇跡――」
泣き笑いの表情で抱き着こうとしてきた父親の顔を、今度こそ全力で殴り飛ばした。レベル16程度の雑魚であれば、私のステータスでも十分粉々に出来ると思っていたのに、やはり現実はそう思い通りにはいかないらしい。
私が放った渾身の一撃は、父の体を壁際へ叩きつけるに留まった。当然、粉々にはなっていない。
「はひぇ!?ジュ、ジュネ!?何をするんだ!?」
「子殺しにかける情けなんてありません」
私はハンカチを首の傷口に当て、強く圧迫した。少々息苦しいが、こうするのが一番手っ取り早い止血方法だと、かつてシュウに学んだことがある。
「そ、そうだ!?お前、どうして無事なん――」
私ははしたないと知りつつも、切られたドレスの上着を片手で引き裂いた。その下には古いチェーンメイルが仕込まれている。実戦経験の薄い父では、生身と鎧の斬り応えが判別できなかったのだろうか。
「仕込み鎧だと!?」
「そんな大したものではありません、ただの訓練用です。尤もこの程度の防御力では、仮にHP30だったとしても
私たちに実戦で使う剣と鎧を装備させて訓練させていた、セルジュ流の教えが役に立った。
「……役に立ってほしくはありませんでした。激昂した父親が娘を攻撃するかもしれないだなんて、わずかでも予測した自分を嫌悪しましたのに。残念です、父上」
「あ……う……っ!?」
あの人の教えはいつだって現実的で、実戦的だった。お茶を淹れる時だって、清浄魔法ではなく流水で手を洗い流していた。ステータス主義の中では無能に類する拘りだったかもしれないが、彼もまた魔王によって最も向いていない適性を与えられていた一人だったのかもしれない。
「……あっ……仮……に?」
「父上、私のHPが見えますか?」
私の指摘を受けた父の顔が、一気に白くなった。
「ア、<
「勇者様が、魔王を滅ぼしたのです。もう終わりですね、父上」
私は指をパチリと一度鳴らすと、物陰に隠れていた侍女たちが一斉に父に飛び掛かり、拘束した。一番最初に飛び付いたのは、シュウを最も叱責し、最も泣いていたあの侍女長だった。
「お、お前達!?」
「貴女達も見ていたわね!?ジャンメール伯爵を国王陛下に対する背任、勇者様への侮辱、及び娘に対する殺人未遂の容疑で憲兵に引き渡しなさい!領主不在の間は、私が領主代行を執り行います!!」
父は必死に抵抗していたが、レベルだけに頼っていた非力な中年貴族よりも、日々懸命に肉体労働をしていた侍女達の方が力はあったらしい。二人掛かりとはいえ、あの父が身動き一つ取れなくなっていた。
「な、何をする!?無礼者め!お前らは全員クビだ!!おい、離せ!こんな箱入り娘に統治など出来るものか!!そんなことになればジャンメール領は終わりだぞ!!離せえええええ!!!」
「父上、とても残念です。貴方がもっと私と勇者様の言葉に耳を傾けていれば、もっといい結果になったでしょうに。……きっともう二度と会うことは無いでしょう」
「ジュネ!!貴様ああああああ!!」
怨嗟の声を上げ続ける父は、憲兵に引き渡された後もずっと叫び続けていた。ジャンメール家を滅ぼす愚かな娘だ、【女神の勇者】こそが世界を滅ぼす真の魔王だなどと、陛下から重い沙汰を下される瞬間まで叫び続けていたという。
残念ながら、私はその最期に立ち会うことは出来なかったが。
「お嬢様……今後、いかがいたしましょうか」
「勇者様のお帰りを待ちましょう。でも、まずは領民の混乱を抑えなくちゃいけない。私が陣頭に立って、今後の方針を説明するわ」
「そんな、危険です!!だってお嬢様は――」
「大丈夫よ、侍女長」
私はもう、HPの鎖には縛られていないのだから。
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勇者様とその従者は、魔法が無くなった日から1年が経っても帰ってこなかった。私は領主代行、というより実質的な領主として魔法無き後の領地の混乱を抑えながら、彼の帰りを待ち続けた。領民はみな混乱し、時に錯乱して犯罪に手を染める者も少なくなかったが、大半の者が魔物の脅威に覚えずに生活できることを喜んでいるようだった。
ただ課題は依然多く、そしてあまりにも大きすぎた。私が領主として未熟だったという点はもちろんあるが、あまりに世の中が混迷を極めていたがために、経験不足については然程問題にならなかった。
……統治者の未熟が問題に上がらないほど深刻だったのが、重要書類及び文献の喪失だった。
「領主様。土地の権利書と税を記録する帳簿が、やはり見つかりません」
侍女長だった彼女は、今では私の秘書として勤めている。
「財務管理どころか、税務管理のための帳簿でさえ紙で保管してなかったというの?あれは保管責任者に何かあった時のため、<
「紙は嵩張って重いですので、倉庫に保管、整理するのを嫌う人間が多かったようです。前領主様が、まさにその筆頭でしたから……」
「……先代ジャンメール伯爵の名は、地に落ちるわね」
帳簿だけではない。公文書の多くが責任者の魔法で収容されていたがために、魔法が使えなくなった時点で完全に喪失されてしまっていた。事前の布告にも関わらず全くその点に対応していなかったことに、当然国王は激怒。半数以上の役人が更迭され、国中の役人がその首を寒からしめていた。
結果として、我が国は魔王討伐前と比べて文化的にも文明的にも後退を余儀なくされている。魔王の力に依存して発展してきたツケは、あまりにも大きかった。
「小娘の日記帳とはわけが違うというのに、呆れてものも言えないわ。でも、今はそんなことを言ってもいられないわね」
「如何いたしましょうか」
「無いものは仕方ないでしょ。埃を被って眠ったままだった水車駆動の印刷機が残っていたはずよ。あれを再稼働させて、ジャンメール領内の経済活動に必要な提出書類や公正文書の雛形を印刷しなさい。かなり古い記録でしょうけど、当時の税負担割合がそこから割り出せるはずよ。取り急ぎ、それで領内の経済を回していくしかないわね」
「今年度中に間に合うでしょうか?」
「……間に合わせるしかないわ。まずは税と免税権に関する記録を最優先に復旧させましょう――」
激務に次ぐ激務。寝る間も惜しんで仕事をする毎日。だけど、いつかまた彼と会えるという希望だけが、私の身体と頭を動かし続けていた。彼と戦えなかった分、今は私が戦う番だと信じていた。
半年が経った。まだ道中の半分あたりだろうと信じた。
1年が経った。きっと遅れる理由が出来たのだろうと信じた。
そして2年が経ち、3年が経った。理由が無くても、絶対に帰ってくると信じ続けた。
5年経ってもなお、帰りの報せは私の元に届かなかった。
「領主様、お客様がいらっしゃいました」
「誰かしら?予定は入ってなかったはずよね」
「……ご無沙汰しております、お嬢様」
侍女長だった女の後ろから現れたのは、かつて我が家の執事をしていた男だった。
「……セルジュ?セルジュなの!?」
「ただいま戻りました、お嬢様」
一体どれほどの修羅場をくぐれば、このような姿になれるのだろう。嫌味は多いが面倒見の良かった男は、その片目を眼帯で覆い、左足を引き摺っていたにも関わらず、ただならぬ強者の気配を身にまとっていた。やはり彼は、執事で収まる器ではなかったのだ。
「おかえりなさい、セルジュ!……無事でよかったわ」
「無事と言って良いのかどうか……まあ、五体が無事なだけマシではあるでしょう」
「こうして再会できただけでも奇跡よ。それで、シュウはどうしたの?」
「……」
「…………セルジュ?」
「やつは……」
やつは……もういません。
「……セルジュ。冗談を聞く気分ではないの。ちゃんと説明して」
「……シュウと魔王の戦いは熾烈を極めました。シュウも道中で自らを鍛え抜き、人間の限界をも超えて魔王に挑みましたが、魔王はそれをさらに上回っていたのです。私は……旅の道中で早々に戦力外となり、魔王と彼の戦いを見届ける以外に何も出来ませんでした。魔王にとって私は、蟻か羽虫に過ぎなかったのです」
「セルジュ、だからシュウは!?シュウはどうなったのよ!?」
「……申し訳ありません」
「何を謝っているの!?ちゃんと言って!!言っていることが全然分からないわっ!!」
「申し訳ありません、お嬢様」
セルジュの目は、悲哀に満ち溢れていた。私はそれを見て、すべてを察した。
……長い年月は、私にそれを察するだけの想像力を与えてしまっていた。
「……大変申し訳ありません。私は、シュウを守れませんでした。彼は最期まで立派に勇者として戦い、魔王を滅するためにすべての力を出し切り……ありったけのHPとMPをすべて使い切って、私の目の前で塵となって消え去りました。彼の遺品は、何も残っていません。……やつは……シュウのやつは!!この世界に何一つ遺さずに、魔王と共にこの世から消えてしまったのですッッ!!!」
『うっ……ううっ……!行かないでよ……!世界のために、戦ってほしいなんて、私頼んでない……!』
『ありがとう、ジュネ。でも、これだけは聞けない。だけど約束するよ、絶対に帰ってくる』
「……やつは、最期までお嬢様に会いたがっていました。お嬢様のことだけを、案じていました。貴方と……ずっとおそばに、居たいと……っ!き、消える……最後……まで……っ!申し訳、ありませんっ……!私が……私が弱かった、ばかりに……っ!!」
セルジュを責めることなんて、出来なかった。私はセルジュよりも、もっと遠くから彼を見殺しにしていたのだ。
「……ありがとう、セルジュ。よく生きて帰ってきてくれたわ。まずはゆっくり休んで頂戴」
「お嬢様……!!」
「セルジュに温かい食事と、休める部屋を用意してあげて。…………少し、部屋に籠るわ」
部屋のドアを閉めた瞬間、全身から力が抜けた。
虚無感、絶望感、喪失感……そのどれもが安っぽく聞こえるほどの昏い衝撃は、私からすべての光を奪っていった。
嘘つきのまま死んでいった、あの使用人に対する怒りが、胸の中を焼き滅ぼしていく。
まるで心だけでも、彼の向かった先へ送り届けようとするかのように。
「シュウの……馬鹿……大馬鹿野郎!!絶対に約束を守るって、約束したじゃない!!馬鹿……馬鹿あああああああ!!!!」
カミザワ・シュウ。【女神の勇者】のスキル適性を持つ彼は、女神の望み通りに戦い、私の望みを叶えないまま、塵となって死んだ。
享年17歳。私と、同い年だった。
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