第3話 夢のあとで
子供の頃、どこに行っても馴染めなかった大河はしょっちゅう喧嘩ばかりしていた。
その日も難癖つけて机の中に画鋲を仕込んできた相手を突き飛ばしたのだが、そいつが机の角に頭をぶつけて病院送りになってしまった。幸い大事には至らなかったが相手の両親の激昂たるや凄まじく、しばらくの間大河は病院や支援施設をたらい回しされる羽目になった。
幾つ目かの施設、大きな窓の待合室。春近くの淡い日差しが天井もリノリウムの床もぼんやりと染めていた。名前を呼ばれて診察室に入り、医師の雑な診断を流れ作業のようにこなす。待合室に戻ると、大河が座っていた椅子に何かが置いてあった。
『手ゆびのきずに使ってください』
絆創膏の箱。
見渡しても人影ひとりない。
もし出会えていたら、友達になっていたか。それともやっぱり、傷つけてしまっていたか。
こうして夢に見るまで、ずっと忘れていた。
〇 〇 〇
目が覚めたら大河は炎の中にいた。熱くはない。
スフルが作る炎と同じだった。夢幻の炎。存在しない炎。
遠くに見えていたあの悪夢の谷底に落ちて来ていた。
なんで川に落ちてここに着いたのかさっぱり分からないが、とりあえず出口を探すしかない。
大河は立ち上がり、炎と悲鳴の中を彷徨った。
炎の色が濃くなる。ところどころに映る青い光も段々大きく眩しくなる。
歩いている内に暑くなってきた。夢幻と思っていた炎だが、熱を持っているように感じられる。遠くの煙が目に入ると咳きこみそうになった。
このまま火と煙に巻かれてもう一度死ぬか。
あの機械を壊すか。
炎の隙間を埋め尽くし、機械はそびえ立つ黒い壁と化している。効果があるとは思えなかったが、大河はやけくそで青い光の部分を何度も蹴った。
手ごたえはなく、脚は宙を蹴る。機械に触れることはできないというスフルの言葉を思い出す。しかし、悪夢の炎は薄れず、熱と勢いを増していく。
(ああ、やっぱりダメだった)
どこからともなく声が響く。
「スフルか?どこだ?どこにいる?」
既に熱い炎が大河を幾重にも取り巻いている。聴覚だけが頼りだった。
(私はここにいます……ううん、でもいないんです。いないも同然です、私なんて)
「意味が分からん。説明しろ」
(ごめんなさいごめんなさい……私、嘘つきました。こっちが本当の“私”なんです。私に自分の領域なんて……夢を守る力なんてない。こうして私が目を覚ましたら全部崩れ落ちる、脆い脆い夢)
炎がじりじりと迫ってくる。
(実は、大河さんの前にもいろんな異世界の人に来てもらっていました。最初は皆さん喜んで協力してくれました。でも、ダメなんです)
目がくらむばかりの赤とオレンジで眩しいのに、奥の暗闇は永遠に暗いままだった。
(私、夢の女神だから。悲惨な現実を変える力なんてなかった。世界が滅びるのも止められなかった。私が夢から“こっち”に連れてきた途端、皆さんすぐに死んでしまいました……このままだと、大河さんも)
煙が回ってきた。とっさに口を手で覆うが、もはや意味を為さない。
(大河さんには、せめてずっと私の夢の中にいてほしかった……。でも私、やっぱり起きて、夢を壊してしまいました。楽しいことは、すぐに終わってしまう……)
炎は瞬く間に燃え広がり、大河を取り囲む。
足元の地面がよく見えるようになった。夢の中の草むらとは大違いの、ひ弱な草がまばらに生えているだけだった。
(本当は、分かってるんです。私が皆の悪夢を食べきれなかったのは、人間が弱いんじゃなくて私が弱いから。私が皆を信じ切れないから、皆の苦しみに寄り添うこともできない、弱い神だから。世界が滅んでも逃げ回って、一人で夢ばかり見て。地獄の火を消すことさえできない……ごめんなさい、私が連れてきたのに、ごめんなさい……)
呼吸もままならないが、大河は必死に考えようとする。
現実と夢の違いは何か。本物と、偽物、それだけの差か。
「正夢、って言葉知ってるか」
夢の川底から現実に落ちたなら、この現実の底には何がある。
夢の中の夜は、どこから来た。
(え?)
大河は炎の中に腕を突っ込む。熱い。痛い。苦しいに決まってる。
だがこれに賭けるしかない。
「夢で起きたことが現実にも起きるって意味だ」
土を必死に爪で引っかく。煙を吸わないように息を止めた。
「最初に見た時、笑ってたぞお前。眠りながら」
夢の川底から現実に落ちたなら、この現実の底には何がある。
夢の中の夜は、どこから来た。
(大河さん、やめてください。そんなことしたって、早く死んじゃうだけです。お願い、やめて)
「こんなつまらない場所で、笑える訳がないだろ」
皮膚が焦げてもう後戻りできない。掘った、ひたすら堀った。
「ここは現実なんかじゃない。お前が夢の中で見てたのは、きっともっと別の場所だ」
カチ。指が、土ではない硬い金属に当たる。
それは夢幻ではなく、現実の土に埋もれた機械だった。
(大河さん!)
熱い衝撃が体中を走る。とうとう全身が燃えた。
土中の機械に腕を挟まれ、腕がもげたかと思った。
違う。腕を引きずり込まれている。
抵抗できない。激しい痛みの後、ふわっと急に一切何も感じなくなった。今更どうなってもよかった。
やれるだけのことはやった。
死ぬ前の最後の争いより、ずっと必死だった。今更焼け死んだってどうでもいいが、面倒ごとを抱えたまま死ぬのはごめんだった。
だから人と関わるのは嫌なんだ。特に笑顔も泣き顔も眩しくて、感情を隠さず丸ごとぶつけてくるような奴が一番。
一人きりなら、何の未練もなく死ねたのに。
何かが落ちてきて、大河の頭に当たる。全身が引き裂かれるように痛い。
轟音が鳴り響き、壊れた世界がまた壊れる。
音が鳴り止み、炎が消えて、大河はようやく自分の足が地面に着いて突っ立っていることを確認した。
全て霞んでいる。
古いカメラで撮ったピンボケのような視界。
それは完璧な光ではない。弱い光だった。
だが確かにスフルはそこにいた。しゃがみこんで、怯えた目で見上げてくる。
「大河さん」
「なんだ、こんな近くにいたのか」
「……私、役立たずだったんです。夢なんか見たって、戦争も飢餓も解決しないって皆怒って。それで祠を壊されて、埋め立てられて……覚えてるのはそこまでです。それからは、ずっと夢と現実の狭間にいました。現実も、夢さえも、怖くて……」
「追い詰められた人間のやることはいつも同じだ。無関係な誰かのせいにして責任を押し付けたがる」
「私、バカでした。皆に怒られたときこそ、夢の力を信じるべきだったのに……。私がもっと強ければ、前に来てくれた人たちだって死なせずに済んだのに……」
そう言ってまたうつむくスフルに、大河の低い声が飛んだ。
「いつまで下向いてんだ」
「え?」
「夢の中で川に落ちて分かった。夢と現実の狭間は、あっちの暗闇と炎の方だろう。現実と夢は繋がってる。どっちかだけを切り離すなんてできない。起きて動いて、疲れたらまた寝て夢を見る。夢はいつか覚めるのが当たり前だ。ずっと昼のままなんて、夜のままなんてありえない。グラデーションみたいに途切れなく繋がっている」
大河が指を差す方にスフルは目をやる。色も輪郭も薄闇でしかなかった世界に、少しずつ色がつき出した。
「あ……」
「今は夜明けだ」
赤、橙、黄、白、青、藍、紫。本物の太陽と、本物の空。
「この世界が滅んだ訳がよく分かった。俺みたいに、夢を見ない人間ってのは貧しいもんだ。パンは現実でしか食べれないが、パンを探しに行く気力がなければどうしようもない」
「大河さん、私探しに行きます。消えてしまった皆の夢の狭間……土の中だって、炎の中だって……私のように悪夢の中で苦しんでいるのなら、掘り起こして連れてこないと、こっちの現実へ。そして思い知らせてやるんです、夢見る力の凄さを!」
「ずいぶん物騒な言い方だな」
「えへへ……大河さんのおかげです!私、がんばります。夢の中ほど強くはいられないけど……現実にこそ夢が必要だから」
遠くで煙が上がっている。火事の煙なんかではない、誰かが願いをこめて焚いた真っすぐな狼煙だった。
「大河さん、夢から覚めた後も私のこと覚えていてくれて」
鳥の鳴き声が響いた。
白い花が見えてきた。朝日が昇る。
「ありがとう」
死んだヤクザは孤独な女神の夢を見るか 水長テトラ @tentrancee
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