陽キャ女子に弱みを握られたので握り返します。

第2話

「何……してるの？」

　はっ、として手が止まった。振り返ろうにも、体が固まって動かなかった。

　机を睨みつけていた視界の端に、影が落ちた。女子の制服。少し短めのスカートが揺れた。

　女子生徒は腰を曲げて、机の上をのぞきこんできた。肩まで下りた髪に陽が当たって、明るい小麦色になる。

「ふーん、これはなかなかパンチのきいた……」

「違う！」

　遮って、鋭く叫んでいた。

　彼女はのけぞって瞳を見開くと、慌てて両手を上げた。

「ちょ、ちょ待った！　お、落ち着いて落ち着いて！　危ないから、それ！」

　彼女の指先は、刃の切っ先をさしていた。

　私は無意識に柄を握り込んで、彫刻刀を彼女に向けていた。すぐに我に返って、腕をだらりと下ろす。

「もー、びっくりさせないでよね」

　と口では言いつつも、彼女の目にはまだ警戒の色が見られる。

　どうすべきか迷った。けれどこうなっては、もう正直に白状するしかない。私は何か尋ねられる前に自分から言った。

「これは……最初から、彫られてて」

「まじ？　最悪だね」

　意外にもそれだけで彼女はおおよそ察したようだった。私の言葉を疑うような素振りはなかった。

「てか机さ、交換しちゃえばいいじゃん。たしかあったよね？　向こうの空き教室にいっぱい」

　聞かれてもわからない。私は直接授業に関わりのないような場所には基本的に行かない。

　彼女は私に尋ねていたわけではないらしい。半分ひとり言のようだった。

「今持ってきちゃおっか」

「……今？」

　思わず聞き返す。

　授業中であることを忘れているかのような口ぶり。

　彼女は当事者でもなんでもない。それなのになぜか当事者のつもりでいるので、

「でも、授業が……」

「まあまあ遠慮しなさんなって。困ったときはお互い様」

　にこり、と笑顔を向けてきた。何がお互い様なのかわからない。

　なんとも言えず立ちつくしていると、彼女は「行こ」と言って身を翻した。

　私は彫刻刀をしまうと、あとについて教室を出た。

　彼女は私が先ほどやってきた道のりを、堂々と歩いていく。誰かに見つかろうがおかまいなしといった様子だ。

　やってきたのは別棟の、電気が消えている薄暗い廊下。二つ目の教室の前で立ち止まる。扉の上の表札には何も書かれていなかった。

　彼女は引き戸のへこみに手をかけると、がたがたと小さく左右に揺らした。それからためらいなく戸を開ける。

「これ揺らすと開くの。鍵壊れててちゃんと閉まんないんだって」

　言いながらずかずかと教室に入っていく。思いつきのように言いだしたわりに詳しい。

　中は雑然としていて、机や椅子の他にダンボールの箱が端に積まれていた。窓も開けられなくなっている。ニスのような匂いがした。

　お目当ての机は、机の上に逆さまに積まれて１セット。ざっと見ただけでも２０はあった。

　彼女はそのうちのひとつを下ろしにかかる。私も反対側の足を持って手伝う。

「あ、めっちゃきれいじゃんこれ。これでいいよね？」

　地面に下ろした机を見て彼女は言った。

　机の表面には落書きどころか、目立った傷らしき傷もない。机自体には何も問題はなかったが、私は聞き返した。

「勝手にこんなこと……大丈夫なんですか？」

「だーいじょうぶだいじょうぶ」

　笑いながら机を叩いてみせる。なぜか揚々とした口ぶり。

　私は机の前に立つと、両端をつかんで持ち上げた。

「もう、いいです。一人で持っていけるんで」

「いいよ手伝うよ、ここまで来ちゃったし。それにまた持ってこないとだめでしょ」

　一瞬何を言っているのかと思ったが、交換した自分の机をここに持ってこなければいけないのだ。失念していた。

　けれどもそれだって自分一人で事足りる。

　何も言わずに机を抱えて歩きだす。そのまま教室を出ていこうとすると、反対側に回り込んだ彼女が勝手に机を支え始めた。

「はい、いちに、いちに」

「静かにしてください」

　掛け声を咎めると、彼女はぶぅっと唇を尖らせた。

　あまりに脳天気なのでよほど誰かに見つかるのではないかと思ったが、周りは静かだった。人が通りそうな気配もない。

　教室に到着すると、机の中身を取り出してそのまま入れ替えた。落書き付きの机を運び出す。来た道のりを、また逆戻り。

「最初から机持ってけばよかったね」

　渡り廊下を過ぎたあたりで彼女が言った。

　そう言われればそうだ。対面の瞳と目があって、私は曖昧にうなずく。

　教室に到着し、交換した机を置いた。ご丁寧に机の上に逆さまにする。　

　戸を閉めて退室。帰り道につくなり、彼女は自分の鼻先を指さしながら、突然尋ねてきた。

「あのさ、わたしのこと、知ってる？」

　瞳が大きい。活発そうにらんらんとしてる。身長は私とほとんど同じ高さ。ちょうど暗がりにさしかかって、顔の輪郭が陰った。

　私は正直に答える。

「知らないです」

「あ、知らない？　全然？　名前も？　一応同じクラスなんだけど」

「はい」

「あ～……そう。うん、全然オッケ！　いいねいいね」

　新しいクラスになって一週間。クラスメイトの顔と名前が一致しない。けどそれは今に始まったことでもない。特に覚える気もない。

「わたし、さとうひまりっていうの。さとうはさとうでもちょっとひと味違うタイプのさとうね。左藤」

「左藤……」

「下の名前で呼んでいいよ？　さとうってうちのクラス三人いるし、ややこしいでしょ」

　変なタイミングで自己紹介してくる。

　果たして名前を呼ぶことがあるのだろうかと、ただただ疑問でいると、

「たしか武内さん……だよね？」

「はい」

「うーん、くやしいね」

「はい？」

「わたしは名前知ってるのにね」

「すみません」

「や、謝らなくてもいいんだけども」

　ふふふ、と左藤ひまりは小さく笑う。

　ことが終わったせいか、もはや声をひそめる様子もない。まるで休み時間かのように、渡り廊下を歩きながら尋ねてくる。

「じゃあ下の名前は？」

「知ってどうするんですか？」

「びっくりだねその返し。なんで教えたくないの」

「千尋です」

「千尋ちゃんかぁ～……いいね。じゃあうっちーとちっひーどっちがいい？」

「どっちも嫌です」

「あ、そう」

　教室まで戻ってきた。

　改めて交換した机の位置を直す。列に揃える。

　ひまりが一度座ってみなよ、というので、その通りにした。

「どう？　大丈夫そ？」

　特にがたつきもない。しっくりくる。

　できれば椅子も交換したいぐらいだったが、どうして？　と問われるだろう。説明したところでわかってもらえるとは思えない。

「あ、ちょっとストップ」

　立ち上がろうとすると、手で制止される。

　ひまりは指でカメラのように四角を作って、片目でのぞくような仕草をした。

「昼下がり。誰もいない教室。ひとり佇む美少女……絵になるねえ」

　なんと返せばいいかわからなかった。からかわれているのかもしれない。

　意図がわからず、質問を浴びせていた。

「どうして、ここまでしてくれるんですか？」

「え？　そりゃクラスメイトが困ってたら、ねぇ？」

　もっともらしい答え。とはいうものの、名前も顔も知らなかったぐらいだ。当然言葉をかわしたこともない。

　複雑だった。授業をサボってまで、ここまでしてもらう必要はなかった。机ぐらい一人で持ってくることができた。　

　そこまで考えて、今になってふと疑問が浮かんだ。立て続けに質問していた。

「本当は、なにしに来たんですか？」