陽キャ女子に弱みを握られたので握り返します。

荒三水

第1話

 私の机には落書きがある。

 女性器と男性器を模したらしい稚拙なものだ。机の手前の右端に、細い線で傷をつけるように描かれている。

 進級して二年になってクラスが変わって、この席をあてがわれたときに見つけた。

 正確には授業が始まって、机にノートを広げたときに目に入った。


 とても低俗で、くだらない落書き。

 席は出席番号順に割り当てられていたもので、自分にはなんの関係もないものだ。

 ただの偶然。単なる不運。


 最初はたかが落書きと、そこまで気にも留めていなかった。見て見ぬふりをした。

 けれども毎日毎日、登校のたびに。授業のたびに。着席のたびに。

 嫌でも目に入ってくる。直接視界に入らなくとも、意識してしまう。存在を思い出してしまう。そのたびに嫌悪感と不快感に襲われる。


 こんなことをする人間が、前にこの席を使っていたのだと思うと、椅子に座るのも嫌になる。机を使うのだって気分が悪い。

 隅っこの、小さな落書き。

 それはもはやまるで何かの呪いのような、おぞましい刻印のようだった。じわじわと体を侵蝕する毒のように、私を蝕んでいた。

 

 ――机に変な落書きがあります。

 

 本来ならそうやってすぐ教師に言うべきだった。

 けれど口にすることすら憚られた。担任はまだ若い男性教師。いや男だとか女だとか若いとか年寄りとか、そんなものは関係ない。

 こんなくだらないことで、手をわずらわせるのはどうかと思った。

 誰がどういうつもりでこんな落書きを彫りつけたのか。そんな輩の思考など、とうてい及びのつくことではないが、ここで事を荒立ててしまえばそれこそ思うツボなのではないか。


 どのみち今となっては時間が経ちすぎた。新しいクラスになって、この席になって一週間。

 自分の視界に入るのは、まだ許せるとして。いや許せるものではないが、もしこれが他人の目に触れたとき、どう思われるだろうか。何者かがこの傷をつけたと思うだろうか。

 もしかしたら自分が、疑われるのではないか。

 

 もはや無関係を装うわけにはいかなくなっていた。

 私は落書きを、この手で消すことにした。


 教室から完全に人がいなくなるタイミングは意外になかった。

 朝はいつ誰がやってくるかわからない。教室が何時に開いているのかも知らない。放課後はいつも誰かが遅くまで残っている。

 教室が空になる時は、もちろん自身もどこかに行かなければならない。


 結局選んだのは、移動教室の授業の時間。

 昼休み中にトイレに潜み、授業開始のチャイムが鳴るのを待つ。

 本当は授業に遅れて、目立つような真似はしたくなかった。今まで学校はずっと無遅刻、無欠席。わずかな遅刻すらない。

 よくよく考えれば、もっと適切な時と場所があったかもしれない。まったく別の、よりよい方法も。

 けれど私は一刻も早く、落書きを消したかった。

 その焦りが思考を、判断を鈍らせた。

 

 休み時間終了のチャイムが鳴った。数分後、トイレの個室を抜け出す。

 廊下に人がいないことを確認し、小走りに渡り廊下を抜ける。

 つきあたりを折れて教室へ。経路は事前に決めてあった。授業中の教室の前を通らなくてすむルート。問題なく目的地に到達する。

 

 教室は無人だった。

 引き戸は開けっ放し。窓際のカーテンがかすかに揺れていた。入り込んだ太陽の光が窓側の席を照らしている。

 人のいない教室。初めて見る光景に、不思議な感覚に襲われた。

 しかしのんびりしている場合ではない。私はまっすぐ自分の席に向かった。教室中央の列、先頭の席。


 机の脇にかかったカバンを探り、紙やすりを取り出した。すぐさま机の落書きに押し当てて、表面を擦る。

 悪い予感は的中した。線は細いわりに深く、簡単には消えそうになかった。この紙やすりでは厳しいかもしれない。どのみち時間がかかりすぎる。手早く済ませて、化学教室に向かわなければならなかった。

 何もすべてきれいまっさらにする必要はないのだ。線の形が、落書きがそれとわからなくなればそれでいい。

 

 カバンから彫刻刀がいくつか入ったケースを取り出す。中学の時に美術の授業で使ったものだ。できれば使いたくなかったが、念のため用意した。

 取り出したのは、刃の丸まった大きめの一本。柄をぐっと握り込んで、刃先を机に押し付ける。

 

 学校の公共物に傷をつけるような真似をしてはいけないのは、もちろんわかっている。

 しかし悪いのはこれを彫った人間であって、私ではない。このままにしておけば、次に使う人間だって不快になる。きっと遅かれ早かれ、誰かの手によって落書きは処置されるだろう。

 などと自分を正当化する気はなかった。

 

 私は妙な強迫観念のようなものに取り憑かれていた。

 なんとしてもこの印を消さなければ。自分を苦しめた、この落書きを。

 この手で始末をつけなければ、もはや気がすまなくなっていた。

 

 添えた右手にぐっと力を込める。机は思いのほか硬かった。うまく刃が入らない。

 焦りで動悸がした。手元が震えていた。

 再度力を込めると、やっとのことで刃が通った。黒ずんだ茶色の木目が丸まって削れる。

 要領を得て、再び刃を入れる。今度はすんなりいった。私は立て続けに、机に向かって刃を突き立てた。


 これまで恨みを晴らすかのように、黙々と。無我夢中に、一心不乱に。

 だから背後から近づく足音にも、気配にもまったく気づかなかった。

 そばで声がするまで。すぐ後ろから、何者かに声をかけられるまで。

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