外伝8 指輪 後編


 


 来週から夏休みが始まる金曜日。


 成績付けが一段落して、久しぶりの逢瀬。仕事の疲れも吹っ飛ばして、張り切ってしまうのがオトコというもの。


 しばらく……と言っても、たったの一週間だが、会えなかった恋人に己のシルシを徹底的に刻み込もうとするのは男の本能だろう。


 とにかく頑張った。連続三回。


 おかげで部屋には何度も何度も甘い声が響き渡った。ヒクヒクとケイレンしては、オトコに巻き付いた手脚でギュッとしがみついてしまう姿はオトコの独占欲を満足させるものだったのだろう。 


 オンナも、だいしゅき・ホールドで胎内深くに受け止めた好きな人の分身が子宮にたゆたうような感触が心地良かった。


 どれほど激しく求められても、あるいはどんなことであれ、喜んですべてを受け入れられる。


 むしろオトコは「もう無理ぃ」と言ったのに、そこから、さらに2回もおねだりしたのである。


 特殊なワザも使った。哀しい過去に仕込まれたワザすら、あえて使って見せて徹底的に


 どんなオトコも大きな胸に弱い。まして、初めて女の方から積極的に動いてくれた珍しさもあって、張り切らないわけがなかった。


「さすがに、これで……」


 オトコは満足とも、グロッキーとも付かない表情で枕に頭を埋める。


 激しかった。凄まじい「戦い」は、どちらも勝者であり、どちらも敗者だ。しかも、喜んで敗者となってグッタリとする心地よい疲労感には、特別な幸福を感じさせてくれる。


 ゴールデンウィークにはお互いの実家に挨拶をすませている恋人同士。ナニをどれだけ励もうと、下の部屋に住む者以外、世界中が祝福するだろう。


 体力自慢のオトコも、さすがに力尽きた。すでに土曜日となっている。ぶっ続けの4時間であった。


 エアコンがあっても、二人の汗とあれこれで、ベッドはぐっしょりとなっていた。


「ねえ、しんちゃん」


 ついさっきまで、激しく声を上げ、何度も何度も背中をのけ反らせながら「もうダメぇ」を繰り返していた紗絵は、恋人の胸にピトりと頭を付けて名を呼んだ。


 声には甘えるような潤みを残していても、すっかり平生に戻っている。女は強い。


「話したいことがあります」

「うん」


 こと、大島真一は気のない声を返すのみ。


 さっきまで体力を、いや絞り取られている。この状態では仕方がない。今は、まさに賢者中の賢者。いや、すでに意志を喪いかねないほどに精力を失っているのだから。


『賢者のいし、とか?』


 チラッと浮かんだ表現だ。


 国語教師の感性なのか、それとも慣れ親しんだ男への甘えはのか、言葉に出さないが、次の瞬間『でも、これ授業のネタには使えないわね』と、胸にしまったのはナイショだ。


 一瞬、考えが妙な方向性を持ったのは、これから話すことへの紗絵なりのプレッシャーだった。


 何が何でも、今日話すのだと決めていた。


『間に合わなくなる』


 夏休みに入ってすぐ。つまり来週の日曜日には結納の席が用意されている。


『もう、遅すぎるのかもしれないけど…… しんちゃんにも選ぶ権利があるんだし。このまま黙っているのは、やっぱりダメだよ』


 何度も自分の過去を話そうとしてきた。しかし、その度に「あ~ まだ、君自身が受け入れてない顔じゃね? ちょっと早すぎだ」と優しく断られてしまった。


『でも、今なら……』


 燃え尽きて灰となったしんちゃんは「ほげ~」と紗絵の肩を優しく抱いている。


『こんなに普通だったのは予定外だったわ』


 闇を取り払った後、大島真一は変わった。「体育会系陽キャ」の仮面を被れなくなり、だけが残ってしまった。


 これでは、自分が普通に幸せになってしまう。


 そんなのはダメなこと。いつしか、そう思い詰めていた。


『だから、優しい顔を壊さなくちゃダメ。そのために、あの男に仕込まれたテクニックまで使ったんだから』


 ためらいがなかったとは言えないが、喜んでもらえたのは自分でも意外なほどに嬉しかった。


『最後かもしれないんだし。これができちゃうのも私なんだし。どんなに軽蔑されても、知っておいてもらった方が公平だもの』


 今の自分ができることなら、してあげたかったのは心からの本音だ。


 喜んでもらえた。それは良かった。何を言われたとしても、今日のことは思い出にしてしまえるかもしれない。


 そんな決意を胸に、静かに、しかしハッキリと発音した。


「昔のことを、結局、何にも聞いてきませんでしたね」

「あぁ、うん」


 まだ心が戻ってない。チャンスだ。


 いつもなら、紗絵が切り出しかけるたびに「はい、そこまで~」と優しく、しかしキッパリと遮ってくるのだ。


『ごめんなさい。このくらいしないと、聞いてもらえないんだもん』


 ここまで燃え尽きていれば、話し始めくらいは誤魔化せるはずだというのが紗絵なりの計算だった。 


「昔…… 大学3年の終わりでした。婚約者を裏切っちゃったんです。私の浮気でした」


 ズバリ、ど真ん中の発言。


 しんちゃんは、明らかにギョッとした顔で首をあげた。


 さすがに、このタイミングでとは思わなかったのだろう。前振り抜きのから入ったので、止める余地がない。


 全てを聞くしかないのだと、しんちゃんはあきらめたように一度目を閉じた。


「聞こうか」


 唇の左側をキュッと引き締めて、視線だけを腕の中の紗絵を見つめた。


「その時お付き合いしていたのは、一っこ上の人で、入社前の研修で中国に行ったんです。その間に、私はオトコの人と関係を持ってしまったんです。インターンシップで行った先の先輩でした」

「ストーップ」

「え?」


 優しい光を湛えた目で覗き込みながら、大手の食品メーカーの名前を出したのはしんちゃんだった。


 今度は紗絵がギョッとする番だった。


 しんちゃんは続ける。


「君を脅した相手はメンターの男、だったね?」

「なんでそれを!」

「そりゃ、オレだって少しは調べるさ」

 

 ニヤリと笑ったしんちゃんは、唖然とした紗絵に温かい眼差しを向けている。


「その事件はマスコミで取り上げられただろ? ネットでも大騒ぎだったし、自分の就職もあったから印象に残ってたんだよね。そうしたら、名前こそ出てなかったけどの大学も、学年も、オマケに学部まで一緒だった」

「知ってたんですね。だったら」

「はいはーい」


 しんちゃんは言葉を遮って「ホントは、聞く気なんてなかったんだ」とサラリと言ってのけた。


「なぜ、と聞いても良いですか?」

「だって無意味だから」

「無意味?」

「うん。ほら、オレのことを受け入れてくれただろ?」


 それは付き合い始める前の日のことを言っているのだろう。「過去」に対する後悔で噴き上がった感情を紗絵が受け入れた。


「あの時、君は、自分には言う義務があるって」

「確かに、言いましたけど」

「君と付き合い始めたときはさ、そこまで思ってなかったんだけど、よくよく考えてみると、さっちゃんが過去に学んだからこそ、こういう風に行動できるんだって思えたんだよ」

「反省はしました。だから、それを形になるように行動してきたのもホントです。でも、とっても愛していた人を裏切った女だという事実は変わらないんです」


 紗絵の言葉を、今度は遮らずに優しい目で見つめたままだ。


「どんなに反省しても、私がクズみたいなことをしたのは事実です。それに、そのオトコとヘンタイみたいなエッチもしてしまいました。さっきのあれだって」


 紗絵の巨大な胸を使ったワザのことだと伝わったのだろう。恋人の手が胸に伸びてきた。コクリと頷いて、優しく揉み始めてくる男の手に委ねたまま、話を続けた。


「そのオトコに練習させられたんです。いっぱい、いろんなヘンなことをさせられました。好きな人が…… 私のことを信じてくれた大切な人がいたのに、裏切ってしまったんです。そんな女と本当に結婚していいのか。しんちゃんには、ちゃんと話さないとダメって思いました」

「それで、こうして話してくれてるわけだ?」

「はい。私がダメな女だって、ちゃんと話すべきだって。あ、勘違いしないでくださいね。私はしんちゃんのことが大好きです。あんな形で始まった交際ですけど、今では世界一愛してるって断言できます。この後の人生を一緒に生きていけるならとっても嬉しいって思ってます。でも、しんちゃんにとって、どうなのかは別です。だから、こうして話して考え直すのなら…… それを受け入れます」


 真剣な表情で「しんちゃんの気持ちを正直に言ってください」と口に出した言葉は微妙に震えている。


 それに気付いたのかどうか。しんちゃんは、眉を真ん中に集めて、困った表情をしながら言った。


「う~んとさ、正直に言うと」


 息をするのも忘れて、次の言葉を待つ紗絵だ。


「あれを、毎回やられちゃうと辛いかも。限界だと思ってるのに、まだできちゃうって脅威だった。一緒に暮らしたら、あれが毎晩だろ? 今日みたいにすごいエッチを毎晩なんて、さすがにヤバ過ぎる。オレ、一年くらいで腎虚カラッポになるんじゃ?」


 ニヤリとしたイタズラな笑み。その笑顔には優しさばかりが浮かんでいた。


「でも、楽しみだな。いっぱい、すごいエッチしてくれるんだろ? 君の手料理も毎日食べられるんだし」


 黒髪をゆっくりと撫で下ろしてくる温かい手。


「あの、怒らないんですか? こんな女、イヤだって言わないんですか?」

「なんで?」


 心から意外そうな顔で聞き返すと、しんちゃんはコリコリとピンク色の先端を指先で転がして「オレのために練習したんだろ、さっきのテク」と言った。


「え?」

「オレのためにどんなエッチもできるようになってくれた」

「でも……」

「オレのために、愛する相手を裏切らない人になってくれた。違うかい?」

「しんちゃんのことが大好きです。絶対に裏切らないって、それは本当です。絶対に、絶対に、ホントですけど、でも、私は」

「うん。信じてる。そういう君を見てきて、好きになったんだから」

「しん、ちゃん……」


 触れてきた手は温かかった。


「さっちゃんに限らないじゃん。誰だって色々とあってになった。そして、オレは今の君が大好きだ。過去があるからこそ、オレの大好きな今の君がいるんだ。過去も、今も、そして未来もだ。ぜーんぶまとめて、オールOK! ってね」

「ホントに、いいんですか?」

「むしろ、もっと好きになったよ」


 紗絵が身じろぎすると、しんちゃんが首を持ち上げる。キスしてくれようとしているんだと気付いて、自分から唇を合わせに行った。


 とけるようなキス。


 愛情を込めた紗絵の視線をしんちゃんが包むような笑顔で受け止めている。


「それにしても」

「はい?」

「あれほど、話させないようにしてきたのに、何が何でも話せるようにしたのが今日なんだろ? あんなに激しいのは久し振りだもんね。スーパーテクも使ってくれたし」


 わざと、エッチな表情を浮かべているのは優しさなんだろうとわかる。


「ごめんなさい」

「いやいやいや。これからは、あぁ言うのをたまにしてくれる? もっと、いろいろできるんだろ?」

「あなたが、イヤじゃなければ」


 本当だ。しんちゃんのためならなんでもできる。


「最高じゃん。頭が良くて、料理が美味くて、エッチが上手な…… オレだけの奥さんなんて、さ」

「も~」


 思わず唇を尖らせたのは、甘えてしまったからだ。


「エッチが上手は、褒め言葉じゃないと思うですけど」

「褒めてるよ。君が大好きだから」

「ホントに、ヤじゃない?」

「もちろんさ。嫌だったら、あんな風になるわけないだろ? もう無理ぃって言ってるのに、それから何回搾り取ったんだよ」


 プニュッと紗絵の頬を指で突いてくる。それは、からかってくる時の表情だ。


「そんなこと、言われたら恥ずかしい…… です。でも、わかりました」

「ん?」

「このままだと、ちょっと不安なんです」


 そう言いながらも、受け入れてもらえた安心感で表情がニヤついてしまっている。しかし、しんちゃんは「不安」の一言に反応してしまったらしい。


「え? 何か不安になる要素あった? オレ、今、全部OKって言ったよね? なんだったら、これってプロポーズの再現だよね?」

「はい。でも、言葉だけだと、しんちゃんはごまかすかもしれないので」

「え? そんなことはしないよ!」


 本気で焦るオトコの頬に、チュッとキスをした紗絵は、耳元で囁いた。


「もう一回、搾り取らせてくださいね」

「わああああ! さっちゃん、そ、それぇえ!」


 一回では終わらなかった。朝まで続いてしまった…… いや、しまった愛情表現のおかげで、しんちゃんは身動きもできないほどに消耗した土曜日であった。



・・・・・・・・・・・



 日曜日の明け方。


 既に強烈な日差しを予感させる太陽が、水平線の向こうに昇り始めていた。


 一組のカップルがやってきたのはいわき市の三崎公園。


「行ってらっしゃーい」

「ありがと、行ってきます」


 車に乗ったまま、男は笑顔で送り出した。


 かつての未曾有の大災害は、いくつかの記念碑だけとなってしまった公園。


 さすがにまだ人が少ない。


 ひとりやってきたのは海に突き出た展望台だった。


 ここは、恋人同士が「永遠の愛」を祈ってふたりで南京錠を掛けにきたスポットだった。大いなる災害を経て、今では、そんなセレモニーも寂れてしまっている。


 それでも、ちらほらと、イニシャルが彫り込まれた真新しい鍵が掛かっているのは、いつの時代でも「永遠の愛エターナリー」を願うカップルがいるからだろう。


 小さなバッグから取り出した指輪を真新しい鍵に通すと、フェンスへと、そのままつけた。イニシャルはあえて彫らなかった。


 カチャリと鍵を掛けた瞬間、女の中で永遠に封印された過去が生まれたのだろう。


 一度引き結んだ唇は「さようなら」と動きかけて、途中で止まる。


 鍵に付いた指輪に、もう一度だけそっと手で触れてから、女はクルンと後ろを向いた。


 歩きだす。


 後ろの波の音にせかされるように、次第に、速くなって……


「しんちゃ~ん!」


 やっぱり、すぐそこまで迎えに来てくれていた。


 愛しい男の元に走っていく紗絵に浮かぶのは、心からの笑顔だった。






 誰もいなくなった展望台の片隅。


 朝陽をキラリと反射した指輪は、何も語らなかった。


 


 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

作者より

 外伝の主役となってしまった紗絵ですが、指輪の行方は作者も気になっておりました。そのまま資源ゴミSDGsってワケにはいかないのはもちろん、二昔前みたいに、海に捨てるって言うのも違うし、かと言って、紗絵の性格を考えると「実家の引き出し」に置いておくはずもないんです。で、どうしたんだろうなぁって思っているウチに、これ、しんちゃんと話して決めるんじゃね? と思えたんです。

 だから、この場所で鍵につけて「過去を永遠に封印する」って形を提案したのは大島先生です。「さようなら」を最後に言わなかったのは、既に決別している自分に気付いたからだと思います。別の言い方をすると、指輪を持っていた時間を拓哉に背負わせるような気がして嫌だったのかもしれません。

 念のために申し添えますが、付き合い始めた春に定期異動がありました。ふたりは別々の学校に赴任しています。大島先生は相変わらずサッカー部の顧問で、紗絵は料理研究部の副顧問をしています。


作中で出てきたいわき市の「三崎公園」には、本当に、こういう場所があります。海抜100メートル以上のマリンタワーからの眺めはすごく良いです。作中の場所は「潮見台」と言います。本当に雰囲気が良い場所です。 

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顔は平凡な婚約者なのに、浮気はするのかよ! 新川 さとし @s_satosi

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