外伝8 指輪 前編

 合唱祭の打ち上げの後、送ってくれた大島と成り行きで関係を持ってしまった翌朝のこと。


 まだ、夜も明けてない。


 あり合わせで作った朝食を神妙な面持ちで食べ終わった大島は「ごちそうさまでした」と頭を下げた。


「美味かった。小仏先生が、こんなに料理上手だったなんて」

「褒めていただけるのは嬉しいですけど、あり合わせですから」


 紗絵の言葉に謙遜のつもりはなかった。作っておいたスープを解凍して、冷蔵庫にあったものを手っ取り早く炒めただけのものだ。


「そんなことないです。本当に、美味かった」

「お粗末様です」

「いろいろと、ご迷惑をおかけしました」

「めっそうもありません」


 むしろ「誰かのために朝食を作る」のが、こんなに楽しいということを思い出させてくれたことに感謝したい気持ちだった。


 こんなに暖かい朝は久し振りだ。

 

「その…… すみませんでした」


 大島は頭を下げた。


「え? 別に、謝られることはされた覚えはありませんけど」


 本気で首をかしげているのが伝わったのだろう。大島は一瞬、あれは夢だったのかと思いたくなった。


「……いや、現実ですよね? オレがしちゃったこと」

 

 どうやら関係を持ってしまったことを謝ってくれているらしいと紗絵も気が付いた。なんだか新鮮な反応だった。


 ふふっ


 つい笑ってしまったら大島は怪訝な顔をした。


「さすがサッカー部顧問。けっこう…… すごかったですね。驚きました」

「あの……」


 大量だった。大島が寝てしまった後でシャワーを浴びていたら、驚くほどに溢れてきたのを指している。


「たぶん大丈夫ですから。それに、この後、お医者さんに行ってクスリを飲みますから心配しないでください」


 時期としては大丈夫だが、念のため。


「すみませんでした! 責任は取りますから」

「謝らないでください。それに、責任って…… 別にムリヤリだったわけでもないし。私は、それでも良いって思っただけです。お互い大人なのだから責任を取ってもらう必要はないですけど?」


 誰とでも寝るつもりはない。むしろ、そういうこととは、ずっと線を引いてきた。けれども、大島との一夜が嫌だったかと思うと、全くそう感じてなかった。


『自分が必要とされる感覚かぁ。ホント久しぶりだった。なんだか不思議な感覚』


 拓哉の顔が痛みとともに浮かびかけて、慌てて消す。


 ただ、抱かれているとき、不思議と拓哉もあの男のことも浮かばなかった。


 しかも大島が案外と真摯だ。


「オレと付き合ってください」


 何かに突き動かされたように求められた翌朝、服を着た大島は、そう言って頭を下げてきたのだ。


「え?」

「責任を取らないと」

「ふっ」


 思わず笑ってしまった。


「なんで、笑うんですか?」


 本気で焦った顔が、さらに笑いのツボに入った。


 クスクスクス

 

「ごめんなさい。でも、一晩、エッチしただけで『責任を取る』って言われても困ります。いつもは、あ~んな感じなのに、こんな時だけ」


 どっちかと言えば「体育会系の陽キャ」という雰囲気だ。むしろ「一回ヤッただけで付き合うなんてねーぞ」くらいは言ってもおかしくないと思っていた。


『でも、あの顔が大島先生のホントなのかもしれないよね』


 ゆうべ、ひょんなことから、大学時代に付き合っていた彼女との別れを聞いてしまった。ずっと裏切られた彼女だ。


 けれども紗絵は気付いてしまった。


 その裏側にがあることを。


『裏切りじゃないかもしれないし。本当に裏切っていたのかもしれない。でも、何かがあるってことだけは…… 気付いてしまった以上、私は言わなくちゃいけない』


 とっさに、言わずにいられなかった。


 その写真がムリヤリのものであることを。モザイクの掛かった顔の端っこに涙の印があることを。


 おそらく、その時の大島自身は「裏切りの証拠写真」をハッキリと見られなかったはず。


『もしも信じていたら、ちゃんと見られていたのかな…… 相手を信じていれば、ちゃんと見て、気付いてたかもしれない。少なくとも、大島先生は、そう思ったからこそ、あんなにショックだったんだよね? やっぱり、普段は、お面を付けてたんだ』


 本当の大島が今で、学校ではピエロの仮面を被っていただけ。


 そして、目の前には、まるで、年上に童貞を捧げたばかりのような純朴な目をして、一生懸命に返事を待つ「少年」がいるのだ。


 申し訳ないけれども、クスクスとした笑いが止まらない。少年の顔が憮然としたものに変わっていくのはわかっていても、止まらなかったのだ。


『でも、あの大島先生が、一晩抱いただけで、こんなに狼狽えちゃうだなんて』


 大島は憮然としつつも、紗絵の意外な反応に戸惑いでいっぱいらしい。


 そこで一つ呼吸をして、真っ直ぐに大島を見た。


「あのぉ、昨夜、確かに私達エッチしました。でも、私のことが好きだから求めてくれたわけじゃないですよね?」


 大島は行き場のなくなった感情をぶつける欲しかっただけ。

 自分はたまたま、そこにいた。受け止める人間が必要ならば、気付かせてしまった自分が引き受けるのも責任のようなもの。


 幸い、それは嫌なことではなかった。


『それだけは自分でもビックリ。あんなに素直に受け入れられたのは不思議よ。でも、勘違いしちゃダメ』


 強く自分に言い聞かせている。


「大島先生」

「はいっ」

「忘れていただけると嬉しいです。大人同士なのでエッチは悪いことでもなんでもないですけど、こんなことで先生を縛ろうとは思いません。この後も普通にしていただけると嬉しいです」

「しかし」

「正直に申し上げれば、先生としたことは嫌じゃなかったです。すごく久しぶりでしたけど…… 自分にも、こんなことができるが残ってたんだなって。今朝は、少し嬉しいくらいです」


 そう。今朝、部屋が暖かったから。


「でも、私は、先生に信じていただけるような女じゃないんです。だから、忘れてください」


 ぺこんと頭を下げて「先生、いったんお帰りにならないと、さすがに着替えないと不味いですよ」と立ち上がって見せた。


 大島が家に戻る時間を見計らって起こしている分、時間的には余裕はあるが、ゆっくり話し込む時間など、ないのだから。


 大島は、ふっと考え込む顔を見せてから、瞬き二つ分だけ考えた後、思いのほかに明るい声で「わかりました」と笑顔を見せた。


 そこからパッパと身支度をすると、つむじ風のように家を飛び出していった大島だった。


「いや〜 ホントは名残惜しいですけど、また、後で会えますね」

「はい。また、後で」


 何を想ったのか、大島は「いつもの爽やか体育会系」の笑いを浮かべると、頭を下げて帰って行った。


 その背中を見送ってから、昨夜のシーツを洗濯機に放り込む。


『考えてみたら、この部屋に入った男の人って、お父さん以外初めてだったわけか』


 この部屋に入れる人間は、そのくらい限られていたのだ。


『考えてみたら、この部屋で男性とふたりで朝ご飯を食べたのよね』


 昨日、シた時は、なんともなかったはずなのに、なぜかそっちが恥ずかしくなった紗絵であった。



・・・・・・・・・・・


 半休を取って医者に寄った後は、ヒマだった。久し振りにケーキを焼いたのは、単なる暇つぶしに過ぎない。


 考えずに作ってしまった。ひとりでは持て余すに決まっている。


『学校に持っていけば、みんなで食べられるのに』


 明日は土曜日。部活の先生に差し入れをすれば良いかと思ったときに、チラッと「サッカー部は当分活動しないんだっけ」と思いかけて、慌てて顔を振って追い払った。


 そんなことを考えてはいけない。


 誰がいるかわからないけど、とりあえず明日学校に持っていこうと決めた、その時だった。


 ピンポーン


「はーい。え? 先生!」


 ニコニコと立っている大島に目を丸くするしかなかった。


「今晩は」

「こんばんは」


 挨拶を返しながらも「いったいなんで?」ばかりが頭に浮かぶ。


「朝、言われたんで、来ちゃいました~」


 体育系的なでケーキの箱を差し出してくる大島に目を丸くしている。


 久しぶりに素でビックリしてしまった。


「あのぉ、朝って、何か約束しましたっけ?」

「はい。確かに言ってくれましたよ」

「そんなことをした記憶がないんですけど」

「言いました。確かに」


 首を捻る紗絵に、大島は自信に溢れた顔で頷きながら言った。


「小仏先生は確かに、また後でって言いました」

「!!!」

「だから、学校が終わったに、来ました」


 確信犯だ……


 ともかく、玄関で追い返すのもどうかと思って上げるしかなかった。


「あの~ いったい何を?」

「お礼を言いに」

「そんなこといいんです。送っていただいた時の事故ですから」

「そっちじゃないです」

「あ、えっと、あのぉ、は忘れてくださいって」


 改めて思い出してしまうと、なんだか気まずい。その本人が目の前なのだ。しかし大島は笑顔のままで「違いますよ」と否定した。


「確かに魅力的な体験でしたけど、そっちじゃないです。そんなことのために、こうして訪問するなんて卑怯なマネはしません」

「ひきょう…… ですか?」

「ええ。だって、今だと、オレが頼んじゃったら断れないと思うんです。だから、そんな卑怯なことはしません。お礼っていうのは違う話です」

「はぁ?」


 大島が一体何を言っているのかさっぱりわからない。この場で頼んだら、自分がセックスに応じると思い込んでいるなんて、思い込みも良いところだ。誰が、そんなに都合良く、ハイなんて言うのか……


『あれ? 私、拒否しないかも』

 

 驚いた。もちろん、一度抱かれたからと言って大島のことを好きになったわけではない。事実、学校で顔を合わせても、学年の打ち合わせでも、普通に振る舞えたし、昨夜を思いだしたわけでもない。


 じゃあ、なぜ?


 大島は、疑問だらけになった紗絵の心を知っているかのように「お礼の件、お話ししても?」と聞いてきた。


 仮面を外した顔だった。


『あれ? 違う……』


 そこにあるはずの「虚ろさ」が見えなかった。思った以上に聡明で透明な光を湛えた瞳が紗絵を見つめていた。

 

 なんだか自分が恥ずかしい気がした。


「はい」

 

 聞くしかないだろう。


「おかげで…… 自分の中で腑に落ちたんです」

「そうなんですね」

「暗くて深い、長い、なが~い闇に包まれていたはずなんですけど、あの言葉で晴れたんです。だから、ありがとうございますって言わなくちゃいけない気がしました」

「わざわざ。どうも」


 微妙だった。


 大島の目に光が戻ったのは良いことだ。純粋にそう思う。虚ろさの抜けた大島の目は、今までよりも好感が持てるとすら思う。


 自分は確かに、誰かの役に立てたのだ。


 それに引き換え、自分はどうだろう?


 偉そうに人の世話を焼く自分は、最低の人間なのだ。お礼を言われることすら恥ずかしい。


「お礼をさせてください」

「今、お礼を言ってもらいましたけど?」

「違いますよ。言葉だけじゃなくて、行動で」

「行動で?」

「ええ。オレと付き合ってもらえませんか?」

「だから、その件は」

昨夜ゆうべの責任を取るって言う意味じゃないんです。朝はすみませんでした。お門違いでしたよね。責任を取るだなんてことを安易に言葉にしてしまってすみません。反省して、今日一日考えたんです」

「はぁ」


 大島が何を考えているのか、さっぱりわからない。しかし、その態度は堂々としていて、一点の曇りも見られないから紗絵は混乱が深まるばかり。


 反発する余裕すらなかった。


「小仏先生の過去に何があったのかはわかりません。でも、たぶん、オレと同じようなんじゃないかなって」

「違います」


 言下に否定した。


「違わないです」


 意外にも、正面から、それを否定されてしまった。その押しの強さの後ろ側に「正義」というマントにくるまれたが立っているのがわかっている分だけ、紗絵はひるまずにはいられない。


 そう。大島は、紗絵の闇を見抜いている。助けたいと思ってくれているのがありありとわかるのだ。


「お願いです。オレと付き合ってください」

「お付き合いできるような人間ではありません」


 座った状態のまま腕力だけで、グイッとテーブルを回りこんだ大島は「あなたがどんな人間なのかってことと、オレと付き合えるかどうかって、関係ないんじゃないですか?」と、光に満ちた瞳が覗き込んできた。


 手を伸ばせば届く距離に近寄っているのに、不思議と「身の危険」を感じなかった。


「関係ありますよ。私はダメな人間なんです。だから、付き合えません」

「えっとぉ。小仏先生がダメかどうかなんて、付き合えるかどうかと関係ないんじゃ? だって、オレはそのダメな部分ごと好きになったんで」

「す、好きって、あの、そんな、だって、さっきお礼に付き合うって」

「本来、オレは付き合ってくださいなんて言える立場じゃないんで、お礼にって口実を使っただけですよ」

「え? それってヒドくないですか?」


 いくらなんでも「お礼に付き合ってあげる」っていうのは、ドン引きなオレ様発言だと非難できてしまうはずだ。


 大島は「作戦です」と言い切った。


「作戦?」

「ええ。だって、そうでも言わないと、ちゃんと聞いてくれないでしょ?」

「それは、その……」

 

 確かに、いきなり「好きだ」と言われても無条件ではね除けていた自信くらいはある。


「話を聞いてもらう作戦です。そして、それってヒドいかもしれませんけど、少なくともウソ告じゃないですから。そんなひどいマネをする男じゃないくらいには信じてくれますよね?」

「それと、これとは……」

「オレは本気で言ってます。先生、オレと付き合ってください。お願いします」

「誰かとお付き合いするとか、そんなことができるような。だって、私「今は話さなくて良いです」え?」

「過去の紗絵先生は知りません。でも、ずっと一緒に働いてきて仲間として信頼できる人だと思ってきたし、オレの闇も受け入れてくれる優しい人だとわかったんです。そういう人を好きになったらダメですか?」


 困った。


 大島の言葉にちっともウソを感じない。しかも、もっと困ったことがある。


『私、騙されても良いって…… ううん。騙されてもいいから信じてみたいって思ってる』


 そんな自分がいることに紗絵は困惑しかない。


「そういう聞き方は、ズルいと思いますよ」

「ははは。そうです。オレはズルくて、悪い人間で~す」

「むぅ~ 私を騙すんですか?」


 一ミリも「騙す」だなんて思って無い分、そんな言葉を口にすれば、紗絵の負け。


 事実、大島は、ニコニコと笑顔を見せて手を伸ばしてきた。


「そうです。騙しちゃいますから。ずっと、ず~っと。ね? オレに騙されていてくれませんか?」

「それって、サイテーの口説き文句だと思うんですけど」


 伸ばしてきた手を拒めなかった。


 昨日知った、細マッチョの胸に身体を委ねると、アゴに軽く手を添えられた。


 瞳を閉じてしまった。それは全てを委ねる信頼の姿だろう。


 ゆっくりと唇を重ねた後で、紗絵はモジモジっとしてから「あのぉ……」と小さく声を出した。


「ん?」

「また、私を抱くんですか?」

「紗絵さんが嫌じゃなければ」

「嫌じゃ…… ないです」


 その時、心のどこかに「さよなら」という言葉が浮かんでいたのを、紗絵自身も気付かなかったのだ。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

作者より

やっぱり「指輪」の行方は気になりますよね?

人物紹介の一行ですませるな、とお冠のご様子。紗絵が「ちゃんと書け」と言うんで、長い話になりました。笑笑

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇





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長いし、辛いけど、最後は泣けます

『ただ、君を応援したかった』

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一気に読めば必ず泣けます

『辛かったけど真の彼女ができました』 

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