外伝7 後編 春遠からじ

 生徒に逮捕者まで出した直後の合唱祭。全体がドタバタしていたが、なんとか無事に終わった。


 いや、むしろ、昨年までよりも遙かに「手応え」を感じさせる合唱祭だっただろう。特に、事件のあったクラスの結束力は途轍もないものを見せてくれた。


 まさか1位になるとは誰も予想をしていなかった。


 近年まれに見る「逆転劇」は教員側にも満足感が残る合唱祭となった。


 こういう時の「打ち上げ」だけに、大いに盛り上って解散となった。


 F市は、地方都市にありがちなように中心部以外は終バスの時間が早いため、酒の消費量は多くても、8時に全体の打ち上げが終わる。


 独身若手軍団は、隣の学区あたりにアパートを借りている者が多いから、普段はともかく、飲み会の時は歩きが中心だ。


 実家から出て暮らす紗絵もその一人だった。


 普段の自転車も酒気帯びで乗るわけにもいかないと、今日は歩き。


 幸い、市街地に雪は残っていなかった。


 ただ、背後にある山から吹き下ろしてくる極寒の風は強く、アルコールで火照った身体もあっと言う間に芯まで冷えてしまう。


「すみません。寒いのに、わざわざ遠回りしていただいて」


 ペコリと頭を下げる紗絵に、大島は「いえ、ついでなんで」と素っ気ない。


『でも、どう考えても上流側の橋を回った方が近いよね?』


 紗絵のアパートを回ると、グルッと橋を回り込まねばならないのを最近知った。


 道のりにして5キロは違ってくる。車ならともかく徒歩では「ついで」と言える距離ではない。


 しかし「橋を渡るとすぐなので」と、飲み会の時は、いつも送ってくれる。


 最初は警戒した。だが、その気配は全くなかった。


 普段の「爽やかスポーツ系」の雰囲気とは打って変わって、ぶっきらぼうにも見える態度で、送ってくれる大島だった。


『ぜんぜん似てないっていうか、タイプは正反対よ。なのに、何かかが似てる気がしちゃうのが不思議』


 かつて、好きだった人を重ねてしまうのが恥ずかしい。


 自分には、思い出す資格すら無いのに。


「じゃ、僕はここで」


 いつもの通り、紗絵のアパートが見えてきた曲がり角で大島はお辞儀をする。


 この辺りの別れ方も大島独特だ。


 たいていの男は「あわよくば」という気配を見せる。部屋の中へ招かれることを期待する表情が、どこかしら現れるものなのだ。


 もちろん、襲ってくるつもりはないと信じたい。しかし、チラチラと胸に落ちてくる視線を見てしまえば、部屋に招くなんてとんでもない。


 一刻も早くドアを閉めてしまいたくなる。


 けれども大島は違った。


 部屋の中に来たがるどころか、アパートのそばにすら近づかない。そのくせ「ありがとうございました」と別れた後も、紗絵が部屋に入るまで、少し離れたところから確認して帰るのだ。


 それがわかっているから、紗絵は一刻も早く部屋に入らなければならなかった。


 振り向こうとしたその時だった。 


 あっ!


 凍った路面に滑る大島は、やはり酔っていたのだろう。


「危ない!」


 とっさに手を伸ばした。


 しかし、紗絵の手をはね除けるようにかわして、そのまま派手に転んだ。


 ガン!


 凍った道路に背中をモロに打ち付けた。


 一瞬、動かない大島にドキッとしながらも「大丈夫ですか?」と屈み込む。


『息はしてる。頭は? あの転び方なら、打ってないはず』


 運動神経がいいからなのか、あるいは、武道でも習っていたのか、とっさに頭をかばう転び方をしていた。


 その分、したたかに腰か背中を打ち付けたはずだ。


「あたっ~」


 数秒の「間」を開けてから、あっちこちがゆっくりと動き出した。まるで古い家電品に10年ぶりでスイッチを入れたような感じだ。


「大島先生? 救急車、呼んだ方が良いですよね?」

「いえ。ちょっと大げさです。少し休めば大丈夫。頭は打ってないし…… 腰をちょっと打っただけみたいなんで」

「でも!」

「驚かせちゃってすみません。大丈夫みたいです。先にお帰りください」


 いくらなんでも、それはできない。


「とにかく、今すぐ救急車を呼ぶか、せめて私の部屋で休んでください」

「いや、こんな夜に、それはできません」

「じゃあ救急車を呼びます」


 スマホを取り出す。


「あ、いや、大丈夫ですから」

「大丈夫かどうかは様子を見ないとダメです。呼びます」

「ちょ、ちょっと待って」

「それなら私の部屋で休んでいただけますね?」


 相当、痛かったのだろう。大島はようやく、休むことに同意したが、結局、半ば紗絵がかつぐようにしないと動けなかった。


「とりあえず寝てください。シーツ取り替えてないですけど、そこは我慢してくださいね」

「いえ。床で大丈夫」

「そんなことできると思いますか?」

「……」


 さすがに男性の身体は重かった。息が上がった。


「ケガ人に選択肢はないですから」

「申し訳ない」

「送っていただいた途中ですから」


 ベッドに入れてから、コートを剥がした。


「ごめんなさい。この部屋、


 手早く、ファンヒーターのスイッチを入れ、保冷剤を持ち出してきた。


「背中、見せてください」

「いや、そこまではさすがに」

「ケガ人らしく言われるままになってください。ヘンに恥ずかしがられると逆に困るので。」

「そういうものか?」

「はい、そういうものです。失礼しまーす」


 うつ伏せは無理なようだ。力業でセーターを脱がし、シャツをめくると「痛いのはこの辺り?」と腰を押さえてみる。


「あちっ! その、辺り、みたいです」

「腰ですね。動けないようなら、明日は医者に行っていただかないと」

「わぉ!」

「すみません。冷たいですよね。でも、基本なので」

「あっ、わかって、いま、すけど、つ、つめたー」


 腰に当てられた冷たさに目を閉じて耐える大島は無言になる。紗絵も、何を話していいか分からない。


 ただ、ふと「自分が必要とされているんだな」というヘンな感想だけが湧き上がっていた。


 夜遅く、静かな部屋で男と二人っきり。相手は想い人というわけでもないが、手当のためとはいえ、男の身体に触れていると変な感じだ。


 こんなシチュエーションが自分の人生にやって来るなんて、思ってもみなかったことだ。


 ふっと、優しい面影を思い出しかける。ひょっとしたら、こんな風に、手当てをしてあげることも、ずっとずっと先にあったのかな?


 そんな感慨が生まれかけて、慌ててかぶりを振った。


『ダメ、私は思い出す資格なんてないんだから』


 そんな自己否定の思いが、つい、何かを喋らせたくなっていたのだろう。 

 

「二股でしたっけ」

「え?」


 ギョッとしたように、目を開ける大島。


 その目を見て、慌てて「ごめんなさい」と我を取り戻した紗絵。

 

 他人の傷に触れて良いはずがない。


 案に相違して、大島は薄く笑って見せた。


「さっきの話ですね。あれ、ちょっとだけウソです」


 目を閉じた大島は「少しカッコをつけました」と吐き捨てた。


「カッコをつけた?」

「はい。ネトラレですよ。彼女には男がいたんです。単なる幼馴染みだと言ってたんですけどね」


 なんと答えるべきなのか、紗絵は迷ったが、勝手に言葉を続けたのである。


「仲良くしてるのは知ってましたよ? でも、幼馴染みだって、まあ、それは付き合った後に聞いたんですけど。とにかく、オレが告白してOKしたなら、他に付き合ってる男がいるなんて思うわけがない」

「その幼馴染みと、こっそり付き合っていた?」

「みたいですよ。最後まで認めなかったけど、身体の関係は認めましたからね。もう、わけが分かんないですよ」


 大島は自嘲のような歪んだ笑みを浮かべた。


「身体の関係がある人がいるのに、大島先生にOKをしたんですか?」

「どっちが先かはわかりませんけどね」


 ふっと息を吐き下ろした。


「ずっと、オレが初めてだって思ってました。でも、向こうが先だったのかもしれない。わかりません。 ……彼女とは大学も学部も同じだったんです。ただ、サークルだけ違ってて、オレはサッカー部。彼女はボランティア部でした。で、夏休みくらいから、なかなか会えなくなってきたんです。後から思えば、彼女が予定をわざとズラしていたんでしょう」


 だんだんと饒舌になって行くのは、何かのストッパーが外れてしまったからだろうか。


「彼女の誕生日が9月で、約束したんですよ。始めは渋っていたのを、ちょっと遠出するって言ったらノッてきたんです。後から考えれば、幼なじみ彼氏に見られるのを警戒してたんでしょうね。ま、こっちは、そんなことは知らないから、デートとは別にサプライズで誕生日になる瞬間にプレゼントを渡そうと思って行ったんですよ」

「そこで何か見ちゃったとか?」

「よくわかりますね。お互い実家ですからね。若かったんだなぁ。きっかり0時に渡そうって、彼女の家の前に着いて電話したら、なんと家の前の小さな公園で鳴ったんです」


 紗絵は、いつの間にか、保冷剤ではなく、その手で冷え切った背中を撫でていた。意識していたわけでもなく、自然とそうしていたのだ。


「男の人と一緒だったんですか?」

「ベンチで、男の上に乗って…… してる最中でしたよ」

「あなたは?」

「逃げるしかできなくてね。パニクってたんでしょう。ただ、相手の男がボランティア部のイケメン先輩だって。その幼なじみ? そいつだって見るのが精一杯でした」

「浮気、ですか?」

「どっちがよかったんですかね」

「どっちが、とは?」

「1時間くらいしてから電話が来たんですよ。で、浮気してたよなって言ったら否定するから、公園のベンチでヤッてるのを、さっき見たぞって話したら無言で切られました。しばらく見かけないなと思ったら、ある日突然、うちにやってきたんです」

「謝罪…… ではなかった」


 大島の歪んだ顔を見れば、わかる。


「はい。この間、あなたは浮気って言ってたけど違うって言うんですよ。真顔で。最初に頭がおかしくなったのかと思って。次に、あ、こうやって誤魔化せると思ってるんだ、と。ずいぶんと舐められた話ですよ」

「誤魔化すつもりだったんですかね?」

「さあ? 相手は一個上の幼なじみで、夏休みに身体の関係があったことまでは、すぐ認めたんです。でも、浮気じゃないんだ。愛してるのはあなただけだと。それを真顔で言ってくれるんですよ?」

「それは……」

 

 心の中にモヤがかかる。


「でも、浮気だと思われるのは困るので先輩とはもうしない。好きなのはあなただけだって。真剣に言うんですよ? 頭、おかしいでしょ。もう、そいつのことが理解できなくて。別の生物を見てる感じでした。それ以来ですよ。女ってものを…… いや、他人を信じるのをやめたんです。信じなければ、失望もしないですからね」


 ゴクリとつばを飲み込んだ。心臓が早鐘のように響いてる。


「その後は?」

「もちろん即刻追い出しました。二度と近寄るなって言って。ま、キャンパスが同じなんで、たまに見かけましたけど、その後はオレを避けるようにしてくれたのだけは感謝ですね」


 冷え冷えとした薄い笑いを浮かべる大島は、紗絵の表情が歪むのに気付いてない。


「その人は、その先輩とどうなったかってわかりますか?」

「いや? 興味なかったし。まあ、友達に言わせると彼女がそのイケメン先輩を避けてたんじゃないかって話は聞いたことがありますけどね。実際はどうだったか」

「その後、何かヘンなこと、起きませんでしたか?」


 起きてほしくないという願いを込めているせいか、紗絵の手はペッタリと腰に当てられている。


「ヘンなことって…… あ、そうそう。やつらがヤッてる写真が流れましたよ。きっと、オレを嘲笑いたかったんでしょうね。ん? どうしたんですか?」


 紗絵が震えているのに気付いて、大島は慌てた。女性の部屋でする話ではないと思ったのだ。


「すみません。こんな時にヘンな話しちゃって。あの、痛みが引いてきたんで、後はタクシーで帰りますから」

「ダメ!」


 起こしかけた身体にのしかかるようにした紗絵は、身体ごと押さえにかかっている。ものすごい力だ。


「あの?」


 困惑する大島だ。


「その写真って、今でも、見られますか?」

「どうかな?」

「見せて」


 鬼気迫る紗絵に、大島はギョッとして、逆らうことをやめた。


「えっ、あの、で…… ちょっと待ってください。保存してあるわけじゃないので。どこかに残ってるかな? ずいぶん前だし。あ、そっか。あっちのグループのアルバムなら…… あ、あった。全部じゃないと思うけど。これです」


 大島の身体に載ったまま差し出されたスマホを、文字通り「奪い取った」紗絵は、次、次、次、次、と瞬きもせずにスワイプしていくと、手を止めて拡大した。


 目を閉じた紗絵はふぅ~ と大きく息を吐き下ろした。


「今さらですし、正しいかどうかも分かりません。それに、正しいとしても、これを言うのが果たしていいのかどうかも分かりません。その人が望んでいるのかもわかりませんけど」


 激しい怒り、あるいは嫌悪の表情を浮かべる紗絵の手がスマホを持ちながらワナワナと震えている。


「私には、それを言うと思ってます」

「義務? なんだよ、それ」


 不可解な行動を説明しない紗絵に、大島は少しイラついていたのだ。


「わっ」


 画面を突きつけてきた。


「これ、見て下さい、あと、これ、この角度。あと、ここ、わかります? この顔」

「えっと、どういう「押さえられてるんですよ、全部」え?」


 低い声で喋る紗絵の指は写真の端の方を指さす。


「手脚の先の部分が不自然にカットされてますけど、女性はエッチの時に、こんな風に両手を万歳しません。足の開き方、おかしいでしょ? それに、ほら、拡大すると、これ。顔にかかってるモザイクの横。これって涙の流れた跡ですよ」

「え? それって、どう…… まさかレイプ……」


 紗絵は、大島の上にのしかかったまま、首をゆっくりと振って、返事をしない。しかし、それこそが、何よりの答えになっている。


「脅されてた…… その後、ヤツと縁を切ったから写真が流出した? ってことは、オレにバレたくなかったから?」

「わかりません。そういうプレイだったかもしれないし、ひょっとしたら脅されていたのかもしれませんね。ただ一つだけ確認したいんですけど」

「……はい」

「その時、相手の話を詳しく聞こうとなさいましたか?」


 食い入るように大島の目を覗き込まれて、大島は目を閉じるしかなかった。しかし、顔に水滴を感じて、パッと目を開いたのだ。


 ポタ、ポタ、ポタ


「なぜ、泣いてるんですか?」

「わかりません。それと、大島先生を非難するつもりも、そのお相手をどうこう言うつもりもありません。私には、そんな資格はないから……」


 その一言で、大島は紗絵の「過去」を察してしまったのだ。同時に、過去の自分の愚かな過ちを悔いたのである。


 それは鬱屈としたマグマとなって大島の中で出口を求めたのだろう。エネルギーの行き所を必要とした。


「うわあぁああ」


 本能の動きだ。


 身体を入れ替えて覆い被さる。


 男が女を求めてくる激情の奔流だった。


 紗絵の豊かな胸に顔を埋めながら、大島は求めた。激しく、乱暴な動きだ。


 それが、けして自分を好きになったからではないと紗絵は百も承知しながら受け入れたのである。


 心にこみ上げてきたエネルギーの放出を、その日、紗絵は幾度も受け止めながら、ずっと大島の背中をいたわるように撫でていた。





 翌朝、紗絵の部屋は、以来、初めて少しだけ暖かかった。





・・・・・・・・・・・




 日曜日の朝、今日は、バーバの家に行く約束だ。


 育児休業中の「母」は夫と、まだ幼い子どもを起こそうとした。


 しかし、ふっとスマホに届いたメッセージを見てしまったのだ。


「しんクン? うそ? なんで? なんでなの?」


 二度と届くはずのない相手から、一言だけ「ごめん」というメッセージが入っていたのを見た女は、その日、家族に隠れて泣いたのであった。




◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

作者より

長らくお待たせしました。外伝の完結編です。

こうして、紗絵の人生も、少しだけ戻りました。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 

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