隷属 2

 時は19XX年、2000年ミレニアムを目前に日本は、不動産価格の下落と不良債権の急増という世紀の大混乱を迎えてた。新聞やテレビを見れば、連日にして金融機関の経営破綻とう、とても信じがたい情報を報じてる。

 この混乱模様の裏側に潜む、ヤクザの世界にいても因果はめぐり、銀行から無限に資金を借入かりいれては土地の転売じあげへと明暮あけくれ、この世の春を謳歌おうかしてところかげりが差し初めた。しかしながら、高級時計ロレックス高級外車ベンツの価値観に染まった金銭感覚見栄がたく、その行先には深海よりも深い、暗雲が垂れ込めてた。


 蚱蟬クマゼミのシャア、シャア、という大熱演オーケストラが響き渡る、ある晴れた日の午後。K府K市S区にそびえる書院造しょいんづくり殿の門前に、黒塗りの高級外車ベンツがずらりと並ぶ。

 燦々さんさんと、枯山水かれさんすいの庭に降り注ぐ太陽光の明るさとは裏腹に、エアコンの無い座敷には煙草の煙に包まれた30名程度のが、誰も彼もが暗くあおい顔をして、付合つけあわせてた。

 其処そこる男達は皆、黒のスーツ、黒く染められた袴等の黒色の衣服で身を包み、暗い表情を浮かべるその様は、実に葬式か通夜の様である。

 上座には今年でよわい70を迎える、関西圏最大の暴力的組織をまとめる山田 一政やまだ かずまさが黒の袴姿で君臨し、つらねる構成員達と協力関係にある暴力がウリである組織の幹部達を、ジロリと舐める様に眺めた。

 関東からはC区に拠点を構える角川組かどかわぐみ初代組長、角川 源蔵かどかわ げんぞう。山田と同じ関西からはH市を中心に活動して居る比名輪會ひなわかい3代目会長である梅沢 賢一うめざわ けんいちなど、日本ので生きてる限りは、その名を避けて通れない程の錚々そうそうたる面子が揃ってた。その中には最近シン日本プロレス協会副会長に就任した近藤 史郎こんどう しろうの姿もった。


 「これからの時代は、頭の良い少数が生き残る。」


 ヤクザの手法が、世に知られ過ぎた。

 大手地方銀行におとずれた悲劇的な経営破綻の真相が、連日テレビで報道された。

 徐々にヤクザの存在と影響力が、世間に大きく認識されていった。

 ヤクザと協力関係を結んだ者が、どの様な末路を辿たどるかを、すっかり認知させて仕舞しまった。

 世間と、ある一定に保たれてた筈の、のバランス関係が崩れたのだ。


 暴れん坊な組織の団員による不当な行為の防止等に関する法律。


 この法による人権の剥奪が、容赦無く組織に襲い掛かった。

 指定暴れん坊団体として注目マークされた山田組は公安とK府警の監視下に置かれ、実質首輪着きの組織となった。

 使えなくなったカネ、動けなくなったヒト、消されていくソシキ。

 最早ヤクザとうだけで、理不尽なまでの制裁を与えられる始末だ。


 義理と人情を免罪符めんざいふに、表通りを肩で風切って歩いたヤクザが、人に隠れて生きる時代に変貌カワって仕舞しまったのだ。


 を行わなければならない。


 戦力を維持し、地下に隠れ、世間にまぎれ、ヤクザの香りを表面から消すのだ。

 幸いこの十数年間で、俗に云う企業舎弟フロント企業のノウハウを得てる。

 しかし、堅気かたぎの陰に潜むには、まだまだ自分達の組織が大き過ぎると考えた。

 地下に潜るには家族ヒトが多過ぎ、また潜伏するにはカネが分散し過ぎてるのだ。


 「カネを集約する。」


 その声には、何処どこか諦めがにじんでた。

 オヤジ、と云う声がまばらに上がる。


 「おェ等、博打の時だ。命張タマはれや。」


 ざわざわと色めき立った。

 これはエラい事が起きる、と。

 不安と薄暗い期待の中、大親分の次なる声を待ってた。


 「粘獄ねんごく!ヌルヌルグチョグチョ、感度3,000倍!媚薬ローション・デスマッチを行う!!」


 一間しばしの静寂の後、集まった男達の悲鳴みた声が、蒸し暑い空気を引き裂いた。


 「ね、粘獄ねんごく!ヌルヌルグチョグチョ、感度3,000倍!媚薬ローション・デスマッチですって!?」


 何名かのタイトルを言い間違えた者、言いよどんだ者達が座する畳がパカッ!と勢い良く開き、5名の男達が闇の底へと悲痛な声と共に消えて仕舞しまった。

 山田は妖しげな笑みをたたえ、驚愕に染まる男達を眺めてた。


 「早くも5組が脱落したかァ。」


 残った者達の蒼い顔が、更にしらじんだ。


 粘獄ねんごく!ヌルヌルグチョグチョ、感度3,000倍!媚薬ローション・デスマッチとは、古くは室町むろまち時代より歴史の裏で暗躍した大麻忍たいまにんう秘密結社内で行われてたとされる、恐るべき処刑方の一つである。

 カンナビノイドとアルカロイドを含む毒草と、特殊な環境下で飼育されたテトロドトキシンを含む毒魚の卵巣を乾燥させ磨り潰し、ある配分として厳密に計量したものを、昆布由来の海藻と混ぜ合わせ純水にく事で完成とした、感度を最大で3,000倍までに高め発狂させる媚薬ローションを互いにまとい。何方どちらかが、或いは最後の一人になるまで死ぬか絶頂に達するまで戦い続けるデス・ゲームなのだ。

 尚、何故なぜ処刑方なのに対戦形式なのか、正確に説明出来できる資料は残されていない模様。


 「それぞれの組が20億や、持ち出して賭けて争うんやァ。破産した組、棄権する組はく解散せぇ。取敢とりあえず半分、半分まで減らす。角川の、比名輪の、御二方おふたがたが見届けてれるかァ。」


 山田の宣言によって、恐るべき惨劇の火蓋が切って落とされた。


 れから時は進み、街路樹の色の変化に秋のおとずれを感じさせる夕暮れの頃。

 その日、燃える商魂をうそぶくフセイン相良さがらは、シン日本プロレス協会副会長である近藤に、シン日本のへと呼び出されてた。

 190㎝の身長を誇る相良は、灰色をした特注のスーツを着こなし、高密度な筋肉を搭載した100㎏を超える体重をもって鉄筋コンクリート製の廊下を、ミシミシと鳴らしながら歩いて居た。

 相良は、近藤の呼び出しに対して嫌な予感をいだきつつ、スポーツ和平党わへいとうより出馬するべく用意しなければならない資金を、この機会に如何どうにかしてたかれないかしらん、と考えながら立派な彫刻があしらわれた、総欅けやき仕立てのオフィスドアを眺めた。


 けっ、随分と金を掛けやがって。

 思わず相良は、フルパワーで殴りたい衝動に駆られるが、抑える。

 フゥと息を吐くと、軽くノックし真鍮のノブを握った。

 相良は中からの返答を待たずに、失礼しますと声を掛け、背を縮めながら扉をくぐる。

 部屋中を満たす、けやき黒革かわの香りが相良の鼻孔はなくすぐる、最高級品の香りだ。

 ドア、デスク、チェスト、ソファ、その全てが深い色の落ち着きある光沢をたたえてた。

 われこそは最高級品なりと、色と香りが語ってた。

 そんな高そうな黒革かわのソファに近藤という、ヤクザでありながらこのシン日本プロレスのトップに居座いすわる男の姿を見付けた。

 近藤は冷たい目をし、ブラックスーツに金ピカの腕時計ロレックスが似合う男であった。

 その男の背後の壁に掛かってる、鑑定書付きの絵画が上品にその存在を主張してた。

 近藤を囲む高級な家具に上等な芸術品、と相良は感じた。

 相良はそんな近藤がハッキリ言って、羨ましかった。

 嗚呼、オレもこんな贅沢品に囲われて生活してェな。

 思わず、唾を呑む相良であった。


 「相良の、マァ掛けろや。」


 近藤は足をテーブルの上に組み、駱駝らくだの絵柄で有名な煙草吹かしながら手前のソファに顎を向けた。

 この男は昔から変わらず、煙は安物を好む。

 相良はそう思いながらも大人しく指示通りに、ドア近くの席に腰を掛けた。

 そして、優しく沈み体を包み支える、その乙女の乳房ちぶさみたまろやかな柔らかさに、驚愕きょうがくした。


 「あれから何年経つかな、ウチの若ェのをシン日本のリングに上げてみてから。」


 相良は、ハァと気の無い返事をしつつかつてこの近藤に借金をタテに、滅茶苦茶な要望を受け入れさせられた日の事を思い出そうとしてた。

 あの頃は、相良がシン日本プロレスの代表取締役をになってた。そして同時に借金で首が回らなくなってた。興行を行う為の資金を、自分が持つ別会社の資金で補い、その穴埋めに近藤から借金をする。そんな滅茶苦茶な経営状況だった。そんな中、借金の返済を人質に近藤の要望を受けて、一人のヤングタイガー(シン日本においての新人レスラー)を生贄に……もとい、彼なら困難に打ち勝てると見込み対戦カードを急遽組み替えた。


 ヤクザ VS プロレスラー


 急遽開催された前代未聞の試合だ。

 それも台本無しのガチ、とても危険な試合だった。

 相良がかつて目指しながらも諦めざるを得なかった、サスペンスでデンジャラスな試合になった。


 近藤が何故そんな滅茶苦茶をしたのかとえば、彼は単純にヤクザを相手にレスラーがどの程度戦うのか、単純に見たかっただけである。

 近藤は重度の格闘技マニアでりつつ、お気に入りの格闘家が理不尽に傷め付けられて居るざまを見て興奮する、度しがたき変態でもった。

 また、自分のしたヤクザが活躍するなら、ソイツを使って格闘技界を荒らし、金儲けが出来できるかも知れぬとも踏んだのである。

 結果はレスラーの勝ちだった、近藤は試合が面白かったから満足した様だったが。


 アレは面白かったナァ、相良は試合の内容を思い返してた。

 面白そうだからと、TVテープまわさせた。

 後日放映をしたのだが、ディレクターが肝心な所でコマーシャルスポンサー宣伝を挟んだらしく、良くも悪くも世間をにぎわせた。

 それでも、マニアの間で名試合と語られる伝説の試合の一つとなった。

 アイツの名前は確か、マッスル鈴木すずきだ。今となっては、人気の中堅レスラーとして、シン日本プロレスで活躍してる。


「4年だ。」


 近藤は相良の回答を待たずに先に答えを言った。フーと煙を吐き、近藤の視線が昔を想い出すかの様に、その煙を追ってた。


 「あの時の約束、果たして貰おうか。」


 相良はギョッとして、近藤を見上げた。

 近藤の目線はまだ何処か煙の先を眺めてるかの様な、壁の先でも見てるのか、そんな印象だ。

 あの時、そう言えばよく分からん覚書を取り交わしてた。借金返済期間の延長ともう一つ、この近藤が望む時にあのマッスル鈴木を貸し出すとかナントカ。


 「ハア、そりゃア構いません。構いませんが、アイツを失うのはマズい。」


 ヤクザが人を貸せ、と言うのだ。きっとマトモな用事ではあるまい。鈴木が危険なメに合う事は問題無い、どうなろうとも全く問題無い。自分じゃなくて良かったと心の底から思ってるぐらいだ。だが、プロレスラーとは掛け替えの無い人材なのだ。所属してる練習生も含め、失う訳にはいかなかった。


 「嗚呼、ううん、いや、どうかな、マア、死にはしないさ。ただ、ちょっと、裏の試合に出て貰いてェ。」


 相良はおやと首を傾げた。近藤が言いよどむなんて、付き合い出して初めての事ではないか。裏の試合。死にはしない。だが、言い辛い内容なのだ。この他人が暴行を受けてる様を眺めて悦ぶ、サディストの変態をもってして、だ。

 再び近藤の様子を伺うと、煙を目で追うのではなく、後ろめたそうに顔を背けてた。


 「一体、どんな試合なのですか?」


 聞かざるを得なかった。近藤はボソボソと何か顔を背けながら声を発した。


 「――だよ。」

 「いや、聞こえませんよ。」

 「だから、その、アレだよ、――だって。」

 「いやいや、だから、分かりませんって。」


 いやいやいや、と。

 何度もそんな不毛なやりとりを繰り返したところで、近藤はとうとう観念した表情になり大きく煙を吐いた。


 「アレだ、その、ローション……じゃなくて、オイル相撲的な、うん、いや、オイルプロレスって言った所かな。」


 オイルプロレスだと?

 相良は予想以上に莫迦ばかみたいな答えに呆然とした。だが同時に、危険な予想が過った。かつてプロレスの師匠である金剛山こんごうざんに修行の一貫と称され、色々とに出された事があった。また、海外修行の中でも小遣い稼ぎに裏の試合をちょこちょこと何度もってた。中には信じられない程危険なルールの試合もあったものだった。


 「事故ですか?」

 「いや、うん、そうね、事故ね、そう、事故はね、怖いからね、うん。」


事故かァ。

マア、事故ならしょうがねーか。

事故らない可能性もるが。

でもなア、大切なレスラーを失う訳にはイかねーわな。

コリコリと後ろ首を掻きつつ、相良はそう結論付けた。

相良が勇気を出して断ろうとした時、近藤がボソリと呟いた。


「今度の選挙資金、アテはあんのか?」

「鈴木、貸しまぁす♥」


 即答だった。

 頼むから、無事に帰ってきてれや。

 それが相良の最終決断だった。

 現金がれば何でも出来できる、現金さえれば。

 現金をれれば何でもるさ。

 そーいう男であった。


 マッスル鈴木は今年24歳になる、身長も180cm後半、体重80kg代と筋肉質ジュニアヘビー級にしてシャープな体格を誇り、甘いマスクを持つ美丈夫だ。

 地味な灰色のトレーナーに、暗い色のジーンズ。そして人目を避ける為にサングラスを掛け、昼間のO府O市U区の雑居ビル街を歩いてた。

 今シーズンの試合はもう始まってるというのに、だ。

 鈴木は何処かヤケクソ気味に歩を進めてた。

 先日、膝の故障による欠場が発表された。

 人気レスラーとして上り調子だった鈴木の欠場に、ファンからは悲しみの声が上がった。


 ある日、相良に高級そうな料亭に呼び出され、ヤクザの闇試合に出てくれと依頼された。危険な試合だが、念入りに準備し練習する事で事故を防げると説得されたのだ。


 鈴木は悩んだ。

 実の所、今のシーズンに燃えてた。

 キャリアを積んだ、5年もだ。

 ベルトを賭けたトーナメントに参加する権利も得た。

 チャンピオンベルトを腰に巻く事が夢になってた。

 その為にも良い試合を重ねたい、にもかくにも試合に出たい。

 そんな時期だったのだ。


 「どれだけの期間、ヤクザの元へ行かねばならぬのですか?」


 その質問に相良は3カ月間、とだけ答えた。

 相良はヤクザとの試合を、メディアで大きく取り上げる様に手を尽くした。

 その結果、鈴木は一夜にして新人にしては有り得ないレベルで世間からの注目を浴びる事になった。

 鈴木はその事に恩を感じてたのだが、それとこれとでは話が違うのではないかとも考えてた。

 コリ、と鈴木は気不味きまずげに顳顬こめかみを人差し指でき、勇気を出して断ろうとした時に、相良がボソリと呟いた。


 「お前の借金、まだあンだろ?ウチで背負ってやっても良い。」

 「イきまぁす♥」


 鈴木はいい笑顔で、即答して仕舞しまったのだった。


 「こっちだ、鈴木。」


 相良との忌々しい会話を思い返していた中、ふと声をかけられた。

 声の方を見るとビル間の薄暗い路地に、一人の男が立ってた。

 落ち着いた色のブラウスを着た、細身だが背の高い男だった。

 爬虫類を思わせる締まった体格と、顔に皮を張りナイフでいたかの様な細い目が、冷血そうで神経質そうな印象を与える、そんな男だった。

 細い顎先を、短い髭が覆ってた。

 かつてシン日本プロレスのリングに乗り込み、鈴木と決闘染みた空手喧嘩を見せた、デーモン小宇佐こうさと紹介された男であった。


 伝説の名試合、ヤクザ VS プロレスラー のヤクザその人である。


 鈴木は小宇佐の姿を見て、ギクリとした。

 鈴木はかつて借金の返済を滞り、この小宇佐に取立とりたてられていた過去がったからだ。その立姿すがたを自分の寮の前で見掛けては、慌てて道場に引き返したものだ。

 取立とりたてられ、追掛おいかけられる事こそ無くなったが、今でも鈴木は借金の返済を終えてないとう、後ろめたさがった。


 小宇佐に先導された先は、とてもラブリーな雰囲気ふんいきのホテルに囲まれたとある薄暗い雑居ざっきょビルの地下にひそむ、秘匿ひとくされたジムであった。

 闇ファイトクラブ、そんな単語が鈴木の脳裏のうりよぎった。

 中を見通す事が出来できない、真っ暗なガラスが張られたあやしげな玄関口をくぐると、ぐに汗のみ込んだ革の香り、びた鉄の香り、むさ苦しい男臭おとこしゅう鼻腔はなを刺激した。


 小宇佐が壁にるスイッチを操作すると、誰も居ない暗闇のジムに、パチパチと明かりがともっていく。

 明るみにさらされた視界の中で、まず鈴木の目に入ったものは、驚くほど普通なウェイトリフティングの設備だった。

 そして吊り下げられたサンドバッグ、使い込まれて古びてはるが普通のものだ。

 天井から下がったロープにボロボロになったグローブ、錆びたバーベル等々。

 それ等に埃っぽさは無く、その事からこのジムは常時使用されており、清掃も行き届いてる様に思えた。


 へぇ、ヤクザもちゃんとした鍛錬をしてるンだな。


 そんな事を思いつつ、キョロキョロと辺りを見渡しながら、小宇佐の背を追う鈴木であった。

 しかし、更に奥の区画に入り目についた物が、鈴木の度肝どぎもを抜いた。

 壁に掛けられた、血に錆びた柳葉刀リュウヨウトウであった。

 その余りの驚きに鈴木はあっ、と声が漏れた。


 「あれは、真剣なのか!?」

 「いや、歯は潰してる。」


 その壁に掛けられたものは異常だった。

 日本刀カタナ西洋剣ショートソードむち、シミター、偃月刀エンゲツトウ、更には拳銃トカレフアサルトライフルAK-47から手榴弾パイナップルの様なものまで掛けてる。

 どれも、古い物だと錆具合さびぐあいが教えてくれてた。

 どれも、使い込まれた物だと、色褪せ具合が教えてれてた。

 ただの鍛錬場ではなく、戦闘や抗争に備えた鍛錬場なのだ、ここは。

 武器の使い方を学び、対処方法を覚える為の訓練施設なのだ。

 近くにテレビでた様な、射撃ブースが設置されてた。


 O市の歓楽街に射撃場だと!


 鈴木は、心の中で叫んだ。

 暴対法の施行しこうからしばらく経つが、未だにが放置されてると云う現実が、到底受け入れられなかったからだ。警察とヤクザの間に密接な関係が結ばれてない限り、とても成立しない状況だと鈴木は思ったのだ。


 射座が4レーン、それぞれ奥に撃たれてボロボロになったマンターゲットが鈴木の視界に映っている。


 人を象り、それを鉄砲で撃ったあとる。


 鈴木には、それが何だかとても恐ろしい、冒涜的ぼうとくてきな行いの様に感じられた。

 ボロクズの様な木の的が、まるでズタズタにされた人間の死体の様に錯覚していた。


 ヤクザが人を殺し、そして警察がそれを見て見ぬフリをする。


 鈴木には、この施設のり様が、そんなまわしい関係性の象徴の様に思えたのだ。

 改めて、鈴木はヤクザという存在の根深ねぶかさに、血の気が引いていく心地ここちだった。

 鈴木達が歩いてる、そのすぐ近くにるテーブルに、無造作に拳銃が置かれてるのがえた。

 

 「撃ってみたいのか、構わないぞ。」

 

 ジっと足を止めた鈴木に、小宇佐が声を掛けた。


 素人に、撃たせるのか?


 鈴木がそのサービスの良さにいぶかしみ、ふと小宇佐の顔を見上げた。

 すると小宇佐は、実に何とも言えない、慈愛じあいの表情をうかべてた。


 「いや、遠慮しておくよ。」


 なんだコイツ、気持ちわりぃな。

 鈴木は思わずそう言いそうになったが、何とか飲み込む。


 「そうか、気が変わったら言え、遠慮する必要はないぞ。」


 優しい声だった。

 それはまるで、遠慮がちな甥っ子にでも語り掛けるかの様な声色だと鈴木は感じた。

 その事に気が付いた途端とたんに、鈴木は途轍とてつもない、嫌な予感がした。

 例えが難しいのだが、まるでヤクザの鉄砲玉に最後の贅沢をさせてってるかの様な。

 まるでアメリカ軍に捕まった戦争孤児が、朝鮮半島へのスパイとして養成され送り込まれる前の待遇かの様な。


 何だこの感覚は、不快感は。

 オレは一体何をさせられるんだ!?


 そんな恐ろしい予感が、鈴木の心に染み渡った。


 そんな不快感にさいなまされつつも、二人でその物騒なトレーニングルームの奥まで進むと、どうやら其処そこが目的地らしく、パーテーションで区切られた一角に、応接用のスペースがもうけられてた。


 ボロボロになったビニール革のソファに、琥珀こはく鼈甲べっこうあしらわれた、悪趣味な高級テーブル。

 そして、きたりなオフィスキャビネットの上に、最近発売されたパナテイルス製のが置かれてた。


 インテリアのセンスは最悪だな。


 鈴木はジムの間取りや置かれてる家具を眺めながら、ぼんやりとそう思った。

 小宇佐が先に腰かけ、鈴木に無言で空いたソファを顎で指し、着席をうながした。

 上座も下座も無いが、鈴木は何となく小宇佐と向かい合うのを避け、斜めの位置に腰かけた。


「どこまで聞いてる?」


 お茶も煙草も無くしばらくの間、くつろながらも気不味きまずげに無言で辺りを見つめていた二人だったが、先に声を発したのは小宇佐であった。

 そうだな、と鈴木は相良から聞いていた内容を思い返した。


 「まず、試合内容は…変則的なオイルレスリング?だと聞いてる。それと、それぞれの組が金を賭けて戦う、違法な闇試合だとも。」


 ナルホドなァ、小宇佐はそう呟いて遠くを見つめた。

 そっか、そっか、と何度も言いながら、何かを考えるような素振りを見せてた。


 「違うのか?」


 鈴木は先ほど感じた嫌な予感が、目に見える影になって足元に絡みつき、底知れぬ闇へ引摺ひきずり込もうとしてるかの様に錯覚さっかくした。


 「そうだな、まず試合形式なんだが、その、何だ、非常に言い辛いンだが。」


 そう言いよどみ、暫くの沈黙が支配した。


 「えっと、その、だな、ね、ねん、粘獄……。」

 「はァ、ねんごくゥ?」


 もにょもにょと声にならない何かを口にする小宇佐の姿を見て、鈴木は嫌な予感が意味合いを変貌かえて姿を現そうとしてる様に感じた。


「ね、粘獄ねんごく!ヌルヌルグチョグチョ、感度3,000倍!媚薬ローション・デスマッチだッ!!」

「何ィ!?」


 何だ、それは。


 聞いた直後、鈴木の頭に浮かんだ言葉がソレだった。

 だが、聞こえた言葉が鈴木の脳内で言語として処理された後、脳細胞が一斉いっせいにスパークを起こし、段々と聞き捨てならない単語が随所ずいしょに散りばめられてた事に気が付き始める。


 「び、びやく?感度さんぜん倍?デスマッチ?」


 鈴木の言葉に小宇佐が顔を赤くし、言い辛そうにモゴモゴと言葉を続ける。


 「いや、そのだな、む、室町時代の、その、忍びに伝わる、た、大麻忍たいまにんが、処刑方で……。」

 「はァ~、タイマニンン~?」


 全てを説明された所で、鈴木には到底とうてい理解出来できないシロモノだった。

 虚仮こけにされてるというより、何処どこからツッコミを入れれば良いのか分からなかった。


 何だ、その意味不明な忍びは。

 何だ、その理解に苦しむ処刑方とは、処刑なのに何故なぜ対戦形式なのだ。

 そもそも、毒草と毒魚の媚薬ローションとは、感度3,000倍て。

 後、そんなモノを、何故なぜヤクザが知ってるのだ。

 死か絶頂で決着ゥ?

 この話自体が壮大な仕掛けなのかしらん。


 鈴木はドッキリを疑い始めたが、小宇佐の様子から一概いちがいにそうと決められなかった。


 「今の話がギャグでないなら、もっと具体的に試合の説明をして欲しい。」


 こんな莫迦ばかなヤクザ共、全員滅びれば良いのに。

 鈴木は小宇佐に聞こえない声量こえで、ボソっとそう付け加えた。


 「公式に配布されるショートタイツで戦う事になる、また戦いの前に例のローションを互いに被る。」

 「誰が被せるンだ、自分でやるのか?」


 小宇佐が本当に説明を始めて仕舞しまドッキリの線が消えたアテが外れたが、本気マジでやるのであれば、理解に努めねばならぬと、鈴木はえりを正した。

 鈴木がそう質問をしたのは、自分で被るならその怪しげなローションの量を調整が出来できるかも知れぬと、そうたくらんだからだ。


 「いや、試合を行うリングに入った後、レフェリーから掛けられる。その、な。」


 何処どこか含みがある言い方だった。


 土俵リングにはを持つ、ますらおのみが上がるべし。

 ますらお足る者、武器を持つ事まかりならぬ。

 ますらお足る者、降参する事まかりならぬ。

 片方の、死か絶頂をもって決着とする。


 鈴木がルールの説明をする小宇佐を訝しげに眺めてると、小宇佐がテーブルの下からビデオテープを取り出した。


 「それは?」

 「およそ20年前に、一度この形式の闇試合が行われたらしい。親分から資料として預かってた。」


 言葉での説明は不可能だと感じた小宇佐は、映像資料を見せる事にした。小宇佐は正直それを見たくなかった。何故なら、かつて見せられたこのビデオテープは、この世の何よりも恐ろしい映像だったのだ。


 ザアザアと乱れる映像には、何処どこ鳥籠とりかごを思わせる、鉄格子で覆われた円形のリングが映ってた。

 その中で男二人が揉み合いになっており、少し離れた位置にレフェリーと思われる男が二人を注視してる。


 「ああああああああッッ、ダメッ、動かさないでェ、お願い、ダメェエエエエッッ!!!」


 粘液塗れの髭面の親父が、粘液塗れの禿げ頭の男に抑え込まれ、んずほぐれつ悶絶してた。少ない情報量で描画された二人の顔貌かおは、おぞましい快楽に支配され、恍惚こうこつとろけきってた。ぼやけた映像と罅割ひびわれた音声は、男達が苦痛と快楽の坩堝るつぼおぼれてザマを、鈴木の脳内に向けてダイレクトに訴え掛け続けるのだ。


 吐き気をおよおす様な、野太い絶頂へ向けての嬌声あえぎごえが、如何どうしようも無く鈴木の精神を犯した。


 元々は光学式8mmフィルムの映像らしく、ガタガタと揺れ映像にも音声にもノイズが入り、最低画質のアナログ映像故に、人物の姿形すがた何処どこぼやけてる。

 だが、そんなぼやけた映像の中であっても、鈴木には歴然はっきりと男達が浮かべて恍惚こうこつの表情が見て取れて仕舞しまった。

 痛々しくち切れんばかりに膨張ぼっきした陰茎さおの様子が、理解出来でき仕舞しまった。


 たら7日どころか即死する勢いで、呪いのビデオみた地獄の様相ようそうていしてた。


 男達のショートタイツは、素材が薄いのか陰茎さおのシルエットが浮かび上がってた。禿頭の男はギャランドゥの茂みの存在まで、主張されてた。白いショートタイツが皮膚の色を明確に、鈴木の脳へ主張してるのだ。


 鈴木は精神的なショックから瞬きも出来ずに、映像を網膜に曝して仕舞しまってた。頭ではこんな物なんて見たくないのに、この世で映像に汚染された視覚情報が網膜を通し勝手に脳へと流れ込む。


 「イっ...イッッ......イッッッ!!!!」


 取っ組み合の中、禿げ頭の男が、髭面の親父を片エビ固めで抑え込み、勝負ったかと思うや否や、その股間に手を伸ばし陰嚢きゅうしょを激しく揉みしだいた。

 髭面の親父が声に為らぬ悲鳴をあげると、ブワと勢い良くタイツの中でみが広がり、小さな水風船の様にぷくぅと


 「チェック!!」


 レフェリーと思わしき男が絡み合う男達を引きがし、ビクビクと痙攣けいれんを繰り返す髭面の親父の髪をつかみ、無理矢理むりやりに立たせた。

 そして、股間にひざまずいたと思うや否や、呆然ぼうぜんとした表情でだらしなくよだれを垂らす髭面の親父のショートタイツを勢い良く下ろし、まだ怒髪天どはってんを衝くかの如く憤怒ふんぬの表情で隆起りゅうきし、今も尚ダラリとかゆの様な粘液せいえきが垂れるその陰茎さおを、


 その瞬間、バリバリと音が割れ、クソ汚い野獣やじゅう咆哮ほうこうが、テレビデオの安いスピーカーから放たれた。


 「あああああああああああッッ、ダメェッ!? 止めてェッ、イッたばかりなのッ、今イッたばかりなのオォォォォオオオオオオッッッ!!!」


 腰を丸め、レフェリーの頭を乱暴に掴み股間から引き剥がそうとするが、どうしてなかなか、レフェリーはしたたかに、まるでスッポンの様に咥えて離さなかった。

 更に激しい咆哮ほうこうをあげると、それまでガクガクと必死に抗っていた髭面の親父の四肢から力が抜けた。

 腰に顔を埋めるレフェリーの体の上に、まるで飽きて捨てられた人形の如く、崩れ落ちた。

 無音が占める中、ぐったりと覆い被さる髭面の親父をゴミの様に払い除け、ゆっくりと起き上がったレフェリーは、ヌラヌラと光る口元を妖しく舌でぬぐい宣言した。


 「絶頂確認フィニッシュアウト、赤ッッ!」


 禿げ頭の男は苦悶の表情を上げつつも、勝利宣言の右腕を上げた。映像は其処迄そこまでだった。


 「オレは何故なぜこんなにも、くっそ汚いホモビデオを見せられたんだ!!」


 鈴木は、これまでにあげた事が無い様な怒号どごうを発し、勢い良く立ち上がった。

 それは鈴木にとって、余りにも恐ろしく、そして信じがたい映像だった。

 現実にった出来事できごとだと、受け入れがたかった。

 小宇佐は落ち着け、落ち着けと、鈴木の両肩に手を乗せ着席をうながした。

 鈴木はまるでフルマラソンを終えた後の様に、全身から汗を吹出ふきだしてた。

 鈴木の強く握った拳が、ブルブルと震えた。

 鈍感な鈴木とて、直ぐに察してはたのだ、今の映像がただホモ向けニッチなアダルトビデオではないと。

 自分が出ると約束した、試合の内容であると理解してた。

 鈴木は、顔に垂れる汗を腕で拭った。

 まるで氷水を吹いたかの様に、冷たく感じた。


 「言っておくが、逃げるのは推奨おすすめしないぞ。お前が試合に出なきゃ、オレ達が出させられるんだ。お前が逃げれば、お前の家族を出す事になる。しかすると、お前だけは逃れられるかも知れん。だが、オレ達は諦めない。絶対にだ。どんな夜逃げ屋を使っても、きっとだ。残念ながら女は出場出来できない。だから、お前の妹はペナルティにに出す事にする。弟が居たな、イキの良いヤンチャな男子高校生だな。可愛い顔をしてるじゃあないか。きっとだろう。分かるか?勝ち負けじゃあない、んだ。あんな変態の祭典らんちきに。オレ達の代わりになるならンだ。勝つに越した事は無いがな。これから三ヶ月間、お前の実家を見張るぞ、家族を尾行してやる。組の全員で、だ。お前も同じだ。絶対に逃がさない。」


 小宇佐は目を血走らせ、一気にまくし立てた。

 鈴木はその様子に、小宇佐が言ってる事は本気なのだと感じた。

 きっとコイツ等は実行すると、思わせられた。

 

 「チクショウ、チクショウ。お前達は鬼だ。何故なぜこんな事をする。莫迦ばかだ、オレは。断るべきだった。お前達、きっとロクな目に合わないぞ。きっとだ。」


 最早、鈴木に出来できる事とえば、恨み言を吐く事だけだった。

 家族を危険に晒す事なんて、鈴木には出来できなかった。

 家族の誕生日にはケーキを焼き、楽しく歌をうたって家族皆を笑顔にしてれた妹の事を想うと、その人生にちょっとでも暗いきずを残すなんて許されないと思った。

 ちょっとヤンチャだが、デキの良い弟のすえを想うと、とても身代わりに差し出す心算つもりになれなかった。


 鈴木の目から涙が溢れ出した、こらえても、すすっても、涙が止まらなかった。

 小宇佐はメソメソ泣き始めた鈴木の姿を見て、段々と狂気が薄れていった。

 ソファの上で身を縮み込ませた鈴木に、小宇佐は肩を組み、落ち着け、落ち着けと再び声を掛けた。

 小宇佐はかつての試合で、自分を打ち負かした相手の、そんな姿は見たくなかったのだ。


 「鈴木よ、何と言われて契約して仕舞しまったのかは知らぬし聞かぬ。同情はするが、オレは絶対にお前を逃がさない。オレも同じだ、あんなクッソ汚い試合なんて絶対に出たくない。だが、お前は折角この地獄に落ちたのだ。ただ煉獄の炎に焼かれるだけで済ますのは勿体ないと思わないか。不本意な未来だろうが、同時にチャンスでもある。勝つんだ、勝って大金を持って、この地獄からい出す方法を取る事が一番利口ではないのか。」


 親分から言われてる、と小宇佐は続けた。


 「試合で勝てば、ファイトマネーは1億円出すそうだ。」


 それを聞いて、鈴木の内で恐怖と絶望に加え、底知れぬ欲望が、ドロドロと渦巻いた。鈴木は昔から感情のコントロールが出来できなかった。特に欲望とうヤツには。


 汚い男とローション塗れでからみ合い、絶頂させられる。

 汚いおっさんに、くわえられ、絶頂させられる。

 だが、遊んで暮らせるカネを手に入れる事が出来できる、チャンスでもある。

 最後にチクショウ、とつびゃき全ての感情を腹の底へ押し込んだ。


 「やるよ、れば良いんだろう。」


 小宇佐を見上げにらむ鈴木の瞳は、かつて小宇佐に必殺の一撃を喰らいながらも立ち上がった、4年前のひとみだった。

 小宇佐はそのひとみを見て、その時に味わった恐怖を思い出し、震えた。

 

 それから、鈴木は3カ月間に渡り小宇佐の持つ格闘術のレッスンを受けた。

 幸いあの変態試合には、ダウン後の10カウントによるKOノックアウトの概念が存在してた。


 ――死か、絶頂をもって決着とする。


 即ち、あの試合は投げるか関節を取りつつも股間を刺激し、FOフィニッシュアウトを取るか。

 あるいは、ローション塗れのリング上で打撃を用い、KOノックアウトを取るかの二択なのだ。

 格闘術を用いるのは、変態あいてからみ合いたくないとう理由以上に、組技くみわざを仕掛けてくる者に対し、カウンターで仕留しとめられる技術を欲した、という側面もあった。

 ジムの応接スペースを、鈴木の生活用にと貸し与えられたお陰で、住込すみこみで練習に明け暮れた。


 小宇佐の用いる格闘術は、空手を基本としつつも中国武術カンフーの概念を取り入れたとう複雑な物だった。

 鈴木は、シン日本の道場に入門した時の気持ちで真剣に取り組んだ。


 自由自在に入れ替える脚捌あしさばきには、回避の予備動作とう意味合いだけでなく、相手との正中線きゅうしょの奪い合いで使用する物でもあったのだと、教わった。

 後ろ脚の位置を変える事で、自分の射程距離レンジを相手に隠れて伸ばすのだと、教えてれた。


 そうして鈴木は、かつての試合で小宇佐が見せた、複雑に手脚を組み変える構えの仕組みシステムを知った。


 組技に応用出来できる知識も、しみ無く伝授してれた。

 其処そこでは、リラックスした筋肉と正確な体重移動が、威力を生むのだと教わった。

 それを応用した寸勁すんけいという技術が、テイクバック不要で零距離密着状態いても、十分な威力の打撃を出せるのだと、教えてれた。


 自分より遥かに軽い小宇佐が、自分以上に重い打撃を放つ、その謎が解けた。

 当然、その謎を理解する為に数え切れない程の打撃をその身に受けた。

 3カ月という期限が、鈴木を理不尽な程に痛めつける必要性を生んだ。

 だが、これまで鈴木がプロレスラーとして、5年間只管ひたすらに肉体と精神を極限まで苛め抜く事で得られた耐久力タフネスが、それを問題としなかった。


 それ等は決して、通常のプロレスでは到底使用出来できない危険な技術であったが、今までに知り得無い格闘学とも言うべき身体操作の知識を得られた。


 それは、人体の構造と物理学をミックスした学問だ。


 ――知識を得るとは、技術を習得するとは、こんなにも楽しい事だったか!


 そうして、みっちりと3カ月間修行を積んだ鈴木は、市販のローションを被った状態であってもに格闘術が発揮出来できる様になった。

 必要の無い肉は削げ落ち、体重も80㎏後半から70㎏前半にまで落ちたが鈴木は特に問題としなかった。

 身軽になった肉体は、プロレスに戻った際、更に派手な空中殺法が披露出来できるだろう。

 シン日本プロレスに、体重毎の階級分けがるにはるが、実際に計量する訳でもなく自己申告制なのだ。このまま90㎏(元々サバ読んでた)と公表し、今のヘヴィー級(そもそも80㎏代だと本来ジュニアヘヴィー級だ)に居座いすわった所で誰も困らない。

 組付くみついた相手との質量差に苦しむ自分以外は、だ。


 鈴木は自身の体を鏡に映し、改めて自分の身体の変化を観察した。

 それに元々シャープな肉体の持ち主であったが、細くしなやかな筋肉が描く溝が、どうしてなかなか、美しさに更なる磨きが掛った様に思える。

 鏡を前に、そんな自分の姿に惚れ惚れしてた。

 どうやら鈴木が自身で思ってる以上に、ナルシストのった様だ。

 鈴木は無意識に、次々と自分で考えた変なポーズを取り、それを眺めて浸ってた。

 てはならぬ物を仕舞しまったと、背後で声が漏れぬ様に手で口を覆い隠し、顔を真っ青にして震える小宇佐の姿に気が付きもせずに。


 そして、運命の日が訪れた。

 鈴木は早朝から、小宇佐の無言の蹴りによって叩き起こされた。

 抗議の声をあげる間も無く、鈴木はワラワラとたかるチンピラ達に黒い巾着きんちゃくを顔にかぶされ、何処どこぞへと連行された。

 人でギュウギュウの黒塗りにされたワゴン車にめられて、昼頃に着いた先は何処どこるとも知れぬ、山奥の体育施設の様だ。

 案内された控室にはシャワー室が備え付けられており、立派な作りをしてた。

 しかすると、何処どこか田舎にある市設しせつの体育館かと想像出来できる、しっかりとした部屋だ。


 鈴木は、通された部屋の中を見渡すと、ほこりの積ったソファ下やペットボトルでも置いた《あと》跡が残る化粧台の様子、そしてその鏡に付いている水垢の様子が目に付いた。

 シャワー室は何処どこか部屋の中よりも、綺麗に見える。


 鈴木は知らぬ事だが、試合の開催はせわしく全国を飛び廻る、各組の幹部達に配慮されて組まれており、一日に一試合だけ、それも数日毎に間隔を空けて開催されてるのだ。


 鈴木にわかる事とえば、つい最近も誰かがこの部屋を利用したとう事ぐらいだ、この変態試合に出る為に。

 鈴木は、果たしてその男は勝ったのか負けたのかと、ふと気になった。

 同じ部屋を利用したその者の運命に、自分まで曳かれたくない、と考えたからだ。

 鈴木は、詰らぬジンクスを気にする男であった。


 そうしてると、見知らぬ強面こわもての男が無神経に部屋のドアを開け放った。そして鈴木を視線だけで見つけると、出ろ、とだけ短く言い捨て、顎で廊下の先を示した。

 大人しく出た廊下は、殆どの照明が消されてた。

 薄暗い闇の中、非常口のランプと消火栓のランプだけが明かりを燈してる。

 部屋の外にそびえる強面こわもての男が、再び顎で示した先は体育館の搬入口であった。

 其処そこが地獄への、入場口なのだ。


 扉は既に開け放たれており、やはり真っ暗な会場の中で鳥籠とりかごを思わせる、鉄格子に囲まれた不気味なリングだけが、薄くぼうっと浮かび上がってた。


 暗闇の中、鈴木は一人でそのリングへ向かう。

 ゴルゴダの丘へ向かう、大工の息子にでもなった心地だった。

 呼び込みのアナウンスも入場曲も何も無い、暗く重い雰囲気の中を進んでる。

 リングの中も観客席もうっすらとしか認識出来できない。

 鈴木は今、信じられない程薄い素材が使われた、気狂キチガいか変態が作ったとしか思えない白いショートタイツを穿いてた。


 肌の色や股間のが、くっきりと認識出来でき仕舞しまってた。

 穿いた姿を鏡で見て、死にたくなった。

 透けて見える陰毛の存在が気になったので、全て剃り落とした。

 剃ってる最中、思わず自分の首の頸動脈を掻き切りたくなった。

 気が狂ってたのか、勢いに任せ全身のムダ毛を処理した。

 処理した毛はシャワーで流したが、今頃になって詰まったりしてはいないかと心配になってきた。

 先程、控室でになったオレの身体を見て小宇佐がギョッとしてた。

 恐らく助言か何かをしに来たのだろうが、一瞥いちべつするや否や無言で引き返していった。

 暗闇の中、裸にスケスケのショートタイツ一丁(しかも剃毛済み)の変態が歩いてる。


 それがシン日本プロレスで中堅エースの座を持つ鈴木の、今の姿だった。

 鈴木は涙こそ流さないが、素足にコンクリートの床は酷くこたえた。

 

 鈴木が鉄格子の入り口をくぐると、照明が点灯し、会場の様子があらわになった。

 鈴木の目に、レフェリーの姿が見えた。

 髭を長く伸ばした、禿頭のでっぷりと太った男だった。

 新品のリングマットの匂い、古い照明が放つ焦げたかの様な独特の匂い、そして初めて嗅ぐ野草の様な青臭い不快な匂いに、鈴木の顔が歪んだ。


 改めて見たリングは円形で、それを鉄格子が囲んでた。

 それは、やはり何処どこ鳥籠とりかごを思わせる。

 鈴木はあまり他の競技で使用されるリングに明るくないが、かなり広いリングだと感じた。

 プロレスで使用する普段のリングは約6m程のサイズであるところ、直径10mは有ると鈴木は認識した。

 異様な広さと、形状をしている不気味なリングであった。


 レフェリーに向う様に指示された格子の先には、小宇佐や近藤やらの姿が見えた。

 小宇佐は黒いスーツ姿、近藤は立派な羽織に袴と正装だった。

 どうやら、此処ここが自分のコーナーらしく、鉄格子の一部が赤く塗られてるのが分かった。


 ――オレが赤コーナーなのか。


 鈴木はそのまま、ぐるりと視線を動かすと、入場口を起点に扇状に広がる形でリングを囲む、パイプイスの客席が設けられてるのが分かった。

 其処そこに座り、辛気臭い顔を向ける観客達は、御多聞ごたぶんに漏れずヤクザな男達なのだろうと想像出来できた。


 鈴木達が陣取るの赤コーナーの対面といめんに、大柄なヤクザの羽織姿がった。

 名を矢崎 健司やざき けんじと云い、今にも射殺す様な視線を鈴木に送ってる。

 大きく肥大した筋肉に、頬の大きな傷跡、粗野な顔立ちが印象的な大男だった。

 扇状の、端と端とが赤と青のコーナーに設定され、其々の組の一家が見守る形だ。


 そして、扇の中心に当たる席に、山の様に積まれた1対の札束が見えた。

 その札束と札束の間に、二人の只ならぬ男が鎮座していた。

 その二人こそ、関西圏最大の暴力団的組織、山田組組長である山田 一政その人と、H市において避けては通れぬヤンチャ組織の長、梅沢 賢一であった。


 鈴木は視界に入る観客の、あまりのいかつさにしてると、不意に冷たい液体を掛けられた。

 何時の間に接近したのか、レフェリーが例の媚薬ローションとやらを掛けてきたのだ。

 青臭い野草の匂いを認識した途端、鈴木の体の奥底からブルリと震えが起き、途端に凄まじい欲情が噴出ふきだした。

 これの匂いだったのか、という感想と同時にバクバクと心臓が音を立てつつ、段々と心拍数を上げていってる事に不安を感じた。

 急激に大量の血液が四肢に流れ込み、全身がまるで激しい運動をした後かの様にジンジンと痛み、そして凄まじい熱を帯びた。

 その熱が下半身に伸びた途端とたんに、陰茎さおがバキバキと音を立てながらも、痛みを帯びる程に勃起ぼっきしたのが分かった。

 最早、目の前の醜男レフェリーの尻でも何でも構わないから、ブチ込んでヤリたいとう欲望が、鈴木の腹の中でグラグラと沸騰ふっとうしてた。


 どうなって仕舞しまうんだ、オレの身体は!?


 恐怖と眩暈にさいなむ鈴木の体中に、レフェリーは舐め廻す様な指使いで隙間なくローションを塗りたくった。

 鈴木は皮膚をなぞるレフェリーの指が、まるで大きな蛞蝓なめくじの様に感じた。

 脇から乳房、腹筋のみぞを辿りへその穴まで、ぬるぬると蛞蝓なめくじはいい回り、筋肉の房と房の間を指でなぞってはグニと押し込む、たびにゾクゾクとする快感の信号が背筋を駆け抜け、全身に甘く切ない痺れをもたらした。

 そうして蛞蝓なめくじが、いやらしく粘液を垂流たれながながら、身体をねぶり尽すのだ。

 鈴木が、必死にその不愉快な快感に耐えてると、ググッと股間が握られた。

 思わず鈴木の口から、んふっ、と肺から押し出された空気が喉と鼻を通りヘンな声が漏れた。

 睾丸がドクドクと脈打ち血液をナニか別のモノに変換してるのが分かった。


 レフェリーはタイツ超しに鈴木の睾丸を握る事で、タイツの素材が既定の物か、また何かが無いかを探ってるのだ。

 指の付け根で睾丸を絞めたり緩めたりし、責め立て、苛め抜き、正常に機能してるのか感触で確かめ、そして楽しんでた。

 蛞蝓なめくじの様な指先で陰茎さおの筋と先端を、つまみ、はじき、ね、たたき、その中を通る管の感触を確かめてるのだ。


 レフェリーの手業が、鈴木を幾度と無く絶頂まで責め立て、その寸前で放ち、そしてまた責めた。

 鈴木の股間きゅうしょもてあそぶレフェリーの左腕を突き放そうと、鈴木は両腕で掴み抵抗したが、どうしてなかなか腕力に長けたレフェリーのたくましい腕を跳ね除ける事あたわず。

 そうしてしばらくの間をレフェリーのすがままにされ、蹂躙じゅうりんを止める事はかなわなかった。


 十二分に鈴木をもてあそんだレフェリーは、ビクビクと脈動する鈴木の陰茎さおをそっと一撫でし、名残惜しそうに鈴木の元を離れた。

 鈴木は今にも自爆しそうな股間テポドンを、抑える事で精一杯になってた。


 再び照明が消灯し、辺りを暗闇が包み込んだ。

 鈴木はどんな奴が入って来るのか見てろうと、体育館の入場口を睨むが真っ暗で何も見えなかった。

 そうしてると、レフェリーがマットの上に何かを巻き散らしてる気配がした。

 どうやらマットの上も、このローションに塗れる様だ。

 何もしなくても、むず痒く甘い痺れを伴う快感が全身の皮膚を覆ってる。

 少し動かした足先が伝える感触は、意外とさらりと素直に流れるローションの感触だった。

 鈴木は裸足で、この上を滑ると思うと憂鬱になった。


 静かに、アルミ製の檻の扉が閉まる音がした。

 対戦相手がリングに上がったのだ。

 鈴木は快楽にがる神経を静まらせ、マットの振動を頼りに相手の姿を思い描こうと集中した。

 マットの沈み具合から、体重はこれまで対戦した相手の中に無いレベルの軽さだと想像出来できた。

 60㎏無いレベル、50kg切る事はないとを付けた。


 ――摺足すりあしでは無い、だが恐る恐るとった感覚だ。


 鈴木はマットの振動から歩幅を想像し、かなり小さな相手を思い描いた。

 身長は170㎝無い、165㎝以下、だが160㎝以下とはうまい。

 殴り合って喧嘩するタイプではなさそうだ、と想像した。

 取っ組み合って上を取るのが得意なヤツなのか、だがこの体躯ではめるにしても、めるにしても、跳ね返されるのではないのか。


 様々な憶測が、鈴木の頭をよぎった。

 相手の思惑が読めずに、混乱した。

 れから戦う相手のイメージが、如何どうしてもファイターとは思えなかったのだ。


 まさか、オレと同じ立場のヤツが居たのか。

 ソイツが逃げ出して、その家族が身代わりに此処ここへ立たされてるのか!

 

 そんな想像をしてる所で、照明が点灯した。

 すると、其処そこたのは、怯えた表情と仕草で鈴木とレフェリーを見る、愛らしいだった。


 意外過ぎる選手の登場に、観客達の動揺した声がリングまで届いた。


 鈴木もぎょっとして、思わず少女をジロジロと眺めた。

 白磁の器の様に白く、シルクの様に輝く肌。

 繊細に柔らかく、滑らかな曲線を描いた細い体躯。

 細長い腕と脚、そしてまた長い指を持つ手は女郎蜘蛛を想起させる。

 ぷっくりと膨れツンと張りを感じさせる、桜色の唇と乳首。

 細い顎とぷるんとした頬、小振りで高く尖った鼻先。

 大きなアーモンド状の目がやや鋭く尖り、明るい茶色の瞳が涙で潤ってる。

 ぞっと背中に冷たい感覚が走る程に、整った顔だ。

 腰近くまで伸びた艶やかな黒髪が、一本の三つ編みに纏められてた。

 羞恥に紅潮した白く輝く未発達な身体を、両腕で必死に隠そうとする仕草。


 なにこれ、エッロ、可愛っ。


 鈴木は、今直ぐこの少女を組み伏せ、股間で渦巻くドロドロとした欲望の全てを、一滴残らず注ぎ込みたいと云う衝動に駆られた。

 性欲に支配された思考が、その衝動を全力で肯定した。


 しかし、頭の何処か奥。

 肉欲の熱に浮かされた思考の中で、冷たく凍てついた脳の一部病気の部分が鈴木にささやいた。


 ――残念ながら女は出場出来できない。

 小宇佐が、オレを脅す際に言ってた。


 ――可愛い顔をしてるじゃあないか。

 小宇佐が、オレを脅す際に言ってた。


 鈴木は改めて対戦相手の姿を観察すると、少女はレフェリーにローションを塗られ、あっあっと可愛い矯正をあげてた。


 少女の背後に回ったレフェリーが、両腕で少女の全身を包み込み、あやしくまさぐってるのだ。

 レフェリーの大きな右腕が、肩から腕に掛けてゆっくりとローションを刷り込む。

 左腕は太腿に延ばされ、上下にそれを塗りたくった。

 ぬちゅぬちゅと音を立てて少女の全身をい回るレフェリーの腕が、まるで少女の体をねぶひるの様に見えた。

 少女は身体に絡み付いたレフェリーの太い腕を剥がそうと、掴んで抵抗するがビクともしない。


 レフェリーの掌が太腿を上下する毎に、肩から腕をなぞる度に、少女の腰がビクっと跳ねた。


 少女の肩に添えられたレフェリーの右手が首元へ辿った。

 何かを探るかの様に少女の細い首筋を指の背でで廻した。皮膚に指を沈める事無く、皮膚の表面をまるで舌でめるかの様な動きをしてた。

 首を撫でられる度に、少女の頭がいやいやと振られるが、その様なささやかな抵抗をレフェリーは意に反さない。

 指が首元から更に下へ降りると、鎖骨を二本の指で挟み、丹念に何度も何度も往復し、溝をねぶる。鎖骨がローションでたされ、溢れて胸元へしずくがトロリと垂れる頃、指を広げたレフェリーの大きなてのひらしずくと共に薄っすらと膨らんだ乳房に向かい、緩やかに伸びてった。

 そして脇から伸ばしたローションを指先に溜め、生意気にツンと上を向く桜色の乳首を、ポテっと膨らんだ乳輪ごとつまみ上げると、コリコリとね廻した。少女の僅かに膨らんだ乳房が、強引に引っ張り廻される乳首に引かれ、ふわふわと形を変える。

 乳首を引かれる度に、食い縛った少女の口からヒンっと甘い声が漏れた。


 脚から腰に掛けて、丹念にローションを塗り込んでた左腕は、太腿を蹂躙し終えると、遂に少女の股間きゅうしょに襲い掛かった。もちっとした大きな手がぐわしっ、と握り込んだ。そして緩やかに、上下に、円を描く様に動かしつつ指の付け根を動かし、揉みしだいた。上下に動かされる度に、ビクっビクっと少女の腰が浮き上がり、それに合わせて指先でトントンとリズム良く陰茎さおに振動を与え、中指と薬指で挟んだ先端をコリコリとね廻し、ジワジワとなぶもてあそんでた。


 目をきゅっと瞑り、天を仰ぎ、仰け反り、あっあっあっと可愛い悲鳴を上げながら、まるで人の腕から逃れようとくねり暴れるうなぎの如く、必死に身をよじり、不必要に与えられる快楽から逃れようと、必死に藻掻もがいてた。


 気が付けば、鈴木の鼻からつつぅと、血が筋を描き垂れてた。

 イカン、イカンと鼻血を拭い、必死に飛びそうになる理性を、腹の底に押し込んだ。


 ――鈴木は融通が利かないまでに、真面目であった。


 茎の様に華奢な肩や首、腕には無駄な肉が一切付いてない。

 されど、れは骨と皮という訳ではなく、細く柔らかい筋肉で構成されてるのだ。

 薄い胸板で細くすらりと伸びた上半身は、まるでバレリーノのそれである。


 ――そのびょうきが、冷静に相手の構造せんりょくを分析させた。


 丸みを帯びて膨む下半身は、大臀筋と中臀筋が発達してる証拠だ。

 大きく発達した筋肉が尻椨しりたぶらを重力に逆らい腰に向けて持ち上げ、その上に薄く脂肪を乗せる事で、張りのるエロチックな曲線を描いてる。

 その繊細なバランスが、まるで皿に乗せられたプリンの様に、プルプルと肉を弾ませる、柔らかさを生み出してるのだ。


 ――多少、性癖を歪めつつ。


 そして、早い段階で気が付いてはたが、薄々うすうすのショートタイツの中でもっこりと主張する陰嚢と陰茎さお

 小振りな薩摩芋サツマイモを思わせる膨らみのシルエットが、相手が少女ではなく少年である事を主張してた。


 美しい少女の身体に見えるがその実、異常なまでに研ぎ澄まされた少年の肉体なのだと鈴木は見破った。


 だが鈴木には、やはりれが、戦う為に磨かれた身体とは思えなかった。

 女の様に魅せる事を第一として様にしか見えなかった。

 本当に戦う心算なのかと、改めて疑問に思った。


 万が一、戦って勝利する心算つもりだとしたら。

 鈴木は、彼が掴み合って、取っ組み合って戦うタイプとは、程遠いと考えた。

 これだけの体重差がある場合、万が一関節を捕られたとしても、極められる前にどうとでも出来できる。

 持ち上げて鉄格子に叩きつけても良い、マットに叩きつけても良い。

 そもそも、ローションで滑る身体で関節をめる事は難しいのだ。

 作戦として、破綻してるのではないかと思った。


 そうなると、やはり格闘する心算つもりだろうかと考えた。

 柔らかな身体が、トンデモないスピードと威力を持つ事を鈴木は知ってた。

 鞭の様にしなる身体が生み出す破壊力を、この3カ月間で嫌と言う程学んだのだ。

 それにしても、である。

 これだけ華奢な肉体でながら、その上身長差20㎝近くもある相手に向かって、パンチを繰り出す心算だとは思えなかった。


 正体や目的が、不明過ぎる相手だった。

 油断は出来できぬ、と鈴木は目の前の相手を睨み付けた。


 「ファイト!」


 そんな事を考えてる最中、レフェリーが開始を告げた。

 名乗りも無く、誰に向けてのアピールも無く。

 鈴木はまずレスラーらしく、低く腰を落とし前屈みに構えた。

 両腕は大きく開いてる。

 さあ来い、と指をワキワキと揺らした。

 相手の少年は羞恥か恐怖か、体を隠す様に両腕で覆い、目を閉じて鈴木から顔を背けて仕舞しまってた。


 じっと、お互い動かず時間だけが過ぎてく。

 観客も静かに、そんなリングの上を見つめてた。

 づれぇな。

 これがプロレスの試合でれば、野次が飛び交う頃合いである。

 辛抱強く、油断無く、正体不明の相手の動向を探ろうと、鈴木は一歩も前に出ずに様子を窺ってた。


 そうして居ても、相手はビクビクと震え慄くだけで、動こうとしなかった。


 これは、本当に戦えないハートの無い相手かも知れぬ。


 やはり、ファイターではなく身代わりに出された者なのだろうか。

 だんだんとそう思い始めた鈴木は、目の前の少年が哀れに感じた。

 鈴木は大きく開いた腕を、ゆっくりと閉じた。

 声を掛けようとゆっくり歩み寄ってると、少年は意を決したのか、遂に動きを見せた。

 目を瞑ったまま、両腕を前に突き出して止めたのである。


 ――グローブタッチ。


 ボクシング等の格闘技で屡々しばしば目にする、選手と選手が交わす、試合開始の挨拶だ。

 やる気なのか、そのざまで。

 鈴木は困惑し、突き出された両拳をぼうっと眺めてた。


 「三浦 純みうら じゅんと言います。ど、どうかお手柔らかに。」


 改めて聞こえた声はやはり、女の声?と一瞬狼狽えた。

 その声にドギマギしつつ、鈴木からもよろしくと短く言い、グローブタッチを行おう両拳で返礼しようとした瞬間、鈴木の視界から三浦と名乗った少年の姿が消えた。

 と思った瞬間、鈴木は自分のコーナーの鉄格子に、背中から強かに打ち付けられてた。


 おおっ、とこれまで静寂を保っていた客席から、どよめきが上がった。


 胸に燃える様な熱を感じた。

 呼吸をすると、これまでに感じた事の無い痛みが、ズキズキと広がる。

 右の胸が赤く染まってた。

 蹴られたのか、此処ここを。

 鈴木が視線を動かすと、遠くに三浦の姿が見えた。

 あそこから此処ここまで飛んだのか!

 倒された勢いに、ローションで滑った様だった。

 体を起こそうとした鈴木の体から不意に力が抜け、べちゃっと音を立てて俯せに倒れた。

 レフェリーが慌てて近くまでやって来て、カウントを始めた。


 コイツ、慣れてないな。


 胸の痛みに耐えながら、何となくそんな事を思った。

 起き上がろうと力を込めたその瞬間、鈴木は己の身の異変を理解した。

 胸の痛みも耐え難いが、全身に広がる甘い痺れと心地よい倦怠感。

 どうやら倒れた拍子に股間をコスって、仕舞しまった

 ビクビクビクと振動し、ドクドクとナニかがタイツの中を濡らしてる。

 莫迦な、何時の間に!

 ホンのコンマ数秒、股間から意識を逸らしただけで!?

 さあと血の気が下がったが、まだまだ体の奥底からは、ドロドロに蕩ける様な灼熱の欲望は湧き上がり続けてる。

 股間の怒張も萎えた様子も無い。


 負けてたまるか。

 気付かれる訳にはイかない。

 ダメージにも、絶頂にも。


 鈴木はマットに肘を付き、体を丸めた。

 そして今度こそ起き上ろうとした瞬間、今度は胸に突き刺さる様な痛みが走り、思わず仰け反りそうになった。

 その異様な痛みに、鈴木は事態の深刻さを認識した。

 なんという事だ、恐らくは肋骨が折れてる。

 痛みや欲情を腹の底にぐぐっと抑え込み、何とか立ち上がった。

 表情は穏やかに、つくろって見せた。

 再び前屈みに構え、両腕を構えて見せたところで、ダウンカウントが止まった。

 騙された、怯えた表情と、可憐な容姿に。

 失敗したな、一撃でたおせなくて。

 さあ、と動き出そうとした瞬間だった。


 「チェック!」


 レフェリーから宣言が入った。

 熱に浮かされてた頭が、冷たくなるのを感じた。

 鈴木の顔が、どんどんしらじんでいった

 呆然と立ち尽くしてる鈴木を、レフェリーが腕を掴み、鉄格子に押し付けた。

 大人しくしてろよ、レフェリーがボソリと鈴木の耳元で囁いた。

 戸惑い、助けを求め、辺りをキョロキョロと見渡す鈴木の姿は、哀れさを誘った。

 レフェリーはショートタイツ越しに、鈴木の陰嚢が挙上してる事に気が付いたのである。


 鈴木の視界の中で、近藤や小宇佐達が、天を仰いでた。

 矢崎は勝利を確信し、凶悪な笑みを浮かべた。

 三浦は、ぽかんとした表情を見せてた。


 後ろから鈴木の両腕が抑えられた、セカンドレフェリーが鉄格子の向こうから腕を回して抑えてるのだ。

 ひひひっ、終わったなお前、と下卑た笑いが鈴木の耳元を不快にくすぐった。


 拘束された鈴木は、レフェリーにショートタイツを乱暴に下ろされた。

 怒髪天を付く様な鈴木のソレが、天を向いてた。

 レフェリーが舌舐め擦りしながら、鈴木の顔をサディスティックに眺めつつ、ゆっくりと時間を掛けてソレを口に含んだ。


 ぐぐぐぐぐううううう!


 温かなぬめりが陰茎さおを包み込んだ途端とたん、自分の口から出たとは思えない程、獣みた声が漏れた。

 先端からくびれの溝まで、殺人現場で犯人の痕跡こんせきを探る捜査官の様にレフェリーの長く分厚い舌が、ヌルヌルと這い回った。


 ――どうして、鈴木アイツなんですか!


 チカチカと明暗する鈴木の脳裏に、数年前の記憶がよみがえった。

 それは、同期のプロレスラー佐々木 功ささき いさお慟哭どうこくだ。

 鈴木と佐々木は同じ時期に入門した、同格である。

 鈴木がヤクザと戦ったあの試合は、佐々木 功 VS マッスル鈴木が行われる筈だったのだ。

 佐々木が勝利を収める試合が、行われる筈だったのだ。


 ――どうして、鈴木アイツばっかりなんですか!


 鈴木は、一夜にして有名になった。

 新人なのに、中堅と試合を行う様になった。

 同期と鈴木の試合は、鈴木が勝利を収める内容ばかりになった。

 佐々木は自分達より先を駆け出した鈴木を尊敬し、目標として頑張ろうと試合を盛り上げるべく、稽古に練習に明け暮れた。

 難しい技を練習し、派手な技を受け、傷が残る様な流血もし、試合を盛り上げるべく務めた。

 休みの日も、試合中に動ける時間を増やすべく、鈴木以上に鍛錬を行った。

 だが、鈴木の爆発したネームバリューが全てにいて優先された。

 佐々木には、それがたまらなく口惜くやしかったのである。

 几帳面な鈴木が珍しく遅刻した日、鈴木の居ない控室で佐々木が台本を考える山本を詰めたてたのだ。


 鈴木の食い縛った口から、泡の様にぶくぶくと唾液が漏れた。

 ぎゅうううう、と声にならないうめきが漏れてた。

 視線はさだまる事無く、ちゅうていた。


 きっと、同期の未来を狂わせた罰なのだ、れは。


 尻の奥から背筋に掛けて、如何どうしようもなく切ない射精感が、幾度となく駆け抜けている。

 吸っては舐め、吸っては舐めと、夏の砂浜をさら海波なみの様に、緩急の付いた責めが陰茎さおに与えられる。

 レフェリーはじっと、鈴木の苦悶の様子を眺めながら口淫を続けてた。

 満足げに細められたレフェリーの眼が、強情な奴めと語り掛けてた。


 オレが弱いと、同期の皆も弱いと思われる。


 佐々木の慟哭どうこくを目撃し、鈴木はより激しいアクションが出来る様に練習した。

 小宇佐の動きを真似、格闘技みた構えや攻撃をってみせた。

 コーナーを飛び越え、ロープを飛び越え、鉄柵に激突し、トップロープから身を投げ、花道で暴れて見せた。

 誰が見ても、鈴木が強いと思わせる為に、誰が見ても納得出来できる様に。

 同期との試合は、ほぼほぼセメント同然の格闘を演じて見せた。

 自分だけでなく、同期の仲間達も凄いのだと見て欲しかったのである。

 鈴木は佐々木に頭を下げ、そんな狂気の試合を成立させるべく、誰もない夜中の道場で、一緒に練習した。


 レフェリーの長い舌が、鈴木の膨らんだの裏筋をねぶり上げる。

 じゅぼ、じゅぼと口に溜まった涎を飲み込む音が、不快にリングを揺らした。

 くわえたに沿り頭を深くグラインドさせ、鈴木の先端を唇から喉奥まで激しい往復を繰り返すのだ。

 真っ赤に染まった鈴木の視界に、走馬燈そうまとうが浮かんだ。


 オレが敗けたら、佐々木に申し訳が立たぬ!

 オレが敗けたら、小宇佐の組織が壊滅する!

 オレが敗けたら、家族の家が燃やされる!

 オレが敗けたら、日本の総理大臣が暗殺される!

 オレが敗けたら、日本の株価が崩落する!

 オレが敗けたら、日本にコロニーが落とされる!

 オレが敗けたら! オレが敗けたら! オレが敗けたら!


 鈴木は、どうすれば射精を止められるのか分らぬ故、あらゆる筋肉を締め上げた。

 全身の血管が浮き上がり、筋肉が盛り上がってた。

 舌を噛んだ、歯の何処かが砕けた、爪を立てて握った拳から血が溢れた。


 ――情緒障害、素行障害がありますね、この子。


 鈴木が7歳の頃、母親に連れられておとずれた、病院の診察室でのやりとりが思い浮かんだ。

 鈴木は、感情の抑制が出来ない子供であった。

 気に食わない事がれば、直ぐに怒り、言葉にならぬ声で叫び、暴力を行使した。

 勉強も、助詞や読点の使い方が何時まで経っても正しく使えず、算数も分数について理解が出来なかった。

 少しな子であると考えてた母親だったが、段々とを疑い始めた。

 そして、児童精神科の受診を決断したのであった。


 幼い鈴木自身も、自分の異常性に気が付いてはた。

 他の子と比べて、我慢が効かない。

 他の子と比べて、頭が悪い。

 またその事実が鈴木を追い込み、癇癪かんしゃくに拍車が掛かってた。


 そして、医師から冷徹に告げられた言葉である。


 ――自閉症。


 その単語の意味自体は理解出来なかったが、期待してた言葉でない事だけは、見た事の無い表情で絶句する母親の姿を見て察した。


 精神異常者だったのか、オレは。


 幼い鈴木は、知識的にそれがどういう事か、正確に理解してない。

 また時代的にも未発達の分野であり、世間的にも定義が不明瞭かつ細分化されてなかった。

 当時学校同士で交流のった、特殊学級に通う児童達の姿が鈴木の頭に浮かんだ。

 周りの子達は特殊学級の児童達を見て、可哀想だとか、健気だとか、或いは可哀想と思うのは間違っているだとか、大人びた事を交流会後の感想で話してたと思う。

 だがその時鈴木は、と、心の底から感じたのだ。


 そう思ってたのだ。

 となった。

 その様な事を告げる医師に、その様な事を暴いた母親に、その様な人間に生まれた自分に。

 子供の心で感じた素直な感想は、素直な激情を生んだ。

 だが、冷たい目で自分を眺める医者と、心配そうな顔で自分を見つめる母親の姿を見て、と思った。

 吹き荒れる感情の嵐を、我慢しようとした。

 自意識が芽生えて、初めての我慢だった。

 目に涙が溜まり、視界がチカチカ点滅した。

 そんな自分の姿を眺める医者の目が、ホラ本性を見せてみろ、とそう語り掛けてる気持ちになった。


 敗けてたまるか!

 我慢が出来できない性根が、更なる怒りを噴出ふきだした。

 

 叫び声を上げようとする喉を締め、歯を食い縛った。

 わなわなと唇が吊り上がり、歯がカチカチと音を鳴らしてた。

 鼻の奥がツンと熱く、まるで焼けた様だった。


 顔を真っ赤に染め、犬歯を剥き出しにして、いびつに笑顔を取り繕って見せた。


 ――マア、その特徴が見られる、というところですね。


 医者は癇癪かんしゃくを起さぬ鈴木を意外そうに見て、もう少し様子を見ても良いかと、とそう言った。

 その時鈴木は、ざまァ見ろ、と我慢の限界を迎えつつある激情を必死に抑えながら、心の中で舌を出した。


 帰り道、母親はうつむき今にも泣き出しそうな顔で自分を見つめてた。

 無意識にそうしてたのだろうが、その不安そうな顔を見た鈴木の心は酷く動揺した。

 泣き喚く自分を、落ち着くまで優しく抱きしめてれた人が。

 怒りに暴れる自分を、落ち着くまで優しく抱きしめてれた人が。

 何よりも信頼し、自分を支えてれる人が、今にも壊れてしまいそうに錯覚した。

 その原因が、自分にると思うと、たまらなく口惜くやしかった。

 自分しか、この人を助けられないのだと、気付かされた。

 前を歩いて居た鈴木は立ち止まり、母親に振り返った。


 ――母さん、オレ大丈夫だからさ、安心してよ。


 そう言って、笑って見せた途端、母親は鈴木を抱きしめ泣き崩れたのだった。


 あの日から、全ての衝動を我慢した。

 子供の無邪気な悪意、子供の排他的な意識。

 大人の理不尽な抑圧、大人の利己的な強制。

 その全てが鈴木の心身に襲い掛かり、その度に気が狂いそうな衝動が吹き荒れたが、ぐぐっと抑え込んだ。

 それは鈴木にとって終わる事の無い、地獄の日々だ。

 普通の子供でも我慢出来ない事も、区別の出来できぬ鈴木は我慢した。

 そうしてる内、何時しか鈴木は、湧き上がる衝動や感情を、腹の底へ沈めるとう感覚を生み出してた。

 鈴木なりにになろうと、必死に生きたのだ。


 がああああああっ!


 全身を駆け廻る、射精衝動。

 腹の底へ抑え込むが、今にも腹が裂けて、ブシュっとナニカが噴出しそうな、感覚。

 射精の快感を得ようとする感情を誤魔化す為、鈴木は獣の様な声を上げて叫んだ。

 声にならない声でいた。

 膨れ上がるストレスが、射精に逃げない様に、き叫ぶ快感で誤魔化し続けた。


 レフェリーが口淫を開始して数秒、数十秒と経つに連れ、観客のどよめきが段々と大きくなってた。

 セカンドレフェリーもぼそりと、ほお、だとか、へえ、だとか感心した様な声を漏らしてた。


 鈴木が取留とりとめの無い記憶の走馬燈そうまとうを眺め、正に今事切こときれる寸前。

 ちゅぽん、という音を立て、ようやくレフェリーが口を離した。


 鈴木は立ち上がる前、体を丸めた際に己のショートタイツに吐き出されたを掻き出して排出したのだ。

 普段から、カメラや観客の目を掻い潜り、タイツやシューズに隠し持つカミソリで、額を切り裂き流血を演じる為のテクニックが

 大きなリアクションで目を惹きつけ、意識が逸れてる内にシレっと事を成す。

 レスラーなら誰もが持つ、しかし他の格闘技には無い唯一の技術の内の一つだ。


 レフェリーは口に含んだ際、薄らとの存在を感知してはたが、明白に絶頂と言える程の量とも言い難かった。

 掻きだしたか、とレフェリーは分かってたが、その瞬間を見逃した事を悔やんだ。

 だからこそ、魔女狩りフェラチオを敢行した。

 証拠が無いなら、自白しゃせいを強要させようと。

 この髭面禿頭の男レフェリーは、この下らな過ぎる仕事に思いの外プライドを持って臨んでた。

 彼は誰にも理解出来できない、おぞましい性癖の持ち主だったが、誰の目にも明らかではない、疑惑が湧くジャッジを出来できなかった。


 容疑者は、長時間の拷問を受けて尚、自白しなかった。

 血も涙も無いレフェリーだったが、僅かに残って居た人の心に尊敬の念が生まれて仕舞しまった。

 絶頂まで口淫するという選択ったが、これ以上の理不尽な拷問はプライドが許さなかった。


 「セーフ!」


 レフェリーの苦々しい宣言と共に、観客席から大きなどよめきとストンピングの音が響いてきた。


 「耐えやがった。」


 近藤は信じられない物を見る目で、リングを眺めてた。

 この試合、近藤の知る限りかつて20年前に一度行われて以来なのだが、その時の試合数は実に20に上る。

 その宣言された全てのチェックで、FOフィニッシュアウトの判定が下されてた。

 絶頂の判定であるチェックだが、基本的にレフェリーの口淫に耐え切れないのだ。

 ルール中、最もクソで致命的欠陥な部分だ。

 絶頂していなくても、チェック中に絶頂させられるのだ。

 それも呆気なく、だ。

 数十秒間のチェックが行われた事自体、異例の事態なのだ。

 周囲のどよめきの意味も、近藤が感じたそれと一致してる。

 大きなどよめきと観客のストンピングが体育館のアリーナを揺らしてた。

 近藤は苦笑した。

 まるでプロレス観戦だな、こりゃア。

 

 油断した。

 鈴木は胸の痛みに耐えながらも、再度構えをとった。

 深く腰を落とし、前屈みで、両手を大きく広げた。

 三浦は再び構えをとって見せた鈴木を、驚愕きょうがくの表情で見つめてた。


 油断した。

 不意に痛恨の一撃を貰った。

 卑怯、とは言うまい。

 実は鈴木も不意打ちを企んでたのだ。


 油断した。

 この可憐な姿を、痛めつける気にはなれなかった。

 れ故、速攻かつ穏便に試合を終らせる心算だったのだ。

 グローブタッチを装い、股間に潜り込みしてろうと企んでたのだ。

 決してスケベ心では無かった、筈だ、多分、きっとそう、そうだったんじゃあねーかな。

 

 油断した。

 牙なんぞ持たぬというよそおいに、騙されちまった。

 あれだけ身体能力について、分析してたのに。


 見えない浴びせ蹴り。


 成程、確かに身体操作が得意そうな体躯たいくをしてる。

 しっかりと見極めてるぞ。


 鈴木が低い姿勢のまま、じりじりと三浦へ距離を詰める。

 もう、三浦は怯える演技を止め、直立姿勢に脇を締め、両手を腰よりも高めに前に出してた。

 右手を腹に添え、左手が鈴木へ向けて身体の前に添えられてた。

 剣道でう、正眼の構えの様に見えた。

 鈴木はその様な構えを、見た事が無かった。

 だが何処となく空手なんじゃあないか、という印象を持った。

 正中線の芯が通った様な、綺麗な立ち姿だった。

 おお、と思わず鈴木の口から感嘆の声が漏れた。


 何という美しい構えだ、まるで薙刀を構えた婦女隊ふじょたいの様な出で立ちではないか!


 あんなに小柄な体躯たいくであるのに、まるで自分と同じかそれ以上のサイズと錯覚した。

 だが鈴木は、その錯覚が間違った物だとは認識しない。

 恐らく、この錯覚は三浦の持つリーチなのだ、射程距離が、オレ以上にあるという予感なのだ。


 じりじり、と更に三浦へ距離を詰めている最中、それは起こった。

 制空権リーチが触れ合う正に直前、その瞬間に鈴木の視界から三浦が消えたのである。

 考えるより先に、咄嗟に後ろへローションのぬめりを利用し飛び退いた所を、まるで槍を突き出すかの様な鋭い後ろ蹴りが通過した。

 今度も三浦の姿が、まるで視えなかった。

 回避したと鈴木が認識したその瞬間に、三浦は既に先程の構えを見せてた。

 鈴木は距離を詰めようと駆け出そうとした身体を、急遽止めた。

 迂闊に近づくと、再び見えない攻撃が振るわれると思ったのだ。

 凄まじい速さと、無駄の無い動作。

 鈴木は思わず過剰に回避したが、それは間違いではなかった。

 先程想像した以上のリーチだと、言わざるを得ない。

 それでいて、その威力は己の身で体感した通りに、一撃で肋骨を粉砕するレベルなのだ。


 胸の痛みが増したと感じると同時に、どんどんと呼吸が荒くなった。

 酸素が取り入れられていない、そんな想像が過った。

 折れた骨が肺に刺さってる。

 それは、完全なる鈴木の自己診断であったが、鈴木自身その想像が間違ってはいないと思えた。

 そんな中でも全身を甘く痺れる快感が覆い、下半身にはギチギチと過剰な血液が流れ込んで来てる。

 そのせいで、酸素が脳に巡ってない。

 時間が無いと鈴木は感じてた。

 遠くなりそうな意識の中で、三浦を睨み付けた。


 ――悪くない。


 鈴木は、心底そう思った。


 悪くない。

 この悪趣味な試合に出て、良かった。

 三浦よ、オレは今嘘を吐いてる。

 お前はさっき、怯えた顔で虎視眈々こしたんたんとオレを仕留める隙を伺っていたな。

 逆だ、三浦よ。

 オレは今、お前が怖い、お前に怯えてる。

 半歩踏み出す度に一歩下がりたくて仕方がないんだ。

 だが、駄目だ。

 オレは無理矢理もう半歩前に踏み出す、もっとオレが無知ならば一歩ずつ前に行きたい所を、だ。

 これは、とても危険な半歩だ。

 地雷原に踏み出す半歩なのだ。

 何処に地雷が埋って居るのか分からない、だが確実に埋まって居る。

 そんな心地なのだ、オレは。

 さっきのはギリギリで躱せた、次はどうだ。

 さっきの一撃は、オレを仕留める心算の一撃だった筈だ。

 だが、それが100%の力である保証は無い。

 マットがローション塗れだったから、回避できたのであって、さっきの一撃はあれはあれで、オレを仕留めるのに十分な威力とスピードだったからだ。


 もっとはやい蹴りが、在るのかも知れない。

 もっと長い蹴りが、在るのかも知れない。


 そんな鈴木の疑心暗鬼が在らぬ妄想を呼び、要らぬ緊張を生む。

 荒れ狂う思考の中で鈴木は、正しい道筋を選び抜かねばならないのだ。

 間違えると、暗い闇の底へ沈むに相違無い。


 痛みや欲情ではない、もっと畏怖すべき、神聖なる感情で鼓動が鈴木の内側でドン、ドンと音を立ててる。


 恐ろしい。

 オレは今、自信満々の顔を張り付けてるが、その裏でオレは泣きそうな顔をしてる。

 フェイントを掛けたい、いや掛けて相手の戦力を探れと本能が訴えてる。

 だが、駄目だ。

 プロレスラーに見えない動きを見せると、お前は勘付いてしまうかも知れない。

 オレが隠し持つ、格闘技の存在に気が付いてしまう。

 情けないだろう。

 実力を出し合って、全力でぶつかり合う。

 そんな事になっちまったら、オレは負けて仕舞しまうと確信してる。


 ホンの少しで良いから、オマエを出し抜かねばならない。


 世故せこく、浅ましく、物盗ものとりの様に、相手の戦力を掠め取る。

 泣いて喚いてでも、腹を出して屈服のポーズを取って見せてでも、勝つ為に必要な事をらねばならない。

 少しでも有利な内に、積まねばならない。

 ホンの少しの有利を、ホンの少しのダメージを。

 半歩ずつ、半歩ずつ優しく近づく。

 歯がガチガチと震え出しそうになるのを、懸命に食い縛る。

 面白い、楽しい、こんな怖い試合は中々無い。

 さあ、あと3歩の距離で――


 再び鈴木の視界から、三浦が消えた。

 認識すると同時に何処に消えたかを、目で追った。

 追って、仕舞しまった。

 鈴木の足元に、三浦の太腿が差し込まれてた。

 上段、下段、判断する前に、鈴木は足首を絡め捕られた。


 ――蟹バサミ!?


 いや、それはただの蟹ばさみではない。

 既に鈴木の視界には三浦の頭しか映ってらず、左足首に三浦の体重が押し付けられてる。

 大分、深い所まで喰らいついてる。

 鈴木の左膝裏に三浦の右膝が喰い込み、鈴木の左足首が三浦の左足でロックされてた。

 鈴木が倒されぬ様にと踏ん張ろうとした瞬間に、クイと力が加えられたのが分かった。

 これは鈴木の踏ん張る力を利用した、梃子てこなのだ。

 鈴木の身体が、自然にマットへ向けて傾いてた。

 無理矢理逆らうと、靭帯が破壊される、そんな危険な梃子だった。

 鈴木は自身の力を利用され、重心を傾けさせられて仕舞しまったのだ。

 最早ローションの滑りを利用して抜け出すしかないが、立ち状態での脱出は不可能な展開まで来て仕舞しまった。

 鈴木が無意識に踏ん張った瞬間、既に身体は倒れ始めてる。


 絡まれる直前にしか、鈴木にチャンスは無かった。

 鈴木は諦めて、力に逆らわず素直に倒れた。


 ――足を捕られるのだけは不味い!


 せの姿勢に倒される。

 考えうる限り最悪の展開だ!

 鈴木は、自分で自分を大声で叱り付けたい、そんな衝動に駆られた。

 滑りを利用して抜け出そうと考えたが、それでは再び股間をマットにこする事になる。

 再度の絶頂は、免れないだろう。

 そして、あのレフェリーが二度も掻き出す所作小細工を見逃す間抜けだとも思えなかった。


 倒れる鈴木と三浦の足は、絡み合ったままだ。

 レッグロックの姿勢だ。

 観客の誰もが、このまま鈴木のアキレス腱が破壊されるざまを想像してた。


 おおおおおおっ、と鈴木は思わず咆哮した。

 鈴木は倒れると同時に肘を付き、背中から腰の力で思い切り捻りを入れた。

 上半身の落下エネルギーが、鈴木の背中から脚へ伝わり、下半身と足で絡まる三浦が少し浮いた。

 それと同時に、そのまま捻りで発生した回転に体重を預ける。

 あわよくば三浦を投げ飛ばそうと試みたのだが、転倒を嫌った三浦があっさりと足を解放し、互いの体が離れた。

 鈴木は転がり倒れる勢いのまま、表へ返る。


 三浦は鈴木に弾かれた力を利用して、身体を回転させた。

 そして、その勢いを利用し鈴木より先に起き上がった。

 起き上がった時には、既に構えが取れてる。

 一つの機関で連動し、全身を操作してるイメージだ。

 だから、起き上がると同時に構えが取れてる。

 相手も視界に収めてる。

 直ぐに次の動作に移行出来できる。

 相手より一手素早い。

 これが、三浦のはやさの秘密である。


 鈴木は酸欠と媚薬の効能で、視界がチカチカと輝いてた。

 まるで酔った様な視界の中で、じっと考えてた。


 見えない、三浦の動作が。


 起こりが分からなければ、捕らえられる気が、しない。

 だが、これまでの成果が一つ一つと積み上げられて来つつある事も確かだ。

 此処までの攻防で、無駄になった物は一つも無い。


 鈴木は、改めて自分の持ち札を確認する。


 肋骨の骨折、痛みで身体が咄嗟に反射を起こす。

 外傷性気胸、酸素が十分に取り入れられない、意識の喪失を招く。

 隠したままの格闘術、三浦の意識外から不意を突く為の切り札。


 そして、相手の持ち札を想像する。


 視界から消える足業。

 それは、とても素早い。

 だが、軌道はとても素直だ。

 確かに速くて、攻撃は視界から消える。

 だが、思い返せば三浦は技術は駆使すれど、戦術を一切用いてない。

 現時点で三浦が行ってる戦術は、射程距離の先取りに尽きてる。

 最初の不意打ちを除けば、フェイントも足捌きも何も無く、ずっと待ちながらの、間合いを駆け引きするばかりなのだ。


 十分とは言えないが最悪ではない、負傷と情報のコスト交換だと鈴木は思った。

 だが、まだまだ足りない、まだまだ攻略法を見出せていない。

 どうする、どうするとうのだ、と鈴木は自分自身に問い掛け続ける。


 鈴木はワザと隙を見せ、ゆっくりと体を起こした。

 レフェリーが凄まじい眼力で、鈴木のその様子を探ってた。


 別に、またイっちまった訳じゃあない。

 頼むから邪魔してれるなよ。

 誘ってるんだよ、アイツがどう動くか。

 しかし、三浦は動かない、じっと此方の動作を観察してる。

 駄目か、釣れないじゃあないか。

 お前はオレを散々誘って、もてあそんだというのに。

 オレの誘いには全然ノってれないンだな。


 鈴木は、ゆったりとした動作で立ち上がると、再びプロレスの構えを取った。

 今度は大きく横に広げるのではなく、両腕を顔の前に突き出した構えだ。

 再び鈴木は、じりじりと三浦に近づく。

 今まで鈴木は、視界に三浦の全身を捉えようと顔を上げてた。

 だが、それでは全くの気配に気が付けなかった。

 これだけ足技を見せられたのだ、今度はじっくり足元を観察してろうと思ったのだ。

 浅ましく、何処どこに視線を向けてるのか誤魔化ごまかしつつ。


 鈴木はじりじりと、半歩ずつ、地雷が無いか確かめるかの様に進む。

 股間も胸痛も、とっくに限界を超えて悲鳴を上げてる。

 決着を急がなければならないが、駄目だ。

 危険すぎる。

 そう鈴木が考えてた矢先に、三浦の後脚が動くのを視た。


 今度こそ、鈴木は三浦の初動が視えた。


 この距離で!


 懐に潜り込んだ三浦の姿が視えた。


 こんなにはやいのか!


 この展開はさっきと同様だと思った。

 鈴木は、此処が勝負所だと判断した。

 伏せ札を返した、踏み出した前足を軸に後足を蹴って低く屈んだ三浦の左側に廻り込んだ。

 プロレスではない、小宇佐に教えられた格闘術の体捌きだ。

 今までの様な、どっしりとした動きではない、三浦のってる様なキレのある所作だ。


 正面に居た鈴木に、蹴りを繰り出そうとしてる三浦の姿を認識した。


 こんなに低い体勢から、蹴りを撃てるのか!


 鈴木は、反撃とばかりに蹴りを打ち出して居る三浦に手を伸ばそうとした。

 だがその前に、鈴木は三浦の視線がまだ自分を捉えてるとう事に、気が付いた。


 オレを見失ってはないのか!


 その瞬間、鈴木は頭部を守る様に腕を戻した。

 鈴木の右手越しに右側頭部に固いナニかが、強かに打ち付けられた。

 その時、鈴木は背後からレフェリーに、棍棒で殴られたのかと錯覚した。

 鈴木の足が滑り、再び吹っ飛ぶ。

 途切れ途切れの意識の中で鈴木が視たのは、屈んだままの姿勢で、脚を大きく上段に突き出し、胴回し回転蹴りを振り抜いた三浦の姿だった。


 あの姿勢から、こんなスピードでハイキックが飛び出すのか!


 そんな感動と共に、鈴木の意識は深い闇の底へと沈んだ。


 「1ッ!」


 レフェリーの汚い声に気が付き、鈴木は意識が戻った。

 眩い照明の光が、鈴木の網膜を焼いた。

 仰向けに倒れてる。

 そうだ、蹴られた!

 どうやら右腕がクッションとなり、命拾いした様だ。

 点滅しながらグルグルと回る視界と吐き気に、脳がしこたま揺らされたと気が付いた。


 そうしてる鈴木の視界に、構えを解き此方こちらに近づいて来る、三浦の姿を見た。

 それは、嗜虐的な笑みをたたえてる様に見えた。


 それがお前の本性なんだな、三浦よ。

 大人しい、如何いかにも無害そうな姿を演じてい居乍いながら、その実は邪悪な嗜虐者サディストなのだな。


 突如、鈴木の視界を黒い影が覆った。

 三浦が倒れて目を廻す鈴木の顔面を、踵で踏み抜いたのである。

 一度、二度、止めにと三度。

 ガン、ガン、ガアン!と鈍い音が響き渡った。

 三浦が足を上げて見れば、鈴木の潰れた顔から鼻血が、勢い良く溢れ出してた。

 そして次に、三浦はこんな状態になってもギラギラと主張してる、鈴木の股間に視線を移した。

 無防備にノビた鈴木の姿を見て、三浦の邪悪な笑顔が、更に嗜虐的に深まった。

 "サア、たっぷりと可愛がってあげようじゃあないか。"

 三浦がそう囁き、下半身に向けて足を向けた所でレフェリーが割り込んだ。


 「カウント中に手を出すヤツがあるか、この莫迦ばかッッ!」


 凄まじい表情と怒号に思わずひっ、と三浦の声が漏れた。

 レフェリーは迷った、この明らかな反則行為に。

 こんな変態試合にそんなモンあんのかとう気持ちだったが、ダウンカウント中の攻撃は認められない。

 少なくとも、このレフェリーにとっては。

 レフェリーは迷った、このかつて無い盛り上がりを見せる試合を、この様な結末で終わらせて良いのかと。

 ついぞ自分では結論を出せず困り果て、大親分の山田を見た。

 他人の判断が欲しかったのである、他人に決めて欲しかった。

 山田は困り果てたレフェリーの視線を受け、しばし天を仰ぎ考えてたが、やがて短く頷いた。


 ――続行のサイン。


 「2ッ!3ッ!」


 カウントの再開、三浦は変態に叱られた事に落ち込みながら、ねて自分のコーナーまで下がった。

 KOカウント中って、蹴っちゃダメなんだ。

 莫迦ばかって、知らなかったンだから、仕方ないだろうに、と不貞腐れてた。


 「オイオイ、可愛い顔してエゲつない事するねェ。」


 セカンドレフェリーが、三浦の直ぐ傍に寄りコソコソと話し掛けた。

 

 「ダウン中は攻撃しちゃダメって、常識なの?」

 「まあ、常識だろうな。」


 三浦はさっき受けた理不尽をセカンドレフェリーに訴えたが、手痛く返された。

 小学校では習わなかったナア、と三浦は腹の中で毒吐どくづいた。


 「そういえば、あのレフェリーって、プロ?」

 「いや、医者だよ、泌尿器科の。」

 「ふぅん。」


 三浦はそれとは関係無く、疑問に思って居た事を聞いた。

 その返答を聞いて、世も末だね。

 とまでは言葉にしなかった。


 「5ッ!6ッ!」


 ――カウント中に手を出すヤツがあるか、莫迦ばかッッ!


 レフェリーの怒号を聞いて、鈴木の意識は深い闇の底から再び浮かび上がった。

 試合をしてた。

 例の闇試合。

 倒されてる。

 頭を蹴られた。

 の後、顔を踏み抜かれた。

 気絶してた。

 続々と今の状況が、鈴木の頭の中に蘇る。


 ――敗けてた。


 怒号と再開の合図が来るまでの少しの間だが、カウントが止まった。


 ――助かった。


 カウントのストップだけではない。

 三浦の踵に付着していた媚薬ローションが、顔を潰された際に粘膜から吸収された。

 ズキズキと響きみていた胸の痛みが、ぼんやりと遠くに感じる。

 潰れた顔が熱く感じるが、痛みは何処どこか遠い。

 体中が熱い、毒が効いてるのだ。

 体中に毒を含んだ血が、巡ってるのである。

 下半身がかつて無いみなぎりに、トンデモない事になってる。


 「5ッ!6ッ!」


 立ち上がらなければ、だがまだ力が入らない。

 きっと、10には間に合わないと鈴木は確信して仕舞しまった。

 一か八か、背に腹は代えられぬ。

 口に溜まって嚥下えんげした。


 「ナイ――――えッッ!?」


 むくり、と鈴木が上半身を起こすと同時に、レフェリーも三浦も観客も、驚愕きょうがくに息を呑んだ。

 異様な動きに、異様な雰囲気。

 今の今迄、気を失っていた人間の起き上がり方ではなかった。

 誰の目にも、今の鈴木の立ち姿が、およ真面まともな人間に見えなかったのだ。


 瞳孔が最大限まで開き、何処か遠くを見つめてる。

 目の毛細血管が破裂し、眼球が赤く染まってる。


 レフェリーもカウントを思わず止めて仕舞しまった。

 そんな周囲の動揺を余所よそに、鈴木は落ち着いた所作で立ち上がった。


 三浦は信じられないモノを見る目で鈴木を見てた。

 これは夢なんじゃないか、とまで思った。

 鈴木の顔を見て、ヤバい薬をキメてるかの様な顔貌に感じた。

 ふと、足元に広がるが意識に入った。

 まさか!

 のか、を、怪しげな媚薬ローションを。

 何時、何処で、何時の間に。

 肌に触れただけで、燃え上がる様な欲望を噴出させるコレを。


 ――


 常軌を逸した鈴木の行動に、恐怖した。


 「ファイッ!!」


 鈴木は再度両手を顔の前に、態勢を低く構えた。

 凄まじい吐き気を、感じてた。

 激しい射精欲を、抑えきれそうになかった。

 バクバクと股間が脈動し、まるで漏らした小便の如くカウパー氏腺液を吐き出し続けているのが分かる。

 抑えきれない衝動が、鈴木の下半身で荒れ狂ってる。


 だが、何時もの様に、全ての感情を腹の底へ呑み込んだ。


 意識が途切れ途切れに認知される。

 世界がまばゆき、しらんでる。

 研ぎ澄まされた意識が、時間をゆっくりと刻ませる。


 三浦が自ら前に出てきた。

 ゆっくりと、流れる様に、鈴木はそれを認知した。

 これは鈴木の劇薬によって狂わされた脳が、認知能力をおかしくしてるのだ。

 スローモーションの様に、視えてるのだ。

 三浦は先程と同等か、それよりもはやく動いてるのだ。


 此処ここに来て、初めてじゃあないか、自分から間合いを詰めたのは。

 三浦の下半身が跳ね上がる、そうだ、鋭い蹴りがオレに向かって突き出されてる。

 へぇえ、綺麗な所作だなぁ。

 腰を跳ね上げると同時に、鋭い蹴りが突き出されてる。

 腰を切って足を振り回すのは、想像通りだった。

 だが、跳ねてから腰を廻すのではなく、腰を切る体重移動で跳び上がり、そして蹴りを同時に繰り行ってる。

 凄い、凄い身体操作だ。


 お前の体重で、オレの様な男をたおすには、蹴りの技しか無かったんだな。

 お前の体格で、オレの様な男を《たお》斃すには、虚を突くしか無かったんだな。


 揺れる意識の中、鈴木は冷静に己のるべき事を体の部位に伝達する。

 側頭部目掛けて繰り出されてきた蹴り脚を、首で挟み支える。

 ここが支点だ。

 掴むのではなく、挟む、添える。

 点の力だ。

 蹴りの威力を受けるのでは無く、流す。

 少しも、自分の内に力を留めさせない。

 その時点でアウトだ、首の骨で留まった瞬間に、それは枯れ枝の様に呆気なく折れるだろう。

 体から力を抜き、芯で身体操作を行う。

 普段では決して出来できない高速のり取り。

 蹴りの力の儘、回転し振り抜かれる足首に手を添えた。

 鈴木の丹田から三浦の丹田へと、力が流れるラインが接続された。

 素早く、力を返す。

 自分の力を込めるのは、一瞬だけだ。

 柔らかく力を抜いた首と手を添え、腰を落とした瞬間にのみ力を込める。

 力点と支点を発生させるその所作の結果、三浦の身体作用点に力が増幅されてハネ還っていった。

 一瞬の出来でき事だ。


 蹴りの勢いの儘、三浦は顔から鉄格子へ叩き付けられた。


 ――足一本背負い。

 或いはプロレスで、背負い式ドラゴンスクリューと呼ばれる技だ。


 バアン、と鉄格子が大きな音を立てて揺れてた。

 投げつけられた三浦の体が衝撃で跳ね返り、糸の切れた人形の様に力なく、後頭部から仰向けに倒れた。

 べちゃ、とマットで弾んだローションの飛沫が舞い上がった。


 鈴木が起き上がった時よりも、更に大きなどよめきが会場を包んだ。

 エキサイティングな攻防に、観客が興奮してるのだ。

 そして大きな獣染みた歓声が、上げられた。

 身を震わせる程の歓声を身に浴びると同時に鈴木は膝をつき、その場で嘔吐した。

 胃液に血とローションが混じっており、ドス黒く不気味な吐瀉物が、マットの上にどろりと広がる。

 それが喉にも絡んだのか、焼ける様な痛みを感じてた。

 ローションが発する野草の香りが、鈴木の不快な心地を加速させる。


 「1ッ!2ッ!」


 嘔吐を終えると、鈴木の内でゆったりと流れていた時間が、現実に戻った。

 のそのそと体を起こし、鉄格子に体を預け呼吸を整えようとするが、苦しさはどんどん激しくなってる様に感じた。

 仰向けに倒れてる三浦が、ゆっくりと目を見開いた。


 ――気絶しなかったか。


 赤い血がリングマットに広がってる。


 ――頭が割れたか。


 天井を呆然と見上げていた三浦の目が、ジロリと鈴木に向いた。

 殺意の籠った、怖い目だと鈴木は思った。

 そう思ったと同時に、三浦がゆっくりと体を起こした。

 手を付き四つ這いの姿勢に返り、震える腕で必死に体を起こしてた。

 ガクガクと膝が震え、身体を起き上がらせるのに苦労してる様だ。


 小さな身体で、これだけの戦力を持つヤツがた。

 鈴木は三浦を本当に凄いヤツだ、と心の底から思った。

 こんなに凄いヤツが、世の中に居るのだと思うと感激で涙が出てきた。


 比名輪會ひなわかい3代目会長の梅沢は、当初この見届け人として選ばれた事に喜んで見せてたが、本心ではこの悪趣味な変態試合に関わりたくなかった。

 今日まで、何度か試合が開催され見届けてきたが、どれもホモ臭くグロい試合しかなかった。

 ゲテ物の類なのである、この試合は。

 だが、今目の前で繰り広げられてる試合はどうだ、彫刻の様な美男美女が現れた時は、今日は見栄えだけは良さそうだな、と何となく考えていたのだが、いざ試合が始まってみると、空前絶後の格闘が行われた。

 それはどんな競技よりもスリリングであった、れまで見た事の無い格闘技同士の異種格闘技戦だと感じた。

 このクソみたいなローションさえ無ければ、と何度も思った。

 何方の選手にも、技術がある、頭脳がある、そして何よりハートがある。

 決着に胸を高鳴らせ、リングを見つめてた。


 乱れた前髪が、三浦の視界を邪魔してた。

 流れる血が、三浦の視界を邪魔してた。

 三浦は掌に溜まったローションを、前髪を額から後ろにソレを塗りたくる様に流した。

 カウントを止めたレフェリーが、視点が定まらない三浦に、構えられるか?と問うた。

 三浦はゆっくりと正眼に両手を構えた。


 「ファイト!」


 鈴木が両手を顔の前に突き出し、深く腰を落とす姿を三浦は呆然と眺めてた。


 グラグラ煮え滾るこの感情は何だ?


 煮えたぎる感情と欲情が三浦の全身で吹き荒れ、脳まで焼いてるかの様に思えた。

 揺らされた脳が、吐き気を訴えてた。


 ――騙したな。


 三浦は荒れ狂う感情の中、冷静に鈴木を見つめた。

 如何いかにもトロそうな動きを見せてくせに、随分と素早く動けるンじゃあないか。

 正直者です、という顔をしてて、騙し討ちするなんて、酷い男じゃあないか。


 だけど、悪くない。

 悪くないよ、オマエ。

 ボクの情報を存分に引き出しただろう、もうボクに隠してるモノは何もない。

 オマエに丸裸にされちゃったンだよ。

 母親にも見せた事がない、ボクの裸だよ。

 身体の事じゃあないよ。

 母親の事はずっと恨んでたし、怖く思ってたけれども。


 こんな風にブッ殺してやる、なんて思った事はない。

 こんな風に敗けたくない、なんて思った事はないんだよ。


 一歩、二歩前へ出る。

 脚を捕られると、また痛い目に合う。

 捕らせない、今度は。

 一歩、二歩、アイツも前に出てきた。

 其処そこは、もうボクの射程距離内だ。

 でも、もう二度と正面から蹴ってんない。

 加速する、前に出ると見せ掛けて、周り込む。

 正中線をアイツに向けたまま、周り込む。

 ささっと、アイツは身体をズラした。

 ホラ、さっきの動きだ。

 素早い、ボクの欲しい位置から逃げた。

 慌ててボクは飛びのく。

 背中を向けて、クルリと身体を廻す。

 兎に角、距離を空ける。

 アイツはボクを睨んだまま、微動だにしていなかった。

 動けなかったのか、動かなかったのか。

 ボクには判断出来できない。

 さあ、大きく距離が空いたぞ。

 一歩前に踏み出すと同時に、手を組み替える。

 今までの逆足で、逆方向に周る。

 アイツは、手を出して来ない。

 嗚呼、ボクが激しく動いて居るから、対応出来ないんだ。

 何をするか分からないから、手が出せないんだな。

 それならと、一つ思い付いた。

 立ったまま、アイツの足を蹴る。

 何を考えてるのか見せてみろ、とやさだけの蹴りを放つ。

 バチン、と肉を打つ音が響き、アイツの身体がホンの少し弾かれた。

 そして、やはりというべきか、ボクの脚を掴まえようと手が伸びてた。


 ――掛かった。


 アイツに、蹴った脚が捕まえられる。

 脚に手が添えられた瞬間に体を浮かし、後ろ足も振り回してくれった。

 ボクの足を捕まえた腕に、強かに打ちつけてった。

 崩れた態勢で放つ蹴りは、多少威力はがれていたが、どうだ。

 蹴られたアイツは体勢を崩し、蹈鞴たたらを踏んでた。

 チャンスだ。

 直ぐに跳ね起き、構えを取る。

 楽しい。

 ドキドキする。

 オマエのせいだ。

 ずっとオマエの事を考えてる。

 ずっとオマエの事を想ってる。

 今、オマエは何を考えてるんだろう。

 今、オマエは何をしたら悦ぶいやがるんだろう。

 まるで、オマエに恋焦がれているかの様な感覚だ!

 オマエも同じなんだろう?

 オマエも同じだったら、何だか嬉しいとさえ思ってる。

 ボク達は今互いに心を想い合ってる。

 ボク達は今互いに身を重ね合ってる。

 かつてない、感情で満たされて仕舞しまった。

 全部、オマエのせいだ。


 蹈鞴たたらを踏んだ鈴木が態勢を整える前に、三浦が動いた。

 背後を取るように周り込む。

 これで、鈴木は完全に三浦の姿を見失った。

 頭でも脚でも、何処でも好きな所を蹴れるチャンスだ。

 最速での後ろ足蹴りを放つ。


 死角に潜り込み、最速で繰り出した三浦の必殺の蹴りが、空を切った。


 鈴木はこれまでの三浦の作戦から、ある仮説を立ててた。

 というより、三浦が自分自身でその可能性を示して仕舞しまってた。

 徹底的なまでの不意打ちと奇襲、それが指し示す圧倒的な対人戦不足の可能性。

 これだけの技術を持って居乍いながら、一度も此方こちらからの攻撃と相対しようとはしなかった。

 極度に相手からの攻撃を恐れてる、と踏んだ。

 だから、単純な作戦にでた。

 プロレス的な作戦とも云える。

 ダメージを受けた隙を見せて、相手の大技を受ける。

 そんなプロレス的な展開を演じて見せた。


 三浦が視界から消える瞬間、鈴木は自ら仰向けに倒れた。

 倒れる顔の上を、細い綺麗な三浦の足が掠った。

 それは鈴木が思った以上に、はやい蹴りだった。

 鈴木の背がマットに着く瞬間には、三浦の蹴りが伸びきった所だった。

 三浦の蹴りは、その勢いが零になる瞬間が無く、全てのエネルギーが無駄なく攻撃と移動に消費される。

 だからこそ、この攻撃はフェイントでない限り止められないのだ、基本的には。

 倒れた姿勢と勢いの儘に、三浦の移動ルート上目掛けて刈り取る様な蹴りを見舞った。


 しかし、完全に不意を突いた筈の鈴木の蹴りもまた、空を蹴った。


 三浦は後ろ足蹴りを放った瞬間に、飛び上がってた。

 空を切ったと同時に、罠に嵌った事を悟ったのである。

 戦力分析が甘過ぎたのは、鈴木も同じだった。

 三浦の行動は、確かにキャンセルが効かない類だが切り替える事は出来できのだ。

 三浦は蹴りの威力を活かした儘に、体を回転させて構えに戻る所で、動作を変えた。

 飛び上がり、浴びせ蹴りの様な動きに変えた。

 停止する事無く、蹴りを放つシステムだから可能とした回避である。


 三浦は無理矢理投げ出した身体がマットに着地する勢いを殺さず、背を向けつつも旋回し再び鈴木を正眼に捉えた。

 一方鈴木も、地を刈る蹴りを放った威力を活かし、その勢いで跳び上がり体を起こしてた。


 鈴木はこの低空の蹴りが避けられるとは考えてなかった、三浦の臨機応変に対応する能力を知り驚嘆きょうたんした。

 なら、と畳み掛ける様に攻撃を繰り返す。

 覚えた格闘術とローションの滑りを活かした高速移動で、三浦の懐を目指す。

 三浦は鈴木の初めて見せる初動の選択に驚いた表情を見せるも、今度も即座に対応して見せた。

 背面に飛び上がりサマーソルトの様な蹴りを、鈴木に放って見せた。


 綺麗な動きだな。


 拳を突き出す瞬間に、顎を蹴り上げられた。

 ガキン、と大きな音が頭の中に響き、同時に膝の力が抜けガクガクと震えた。

 衝撃に目が裏返るのが分かった。

 それと同時に奥歯に添えた舌を噛む事になった。


 高速のバク宙かぁ。


 頭部に受けた時用に、気付けの準備をしていたのが活きた。

 激痛にカッ、と目を見開き、力の抜けた下半身を安定させる。

 逃がすか、とバク宙で空いた距離を、鈴木は更に滑って距離を詰める。

 と飛び上がり、着地する三浦の鳩尾を目掛けて蹴りを放った。

 三浦は更に詰めてくる鈴木を見て、慌てた様に身を沈め低空の蹴りを放ってる所だった。


 お互いに先読みで放った攻撃が、何方も空振りに終わった。

 飛び上がった鈴木と屈んだ三浦は、お互いの位置が入れ替わった。


 そして着地するや否や、今度は鈴木がリングマットの反動を利用しバク宙してみせた。

 鈴木の跳び上がった位置を、屈んだままで一回転した三浦の低空蹴りが、コンマ数秒程遅れて通過した。


 鉄格子の向こうから、一連の攻防を眺めていたセカンドレフェリーは呆れていた。

 こいつら、趣旨穿き違えてるだろ、と。

 屈強な男と可憐な男の娘を用意して、媚薬ローションだっつってんのに、何普通に格闘してんだコイツ等。

 セカンドレフェリーは、かなり趣味のこじれたホモだったのだ。

 性的な攻撃の応酬を期待して、此処に立ってたのだ。

 マア、コレはコレで別の需要があるわな。

 客席に置いてるビデオカメラの様子を一瞥し、再びリングへ目を向けた。


 ほぼ零距離で、向かい合った鈴木と三浦。

 この試合中で、初めての展開だった。

 三浦は鉄格子を背負う位置でる事を嫌い、何よりも先に鈴木の左側面に周り込んだ。

 しかし、周り込んだ先に、鈴木の逆水平チョップが迫ってきた。

 対面時に起こす、三浦の行動を読み狙り放たれた鈴木の先読みの攻撃だった。

 回避不能を悟り脇に添えていた腕を上げ、ガードする。


 これは、三浦が生まれて初めて、ガードで他者の攻撃を受けた瞬間だった。


 木刀で薙ぎ払われたかの様な感覚が、ガードした三浦の腕に走った。

 その勢いに、思わず踏ん張ろうとして仕舞しまった。

 ローションで滑り、勢いのまま、三浦は再び鉄格子に吹き飛ばされた。

 三浦の後頭部からガアンと鈍い音が響き渡り、小さな身体が弾かれる。

 鈴木は手刀を振り抜いた勢いの儘で身体を旋回させ、三浦を捉え続けてた。

 三浦がマットに沈む前に畳み掛け様と迫るが、三浦は鉄格子に弾かれた勢いで蹴りを繰り出し、それが鈴木の顔面にカウンターで突き刺さる。

 ぐらり、と鈴木が傾くと同時に、三浦の身体がマットに落ちた。


 観客席の声援が、更に大きくなった。


 鈴木の体は、限界を迎えてた。

 視界は黒く染まり、脳の奥底に冷たい氷の塊が存在してるかの様に錯覚する。

 十分な酸素が、脳に届けられてない状態だ。

 チョークスリーパーを掛けられて、落ちる寸前のだ。

 開幕に被弾した脇の下辺りにぶくっと膨れた、腫れがあった。

 骨が刺さり肺に空いた穴から、呼吸時に漏れた空気が胸の皮膚下に溜まってるのだ。

 更に悪い事に、右手と右腕の感覚が、既に無い。

 頭を守った時に、砕けたのだ。

 更に、わざと腕で受けた蹴りが、存外に効いて仕舞しまってたのだ。

 動くに動くが、ぎこちなく、力が入ってるのかないのかも分からぬ。

 もう、右腕で殴る事が出来できないと鈴木は絶望した。

 鈴木は最早、自分が呼吸してるのかも判別付かなくなってた。

 身体から送られてくる信号が、頭部の異様な冷たい存在と、股間の熱だけになってた。


 一方三浦も、二度も鉄格子に打ち付けられたダメージが深刻だった。

 脳震盪を起こし、集中力が失われつつあった。

 全身から、力が抜けていきそうだった。

 身体を動かす度に、体中の筋に鋭い痛みが走ってた。

 激しい攻防の最中、身体操作が不完全だった証拠である。

 先程は咄嗟に繰り出せたが、もう何発も蹴りが出せる自信が無かった。

 脳が三浦に、身体を休めろと何度も訴えかけてきてる。

 意識を手離しそうになる度、鈴木の姿を見た。

 何度もフラつきながら立ち上がり、構えて見せた。

 敗けるか。

 コイツにだけは、敗けるか。

 チカチカと点滅する視界の先に、ボウっと亡霊の様に構える鈴木が居た。

 三浦は鈴木の姿を見つめながら、口元に垂れて来てを、ペロリと舌で掬い舐め、そして嚥下した。


 鈴木は黒く塗り潰された、まるでフィルム写真のの様な世界の中で構えてた。

 色も無く、何となく必要最低限の情報まで落とされた、輪郭だけの存在が正面で構えていた。


 三浦よ、敗けるとはどういう事だ。

 オレは、ハートが屈した時だと思う。

 ハートが折れた時、人は敗北するのだ。


 人はよほどの事がなければ争わない。

 命の危機でもない限り、オレ達は争わない。

 だが、例外がある。

 それは、ハートを傷つけられた時だと思う。

 身体なら、ある程度は我慢出来できる。

 だが、ハートというヤツはどうにも我慢ならない。

 ハートを傷つけられた時、人は何処どこまでも残酷になるし、きっと極端にもなれるンじゃあないかと、オレは考えてる。


 オレ達は今、20億円だとか、ヤクザの存続だとか、そんなチャチな物の為に戦ってる訳じゃあ無いだろう。

 そんな下らないモノの為に、此処ここまでは出来できない。

 戦う前、オレはお前の事を、ハートの無いヤツだと思ってガッカリしてた。

 大間違いだった、侮って悪かった。

 オマエは、ハートるヤツだ。


 まだ、折れてないんだな。

 まだ、ろうというのだな。


 三浦よ、お前のハートは何処にる?

 オレのハート心臓ここるぞ。

 心臓コイツが止まるまで、諦めないぞ。


 鈴木は此処に来て、開いてた掌を握り拳に変えた。

 軸足と同じ腕を前に構えた。

 空手でも、ボクシングでも無い、独特の構えだった。

 小宇佐に習った、格闘術の構えだ。


 三浦は正面を嫌い死角へ周り込もうとステップするが、鈴木がそれに追い付き互いに周る。

 まるで氷上を滑り踊るかの様な、正中線の取り合いだ。

 鈴木の放つ左ジャブを大袈裟に回避した三浦に隙が出来できた。

 其処そこを、鈴木は捕らえた。

 三浦の死角に潜り込んだ鈴木は左のストレートを放った。

 れが、三浦の左胸を側面から突いた。

 薄い胸板に、柔らかな脂肪が乗ってた。

 ぎっ、と三浦の口から声が漏れた。

 鈴木の70㎏近い体重が、鈴木の薄い胸板を貫いたのだ。

 三浦の小さな心臓まで、重く響いた。

 畳掛ける様に、鈴木は右足のローキックを放つ。

 ベチっと三浦の柔らかな肉を撃つ音が響いた。

 三浦は痛みに喘ぎながらも、必死に身体を動かして居た。

 蹴りを放った鈴木の動きに、遅れが生じた。

 その隙に合せられた、三浦の直線軌道の前蹴り。

 鈴木は腕を交差させて受け様としたが、右腕が遅れて仕舞しまった。

 左腕のガードを突き破り、鈴木の赤く腫れた右の胸に吸い込まれた。

 があっ、鈴木の口から肺から込み上げた血液が零れ出た。

 其処に、三浦は更に左脚の回し蹴りを叩き込もうとした。

 だが、回転の勢いに負けた三浦の軸足がブレた。

 明らかに精彩を欠いた連続蹴りだった。

 鈴木はホンの少しの動作でそれを見躱し、離れて仕舞しまった距離をステップインで詰める。

 二撃目が失敗した三浦は、続け様に姿勢を低くし、膝を刈るかの様に更に蹴りを繰り出そうとしたが、突き出そうとした脚が、鈴木に思い切り踏み抜かれた。

 があッと三浦の口から、粗野な声が漏れた。

 まるでスレッジ・ハンマーでも振り降ろされたかの様な衝撃と痛みが、三浦の脚に走った。


 蹴り脚に合わせられた、踵による完璧なカウンター。


 蹴られた瞬間に、三浦は背を向けて身体を捻り、距離を空けた。

 鈴木は蹴りを二度放ったが、二度目は三浦の後ろ背に突き刺さった。

 不発。

 三浦は背中に受けた勢いで、最早乾いて仕舞ったリングマットを滑り、加速しながら跳び上がった。

 薬物でキマった身体が実現する、消費してはいけないエネルギーを消費しての跳躍。

 浴びせ蹴りを放ちながら、鈴木の周りを跳ねた。


 一気に押したいが、近づけない!

 三浦に上手く逃げられて仕舞った鈴木に、焦りが生じた。

 そして一瞬、焦りに意識がトんだその時、視界から三浦の姿が消えた。

 浴びせ蹴りの着地と同時に、高速で何処かへ潜り込んだのだ。


 まだだ、まだオレのハートは折れていない!


 足を止めた鈴木の死角に着地した三浦は、反撃に出た。

 身を立たせた儘に振り抜いた鞭の様にしなる回し蹴りが、鈴木の左腿を撃ち抜いた。

 バチインと、本当に鞭で打ったかの様な音が響き渡った。

 鈴木は死角からのその一撃に、まるで自分の左足が破裂したんじゃないかと思う様な熱と痛みに襲われた。


 ぬうううっ、鈴木の口端から、呻き声と泡の様な唾液と血液がブクブクと溢れた。


 続け様に三浦の拳が、蹴りにたまらず崩れる鈴木の腹に突き刺さった。

 ドス、ドス、ドスと、細腕が繰り出す拳とは思えぬ音が響く。

 三浦も限界を迎え、蹴りを連続で放てないのだ。

 何度も何度も、鈴木の腹筋を破壊せんと拳を撃ち続けてた。

 鈴木も限界を越えて仕舞しまい、それを回避するエネルギーが無い。

 きゅっ、と股間を脚で守り、顔の前で拳を構えて耐えてた。

 反撃するエネルギーさえ、無いのである。

 鈴木には耐える事しか、出来ないのだ。


 斃れろ、斃れろ、斃れろ!


 もはや何の余裕もなく、三浦は僅かなエネルギーで矢鱈滅多に、蹴りも拳も鈴木の全身にぶつけた。

 力が抜けていく感覚に逆らい、無理矢理身体を動かした。

 意識がトびそうになるのを、腹から声を出し保つ。

 がああああああッッ!!と吠える三浦の声と、鈴木から響き渡る肉打つ音が響き渡る。

 三浦の動きに、最早身体操作も技術も理論も機能もクソも無い。

 少女の様な美貌を持つ三浦の股間からは、ダラダラと小便の様に、ナニがしかの体液カウパーが垂れ流されてる。

 線の細い、バレリーナの様な少年が、ただただ衝動のるが儘に繰り出される暴力を、大男すずきにぶつけて居た。


 レフェリーが己の役割を忘れ、ぽかんとその様子を眺めていた。

 観戦していたヤクザ達も、声を失ってその様を眺めていた。


 三浦はラッシュの止めに、今度は勢いをつけ鈴木の膝目掛けて蹴りを放った。

 再び鞭を打つかの様に、派手な肉の音が響く。

 鈴木の身体は、糸の切れた人形の如く、体中に打ち付けられる衝撃のままに振り回されてた。

 三浦も最早自分で自分の身体を動かしてるとは言い難い状態だった。

 続け様に放たれた三浦の拳が容赦無く、ふらふらと揺れる鈴木の顎先に突き刺さった。

 肩で息をしつつ拳を振るった三浦を前に、仰け反った姿勢の儘の揺れた鈴木は、膝からドスンと崩れ落ち、左手をマットに付いた。


 そして、顔を伏せたまま、まるで救いを求めるかの様に掌を開いて見せた右腕が、弱々しく三浦に伸ばされた。

 三浦はそれを見て、ピタリと動きを止めた。


 ――命乞いの合図サイン


 「もういい、鈴木。」


 小宇佐の口から、思わずそんな言葉が漏れたその時だった。

 膝から崩れ落ちた鈴木が三浦に弱々しく、待った、の手を出していた。

 遂に、降伏した。

 それを見て直ぐ、小宇佐はリングから目を離した。


 誰も責めまい、あの少女の様な男が、これ程の使い手だとは。

 こんな変態試合に、あんなガチの闘技者を出すなんて。

 ちょっとした3流レスラーで、どうにかなる相手では無かったのだ。

 近藤はそう思いつつも、20億円を失った後の事に思考を伸ばし始めた。

 どーすっかなァ、と安物の煙を吐いた時だった。

 鈴木の崩れた膝が、ホンの少し持ち上げられて居る事に気が付いた。


 三浦は、弱々しく差し出された鈴木の掌を、慈愛の表情で見詰めてた。

 そして、そっと優しく両手で鈴木の右手を包み込んだ。

 まるで凍える恋人の手を、暖めるかの様に。


 ――ずっとこの時を、待ってた。


 そして次の瞬間、三浦は右手を鈴木の手首に添え、優しく包んでいた左手で鈴木の人差し指と中指を乱暴に掴むと、一気に引っぺ剥ひっぺがえした。

 三浦は、まるで邪魔な木の枝をぎ取るかの様に、鈴木の指を一気に圧し折ったのだ。

 みちっ、ぺきっ、ぱきっ。

 乱暴に握った三浦の拳から、そんな音が腕の肉を通して聞えた。

 邪悪な、嗜虐的サディスティックな微笑みが、三浦の顔に張り付いてた。


 ――やっと、止まってれたな。


 えっ、三浦は思わず声を上げた。

 指を折ってった左の手首が、鈴木の残った右手の指に握られてた。

 思わず未だ握って居る、鈴木の折れた指に視線をった。

 隙間から見える、赤紫色に変色した指が、滅茶苦茶に捻れてた。


 何をした?


 あっ、と三浦が再び声を発した時には、膝を付いてた筈の鈴木が、自分の脇の下にた。

 一瞬だけ、左手首に力を感じた瞬間に、だ。

 たった三本の指で支えた力で、だ。

 鈴木の身体から蒸気の様な汗と体の臭いが、香って来た。

 獣臭い、けど嫌いじゃない匂いだと、加速する視界の中で他人事の様に思った。


 逆様のリング。

 

 見上げるレフェリー。


 無重力。


 股間をキュッと締める感覚。

 莫迦、


 大きく口を空けた矢崎のマヌケ面。


 光に染まる視界。


 天井の照明?


 乱暴に振り回されている感覚。


 嗚呼ッ!


 ボスン、とマットに三浦の身体が落とされた。


 頭部と股間に緩やかな衝撃が走ると共に、その時三浦は絶頂してた。


 鈴木は嬌声を上げつつガクガクと腰を何度も跳ね上げながらダウンする三浦を横目に、鉄格子に背を預け座り込んだ。

 最早ナニをするエネルギーも残されて、ない。

 最後に出来できた事は、真面目に5年間繰り返し練習した、プロレスブレーンバスターだった。


 すまん、小宇佐。

 折角教えてれた格闘術だが、オレの力量じゃあ三浦アイツに届かなかった。

 だが、格闘術コイツのお陰で、最後の展開さいごまで行きつけたのだ。

 身体を起こす事位しか、出来る事は残されてなかった。

 最後に、寸勁の身体操作を用いて身体を起こした。

 少し浮かした膝を、腰から膝に架けての僅かな力で落とし、マットに沈めた。

 マットから返って来る反動を利用し、身体を撥ね起したのだ。

 そして、その勢いのまま、後は身体が勝手に三浦を放った。


 三浦なら、助けを求めるオレの手を握ってれると信じてた。

 三浦なら、きっと救いを求めるオレを絶望させようと、伸ばした右腕に残酷な仕打ちを仕掛けてれると、信じてた。

 指を握ってれてたお陰で、撥ね上がった自分の身体が三浦の下へ吸い込まれたのだ。

 小宇佐よ。

 三浦よ。

 心から、感謝する。


 レフェリーが三浦のショートタイツを剥くと、飛び出したから勢い良く、止め処無い精液が弾ける様に噴出し、辺りに撒き散らしてた。

 口に含むまでも無く、誰が見ても勝敗ぜっちょうは明らかだった。


 「絶頂確認フィニッシュアウト、赤ッッ!」


 大きな歓声が、リングを体育館を揺らした。


 何時の間にか、鈴木はリングの外にた。

 自分の力で立って歩いたのか、運び出されたのか記憶に無い。

 小宇佐が甲斐甲斐しくタオルで体に着いたローションを落としてれてた。

 ふと見ると、折れた指と腕に包帯が巻かれ、簡易的な処置が行われてた。

 左手にペットボトルの水を持ってた、中身はほぼ飲み尽くす所だ。

 どうやら、しばら此処ここでこうして居た


 「良くったな、親分も喜んでるぞ。」


 身体を拭いてれてた小宇佐が、意識を取り戻した鈴木に気が付いて労いの言葉を掛けた。

 嗚呼、と気の無い返事をしているところに怒号が聞こえて来た。


 「グズがッ、手前てめェのせいでオレ達一家は御仕舞おしまいだッ、どうしてれンだッ!」


 力無く立ち竦む三浦を、矢崎が罵りながらなぶり者にしてる姿があった。

 クズがッ、ゴミがッ、変態がッ!

 容赦無い言葉と暴力が浴びせられてた。

 大きく振り被った隙だらけの拳を、三浦は避けようとせず顔面に受けた。

 矢崎の革靴の先端が、三浦の綺麗な腹筋に突き刺さって居た。

 瞼が裂け、鼻が潰され、口の中も切ったのかダラリと血が漏れていた。

 おい、と声を掛ける小宇佐を無視し、鈴木は矢崎へと歩を進めた。


 「チクショウ、覚悟は出来できてンだろうなッ、手前てめェッ!」


 矢崎は、自分で何をしているのか理解してなかった。

 20億円の収入がる筈だった。

 自分が失うとはまるで考えていなかった。

 到底受け入れられる現実ではなかったのだ。

 夢だ、夢に、相違無い。

 だから、この悪夢の原因を排除しようとしたのだ。


 銃口が、立ち竦み震える三浦に向けられた。

 山田組の男達が取り押さえに押し寄せて来てたが、それよりも前にバアンと火薬の炸裂する音が響き渡った。

 その音が聞こえるよりも前に、三浦の体に衝撃が走った。


 気が付けば、三浦は誰かに押し倒されてた。

 そして、ドロリと体を伝う温かな感触。

 辺りを赤い血が濡らしてた。

 三浦の身体に重なってるのは、先程まで戦ってた鈴木だった。

 そして、自分の身体に銃弾が届いてない事に気が付いた。

 三浦は定まらない思考の中、どうして、とそんな言葉を吐いた。


 矢崎は、黒スーツの男達に制圧されてた。


 「矢崎よ、ってれたのぅ。」


 男達に抑え込まれた矢崎の下に、彼等の大親分である山田が姿を現した。

 その皺くちゃな手には、匕首やっぱが握られていた。


 「お、親分、違うんです、此れは何かの間違いで……。」


 山田は弁明を続ける矢崎の言葉を無視し、矢崎が掛けていたサングラスを優しく外してった。

 そして、大きく見開かれたその眼球に匕首やっぱが緩やかに突き入れられた。

 あっあああっあああああっ、瞼なんぞでソレを止める事は到底出来できず、野獣の様な叫びと取り押さえられながらもバタバタと暴れる音、そしてゴリっ、ゴリっ、ミシっ、ミシっ、と骨を割る音が名も知れぬ体育館に響き渡った。

 しばらくの間そんな音が響き渡る中、声が途絶え暴れる音が途絶え骨を割る音が途絶えた頃に、遂に根元まで刃が矢崎の頭の中に納まった。

 ビクビク、と何度か痙攣する矢崎から男達は手を離した。


 「片付けろ。」


 山田の冷たい号令と共に、矢崎一門は呆気なく最期を迎えたのだった。


 それから数日後。

 冬の夕暮れは紫色の空模様を描き出し、新年の期待と不安をかの様だ。

 シン日本プロレスのオフィスで相良と近藤は、辛気臭い顔を再び揃えていた。


 「ハア、右第2~3指と右手、アララ、腕も、左脚もイったのか、右の胸骨と肋骨の骨折。鼻骨損傷に、頭蓋骨骨折!?軽微な脳挫傷に加えて外傷性気胸、と。エッ、左肩に銃創ォ!?全治半年!?」


 相良は思わず手をピシャリと顔に当て、空を仰いだ。

 おェ、これ、どうやって誤魔化すンだ。

 ナニしたら、こんな重傷で帰ってくるんだ。


 「マア、その、何だ、オレも悪い事をしたと思ってるンだ、ウン。」


 流石の近藤も、気まずそうにしてた。

 だが、近藤としても変態バラエティマッチで真剣マジ格闘技をするなるヤツがあるか、と文句を言いたい部分もあった。

 まあ、相良に訴えても仕方ないし、山田の親分もあの試合が一番気に入ったと悦んだので、感謝さえすれど文句を言える訳が無いのだが。

 山田の協力もあり、鈴木はとある銀行を襲う悪党と大立ち回りをし負傷をした、とう事になった。

 後日、蟀谷こめかみを引くつかせたO府警の本部長から、感謝状を贈られる鈴木の顔は、とても苦々しそうだったのだが、それはまた別の話だ。


 年は一巡し、ある夏の夜である。

 蒸した空気の不快感と冷たい風の心地良さを感じながら、鈴木は人気の無いアパートの駐車場に自転車を止めた。

 リハビリを終え、ようやく練習を再開出来できるまで回復した。

 シン日本の道場だけでなく、時折小宇佐に教えて貰った例の地下ジムにも訪れてた。

 小宇佐の格闘術を、もっと理解したいと思ったのだ。

 もし、また三浦の様なヤツとり合う事がるなら、キチンと対応出来できる技術が欲しいと願ったのである。

 今まで視えなかった小宇佐の拳が、段々と視える様になり、少しづつ回避出来できる様になって来た。

 足捌きも上達し、フットワークも以前とは比べ物にならない位に軽くなった。

 連日遅くまで練習し、そして遊び回る日常が帰ってきたのだ。


 昨年の死闘で獲得した1億円だが、結局相良に預ける事となった。

 いきなりそんな大金、どうすンだ、税金で持って行かれるぞ。

 そんなこんなお金に纏わる話を延々と聞かされ、嫌気が差していると何時の間にか相良が丸ごと預かる、という事になって仕舞しまってた。

 だから、生活は変わらなかった。

 安アパートで暮らし、借金に消える給料。借金で生活し遊ぶ日々。

 順調に堕ちていく、自制の利かないクズの生活だった。


 駐車場と倉庫として使われている1Fフロアは、夜になると人影も無くなり子供達が残したであろう、壊れた玩具やコンクリートの柱に描かれた落書きが目に付く。

 そんな中、一つの落書きに目を奪われた。


 鳥籠の中で二人の男が向かい合う、拙い落書きだ。


 ――今晩は、今、良いかい?


 背後から声を掛けられた、女の声だった。

 鈴木はゆっくりと振り返ると、真っ赤な野球帽子に暗い赤色のジャージを着た美しい少女が立って居た。

 否、少女では無い、彼は。


 鋭い蹴りが鈴木の顔面に向けられた、目で捉え首を傾け咄嗟に回避する。

 以前とは違い、確りと視えた。


 「復讐リベンジに来たよ、相手してよ。」


 、そう言って彼は帽子を取った。

 零れた後ろ髪が夜風に靡き、満月に揺れてた。

 コロコロと何処ぞのチームの象徴である赤色の野球帽が、風に転がされていく。

 美しい少女の様な顔貌に、勝ち気な微笑みが浮かんでた。

 鈴木は言葉無くシャツを脱ぎ捨て、上半身裸になった。

 1年前よりも細く締まった肉体に、左肩の銃創が見える。


 鈴木は、腰を深く落とし両手を顔の前に出した。

 プロレスのスタイルと、格闘技の構えをミックスさせた物だ。


 「良いぜ、オレも丁度再戦そうしたいと思っていた所だった。」

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ムテキノ!イマジナリーフレンズ koro @koro_noumiso

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