被虐者の夢

 春といっても空気は未だ、バブルも弾け間もないこの国の経済の様に冷たい。穏やかな日差しがなければ、いっそ手を擦り合わせて暖を取る始末ではあるが、桜色に目眩く街路樹が、まるで今日はどういった日なのか語り掛ける様だ。


 高速道路の車両が忙しなく行き交う音が、低く遠く響く。穏やかな商業都市のベッドタウン区の早朝、市を分断する河川の堤防から見渡せば、大橋や光化学スモッグを生み出す工場群を背景に福祉施設や市営団地に囲まれた市立中学校が目に付く。

 その先には私立の高校や大学が並び、周辺の地価を暗示させる。学校といえば墓地の上に立つ等色々と曰くの付くものではあるが、かつてその場所には高射砲台がそびえ立って居たそうな。今となってはその跡地は大戦の気配をすっかりナリを潜め、今では未来の人材を育む揺篭ゆりかごを気取っている。

 4月も始まって間もなく、今はまだ人の気配がない町だが、やがて学生たちで溢れるのだ。


 ホームレス達が息を潜める区画公園のほとり、戦前からの一戸建てが立ち並ぶ一区画、中学生達に指定された通学路であるこの街路沿いには何の面白味もない塀が続き、歴史を感じさせる様々な家の在り様を覆い隠してしまっている。そんな味気ない景色が延々と続くのだが、そんな街路を一人の妙齢の婦人が散った桜色の花弁を箒で掃いていた。

 名を山根 麗子やまね れいこといい、愛する夫を見送り、朝の掃除をしている姿はとても甲斐甲斐かいがいしく。その風貌ふうぼうの良さもあり、それはとても美しい光景なのではあるが、その殊勝しゅしょうな心掛けとは裏腹に、中学校の入学式へ挑む童達こどもたちを眺めるのを何よりの至福とする、やや度し難い性癖せいへきの持ち主でもあった。

 いや、眺めて居るだけなら、まあそこまで問題は無いのだが、彼女の場合は機会があれば実食も辞さないという願望を持つ、歴とした性犯罪者ショタぐいでもあった。


 何年も続く日常ではあるが、喧騒けんそうの音色は毎年変わるもので、桜の花弁は毎年同じく鮮やかに彩るものなのだが、少年・少女達が奏でるそれは、経年と共に移ろい入替いれかわり立替たちかわり、一度として同じ音色は聴かれないものだ。とは彼女の弁である。

 夫の出勤を見送り、春の一幕に浸る女性は興奮とそんなイケナイ性癖せいへきをしている自責の念にその身を悶えさせた。


 一度として同じ音色は聴かれない、先ほどそうウタったが同じ命は二つとないという意味と相違そういなく、またそうであるならば、突然変異というものも現れるものなのだろう。

 いつもと同じ新鮮な音色に身をゆだねていた麗子だが、突如として現れた鋭い気配に身を縮みこませた。

 自然と一人の美丈夫に視線を奪われた。すらりと高く伸びた背は170を超え、新品の制服をまといながらもその引き締まった肉体を感じさせる胸板の隆起。


 戦慄した。

 なんだこれは。

 完成している。

 完成してはいるが、若い。

 質が違う。

 完成した肉体は酷使された傷みを孕んでいるものなのだ。

 隆起した筋肉とは、修復された肉なのだ。

 破壊された痕なのだ。

 しかし、その美丈夫はまるで違った。

 完成していながら、傷一つ感じさせない瑞々しさがあった。

 透き通り薄っすらと皮膚下の肉を感じさせる色合であった。

 制服の袖から覗く手首を見ただけで、白亜の彫刻が如き、神々しさがあった。


 ――ごくり。


 口内に溢れた喉を飲み込む音がした。

 今年の春は、かつてない狂想曲が奏でられそうだ。

 麗子は自らの下腹部が熱く燃え盛るのを止められなかった。


 中学校の校門前に一人、中学の制服を着ていなければ10人が10人とも小学生と見紛う、小柄であどけない顔立ちをした少年が佇んで居た。

 彼の名は阿部 陽介あべ ようすけ、その日は入学式を控え未知への期待と恐怖に胸が張り裂けそうなのを抑え、仲の良い友人を校門前で待って居たのだ。

 一人、自宅と学校の距離が近く同じ中学校へ通う事になった友人との、時間差が分からなかったからだ。

 教室へ先に入ってもいいのだが、一人は心細かったのだ。

 陽介の家庭は決して裕福とは言い難かった、それ自体は親からの愛情を受けて育てられた陽介は何の不満も感じてはいなかったが、両親は市立の中学へ通わせる事に思うことがあったようだ。周りに居た学友達の一部は塾に通い、受験し、別の区にある私立の中学へ進学した。どれも裕福な家庭にのみ許された挑戦だった。陽介自身は頭のデキが悪いという事は無かったので、受験を選択することが出来ないという事ではなかったが、中学へ通うのに家庭の経済を圧迫する必要を感じられず市立への進学を希望したのだったが、両親にとって陽介に家庭の経済状況を配慮はいりょさせた事に後ろ暗い感情を抱いたのだった。

 両親の言動から、これから通う中学校の風紀が、多少荒れているのだろう事は陽介も察していた。多少キツくはあるが私立を勧めたのは陽介の人格を考慮しての事だろう。暗黙の脅しを受けていたのだ、これから通う環境に対して、悪意はなかったが、結果として拭えない不安としてストレスを溜めて仕舞しまっていた。

 校門で待つこと自体が大いに心細い行為だったと気づいた時にはもう遅く、教室に行く決断も出来ず、同じ環境へ身をやつした友人が現れるのを、あちこちへ視線を漂わせつつ待って居た。

 そして、更なる深い後悔に沈むこととなった。


 「オイ、今オレの事をニラみやがったな、ああ?」


 おびすくみ上がった陽介の胸倉を、ずいっと年齢にしては大きな手が掴み上げた。

 震える陽介の小さな体が、地上よりホンの数センチではあるが、持ち上がった。

 小柄とはいえ男児一人を片腕で持ち上げるそれは、太い男であった。

 まん丸とは言わないが、各部に丸みを持つ男だった。

 顎、膨らみを帯び首と干渉した肉が潰れ丸みを帯びていた。

 腕、恐らく剛腕の持ち主に相違なく、筋肉とそれを包む脂肪で丸みを帯びていた。

 脚、発達した体躯を支えるべく太く短く成長を遂げ、ズボンの上からでもハムを思わせる丸みを帯びていた。

 腹、大きく突き出す事はないが、やはり腰辺りに肉の重みと厚みを感じさせる、丸みを帯びていた。

 声、凄みを利かせるべく酷く低音でガナリ掛かった発生ではあったが、意外な事に何処か愛嬌のある丸みを帯びていた。

 そんな丸い男は名を熊埜御堂くまのみどう 豊丸とよまると云い、今年3年生になる不良中の不良であった。

 丸みを帯びた顔が、ずいっとまるで陽介に口付けするかの如く寄せられた。

 額合わせ、である。二人は肌を重ね0距離でのコミュニケーションを行っているのだ。


 「ナニ見てやがったンだ、この男色ホモ野郎?」


 耳元で吐息がかかる距離で、豊丸は低い声で囁いた。

 陽介の背から股間に掛けて、かつて味わった事のない感覚が駆け抜けた。

 それは恐怖である、と陽介は主張するのだが、しかしながら事実として、なんとも言い表せない快感が走った。獣に蹂躙じゅうりんされる自分の様を想像した時、ゾクゾクとナニかを期待するいやらしい感覚が混じっていたのだ。


 「み、見ていません、ですから、許して、許してください。」


 陽介は涙を流し懇願した、少女とも少年とも付かない、性差の無い無垢むく顔貌かおが恐怖と絶望に歪んでいた。

 豊丸は心の底から湧き上がる、支配者としての快感に身を委ねていた。

 他者を踏みにじり、服従させる。

 人間が人間としての存在価値を心底堪能たんのうできる瞬間の味を豊丸は知ってしまっていたのだ。人間10年近くもコミュニティの中で生きると、加虐かぎゃく被虐ひぎゃく、支配と服従、その存在を嫌でも知る事となる。


 人間の肉体や心が男と女に分かれている事と同じくして、加虐者サディスト被虐者マゾヒストが存在しているのだ。男と女がいやらしい事をして快楽を得るのと同じくして、加虐者サディスト被虐者マゾヒストいやらしい事をして快楽を得るのだ。そういう仕組みで動いているのだ、この世の中とは。そして知識を持った人たちの考えた、道徳モラルだとか良識リテラシーだとか云うシステムが、その存在を曖昧あいまいにしたのだ。明確に線引きされていた、加虐者サディスト被虐者マゾヒストを分けへだてる部分に様々な要素を盛り込み隠してしまったのだ。そうした方が彼等にとって都合がいいに決まっていた。明確な線引きがあれば、ある切欠でその加虐かぎゃく被虐ひぎゃくの立場が入れ替わる恐れがあるからだ。古今東西、立場とは入れ替わる恐れをはらんでいるものだと歴史が裏付けている。そうだから曖昧あいまい不明瞭ふめいりょうな線引きにしてしまい、否、その線引きさえ存在しないとうそぶき続け、哀れな被虐者マゾヒスト達を一生その線の向こう側の立場で飼い殺しにしようと考えたからだ。入れ替わる思考に至らぬ様に、だ。


 だが、学校といった特殊な閉鎖された世界において、そのシステムは機能しなくなる。何故ならそれは優秀な管理者が、先導者が、常にシステムの修復を行い続けることで初めて発揮される効果だからだ。学校と行った半固定された無能の集団で維持され続ける世界において、そのシステムは余りにも稚拙ちせつで、不安定で、矛盾むじゅんしたものと成り下がり、この加虐かぎゃく被虐ひぎゃくの立場が、線引きが、明確に表れてしまっているのだ。


 この豊丸という少年は、女体セックスの味を知る前に加虐かぎゃくの味を知り染めたのだ。

 そして、この豊丸という少年がデキの悪い不良であるという別の立場・側面とも言えるものがその加虐かぎゃくの味を存分に五体に浸み込ませてしまっているのだ。


 そう、彼は被虐ひぎゃく側なのだ、れっきとした。

 デキが悪く、素行も悪く、風貌も悪い者はこの閉鎖された世界でしか輝けなかったのだ。

 進学は絶望的だ、担任の教師は言い放ち就職活動を薦められた。

 よくんでいた仲間達は、推薦での進学を志し、豊丸を捨て、教師たちに尾を振った。

 孤独になったのだ、土壇場どたんばになって、しかしそれはある種で諦めなかったのだ、自分が自分であり続ける事を。

 表現し続けたのだ、デキが悪く、素行も悪く、風貌も悪い、熊埜御堂 豊丸の豊丸たる所以ゆえんを。

 その結果突きつけられた現実が、やがて来る卒業後の空白であった。

 当然、就職も絶望的であった。

 教師としても、この豊丸をマトモな企業が相手をしないであろう事は承知している。

 昨年の三者面談の際、既にその事実を突き付けられていた。


 豊丸に勧められた就職先は、町の小さな工場だった。

 親父に連れられて、一度見学に行ったことがあった。

 生気のない枯れた大人達が黙々と機械の上を流れる部品を扱っていた。

 なんだ、これなら俺にもできるじゃないか。

 豊丸は自分のデキの悪さを自覚していた、複雑な工程が必要な作業が自分に出来るか心配していたのだ。

 少し安心し、その作業の様子を眺めていた、がある事に気が付いてしまった。


 ある者は指が無かった。

 ある者は足の代わりに杖の様な物が体を支えていた。

 ある者は腕が途中からなくなっていた。

 豊丸はデキこそ悪かったが、空気を読めない訳ではなかった。

 この一見退屈で単純な作業は、かなり危うい場所で行われていたのだ。

 一切の人としての思考を放棄させるこの職場では、油断すれば体の一部が失われる危険をはらんでいるのだ。

 ただただ動く機械の類が、途端に恐ろしい殺人の為の道具に見え始めた。

 あの目的の部品を流すベルトコンベアは指を詰めるシュレッダーなのだ。

 あの型を押し付けるプレス機は腕を潰す機械なのだ。

 大きな機械を持ち上げ、その下に潜り込み作業をしている人を見ると、その支えているものが外れ上半身を潰される様を想像してしまった。

 ワラワラと作業をしていた人たちが集まり、機械を持ち上げ潰れた人物を引き摺り出した。

 その人物の顔は、まるで豊丸そのものであった。

 それが、お前の未来なのだ。

 そう告げられている気分になった。

 あまりにも悪意のある想像と判断ではあるが、デキが悪く何よりまだまだ幼い豊丸に、そんな大人の判断は不可能であった。


 豊丸は翌朝、職員室で担任に泣きついた。

 心を入れ替えます、今からでも勉強をします、きっと成績を上げます。

 ですから、もっと良い職場か、進学の道を示してくれませんか、と。


 幾つかの工場を紹介されたが、一度恐怖を覚えた豊丸はその先々の職場の危険性を直ぐに見抜いた、というよりは被害妄想に溺れたといった方が的確ではあるのだが。

 豊丸は教師たちに、世間に、被虐ひぎゃく側へ押し込まれて仕舞しまっていたのだ。

 そして加虐かぎゃく側の人間は、被虐ひぎゃく側の人間が線引きを超えることを決して許さない。

 教師たちは、豊丸のデキの悪さ、素行の悪さ、風貌の悪さを知っていた。

 豊丸がどこの学校から来たか、知られたく無いのだ。

 豊丸の希望は叶えられることは無かった。

 そして、きっと叶えられる未来は無い、と気が付いたのだった。


 被虐ひぎゃくの人間が味わう加虐かぎゃくの快楽は、密度が違った。

 被虐ひぎゃくの味を知らぬものは、加虐かぎゃくの深い味わいが理解できぬのだ。

 その点、豊丸は濃くて深い味わいを、快楽を理解っていた。


 豊丸は陽介を人目のつき辛い体育館裏へ引摺ひきずって行うとしていた。

 この閉鎖された世界がどれだけ腐っているかも知っている。

 事故や事件の報道を嫌い、内部処理しょうこいんめつに徹する事はこの学校の過去が証明している。


 死なない限り、何をやってもいい。

 揉消されるのだ。

 誰が、どんなに泣き叫ぼうとも、救いの手など差し伸べないのだ。

 それが、どんなに簡単で安易なことであっても、ここの人間にはきっと救う方法が思いつけないのだ。


 豊丸は陽介の人生がどん底まで沈む様を見てやろうと決めた。

 彼は被虐者マゾヒストがどう苛められればたまらないのか、知っているのだ。

 登校初日から、裸で校舎を歩かせてやろうか。

 恐怖と羞恥しゅうちで、あらゆる部位を勃起ぼっきするかも知れん。

 トンだ変態が誕生するだろう、きっとこの学校に安息できる場所なんてなくなるぞ。


 陽介は助けを求め周りを見渡したが、誰もが顔を伏せ、或いは顔を背け、二人が居ないかの様に振る舞い校舎へ消えていった。

 巻き込まれたくないのだ、誰しもが。

 この様な恐ろしい人間に、体験に、近づくのも汚らわしいのだ。

 恐らく何人かは良心の呵責に耐え切れず、教師に報告を行うであろう。

 だが、多くの人はそれさえも行わず、何も無かったかのように始業式へ向かうのだ。

 或いは教師へ報告している人間に便乗し、凶行を告発し、自分はまるで清廉潔白かの様に振舞うのだ。

 見捨てた癖に、間に割って入るくらいワケがないのに、このオレでさえ、2人や3人も相手にできるものか。結局オレに顔を覚えられるリスクより、コイツ一人が地獄に落ちるメリットを選んだのだ。

 果たしてこの忙しい朝一番に、どれだけの生徒がコイツ一人の為に動き教師が動くというのだろう。

 豊丸は下らない世界の在り方を、人の在り方を知っているのだ。


 「陽介、探したぞ。」


 深い声が豊丸の耳に届くと同時に、陽介の服をこうと学ランの襟を強引に開こうとした豊丸の片腕が、彫刻の様に深く繊細な腕に掴まれ阻まれた。

 その余りの力強さに、思わず握られている腕の指が開いた。


 ――振解ふりほどけない。


 豊丸が驚き振り向くと、そこには信じられない美丈夫がた。

 完成された人間だった。

 完成されていて何処か未成熟な危険な色気があった。

 それを例えるなら男でありながら女と見紛みまごう、美麗びれいさに近しい。

 完成されていながら未完成な幼さを纏っているのだ。

 豊丸は頭の中が真っ白になっていた。


 だれだ? ――新入生だ。

 おとな? ――新入生だ。

 なんで? ――新入生だ。


 「何だ、お前は……?」


 豊丸はこの一瞬でカラカラになった喉からようやくの思いで声を絞り出した。

 擦れてはいたが、ナチュラルな声音に近かった。

 心地の良い、何処か愛嬌のある、丸い声だった。


 「しょ、正一君!」


 陽介は豊丸の拘束から逃れ、正一と呼んだ美丈夫の後ろに隠れた。

 豊丸の頭の中で先程浮かんだ疑問がリフレインし続けていた。


 なんで? ――新入生だからだ。

 なんで? ――お前の仲間の様に自己利益に走らないのだ。

 なんで? ――コイツの為に働くことに疑問も損得もないのだ。

 なんで? ――それがこの新入生の新入生たる所以だからだ。


 まだ、体育館裏には到達できていなかった。

 教師達が駆けつけて来る頃には、陽介を全裸に剥いてしまい、既に手遅れという状態にしたかった為、段階を早めてしまったのだ。

 遠くからまだ登校してきた新入生たちが校舎に入らず此方こちらを眺めていた。


 場が虐めの場から、闘争の場に移ろいでいた。


 人とは虐めは見て見ぬふりをするが、闘争となるとらぬ好奇心が集まるものなのだ。


 まずい。 ――腕力差で負けている。

 まずい。 ――体格差で負けている。

 まずい。 ――人間性で負けている。

 まずい。 ――雰囲気で負けている。

 まずい。 ――新入生に負けている。


 人は雰囲気に従うものなのだ。

 豊丸がこうして不良していられるのも、豊丸が怖くて強そうだからだ。

 如何に体躯たいくが大きかろうが、不意に蹴りの一つでも貰えば崩れてしまう。

 首を絞められれば、噛みつかれれば、股間や頭といった急所を打たれれば、対処できるレベルの相手なのだ。刃物で刺せば容易に絶命さえあり得る。

 マア、其処そこまでせずとも、命を絶たずとも、王手を掛けられる相手なのだ、りようによっては。

 何時でも殺傷できる相手を、ある種、弱いともとれる相手を恐れるのは、馬鹿らしいが、なのだ。

 何となく、その手段やリスクが取れないのだ、恐ろしいから、豊丸の雰囲気に呑まれ逆に自分が王手を取られている気になってしまうのだ。


 いつでも裏返る危うげな盤面なのだ、この程度の狭い世界での強い個人というものは、いつだって何となくその王手が取れないのだ、人は。

 自分を動かすほどのイメージが出来ないのだ、豊丸を倒す想像はできても、体を突き動かすイメージが必要なのだ。

 ここで豊丸がこの新入生に屈した場合、それを見た、知り得た者たちは、まるで我が事のように豊丸の敗北をよろこび、格下と格付けするだろう。

 イメージが出来上がるのだ、豊丸が倒される。


 喪失してうしなってしまうからだ、王者の雰囲気を。

 変質してかわってしまうからだ、負け犬の雰囲気に。


 許されるわけがなかった。

 豊丸の腸はグラグラと煮えたぎっていた。


 やるか? ――やるしかない。

 やれるか? ――やるしかない。


 不良をやっている間に、度胸だけはついた。

 未知と戦う勇気だけはあった。

 このスカしたオカマ野郎を黙らせる為の第一歩を踏み出すのだ。

 掴まれた腕は未だに振解ふりほどけなかったが、問題無い。

 空いた左腕で殴り掛かるだけだ、喧嘩慣れしていない人間は顔面を殴ってやれば良い。

 それだけで戦意を喪失する。


 ――今だ!


 豊丸が不意に力むのを止め、掴まれている腕が重力に引かれるのを感じ取ると同時に、垂らしていた左腕を思いっきり振った、心算つもりだった。

 腹の下に正一が潜り込んだかと思いきや、体が浮かび上がり、強かに背を打ち付けた。


 青い空が見えた。

 皮肉なほど、青い空だった。

 一瞬、息ができなかった。

 高い背の美丈夫が、心配そうに己を見下ろしていた。


 この美丈夫、名を佐竹 正一と云い生まれつき、男子であった。

 何をしても優れた能力を発揮して見せた。

 何処へ行っても断トツだった。


 運動をさせても、直ぐにトレーナー達を呆れ返させてしまった。

 完璧だ、もう出来ている、何を教えろというのだ、と。

 武術をさせても、直ぐに大人達顔負けの練度に到達してしまった。

 完璧だ、もう出来ている、何を教えろというのだ、と。

 指導するべき立場の者達は、一通り技術を教えたら、最早見守る事しか遣れる事が無かった。


 そして、その天才性に尊厳を踏み躙られ、去っていくのだ。

 そして、この天才は己の在り方に気が付き、納得したのだ。


 この正一という美丈夫は、生まれながらの、悪意の無い加虐者サディストだったのだ。


 正一にとって、友人に絡む不良を排する事など、どうって事ないのだ。

 相手の体を見て、倒し方、排し方がイメージできてしまうのだ。

 その通りに動くだけで、当然の結果が返ってくるだけなのだ。

 何時もの様に、何の変りもなく。


 未だに起き上がる事のできない豊丸は、その事を今の一瞬で、骨の髄まで、それこそ痛い程に思い知ってしまった。

 理解ワカらせられた。

 何と云う事だ、オレは犯されて仕舞った。

 全てを奪われた。

 奪う側から奪われる側へ、加虐かぎゃく側から被虐ひぎゃく側へ、立場を追いやられて仕舞しまった。

 尊厳が奪われた。

 豊丸は、涙が止まらなかった。


 こんなに泣いたのはいつ以来だ? ――担任の教師に頭を下げた時だ。

 こんなに悔しいのはいつ以来だ? ――担任の教師に頭を下げた時だ。

 こんなに惨めなのはいつ以来だ? ――担任の教師に頭を下げた時だ。


 豊丸は倒れたまま、大声で泣き始めた。

 人目もはばからず、わんわんと大声をあげて泣き喚いた。

 陽介はどうしたものかと、正一の背から顔を出し、辺りを見渡した。

 遠巻きに眺めていた野次馬達は、この哀れな豊丸の姿に満足し、いつの間にか消えていた。

 これだけの騒ぎになったのにも関わらず、この場を治めに教師たちが現れない事に不信感を抱いた。


 豊丸は泣きながら、心の底に溜り続けた不安を打巻ブチマき始めた。

 オレは将来、指を落とすのだと、腕を落とすのだと、脚を失くすのだと。

 陽介は、それこそ豊丸の気が違ったのでは無いかしらん、と不安になったがよくよく聞いているとそれは卒業後の就職の不安なのだと合点がいった。


 これが、被虐者マゾヒストの現実なのだ。

 安定した未来を欲する、我儘わがままなのだ。

 自分で至れなかった見果てぬ夢を見る、そんな被虐者マゾヒストの夢なのだ。


 陽介は不意に自分の父親が、かつて中々のアウトロー気質だった過去を話して居た事を思い出した。

 バブル経済成長期真只中、働けば働く程、面白い程、金が湧いて出た時代。

 陽介の父親はその昔、学校を中退し家を飛び出したそうだ。

 日雇いの肉体労働に励み、その日の内に酒に女に日当を使い尽くす、それは荒れた生活を送っていた。

 良い大学へ入れたいという親心か、望まぬ勉学を強制された反動で、この様な荒れた青春になったらしい。

 しかし、同じ世界で生きた仲間の一人が薬漬けの廃人に成果て、路上で狂い死にする様を見届けた後、このままじゃイカンと思い立ち、この地獄から抜け出す事を決めた。それからは、これまで使い尽くしていた日当を溜め込む様に成った。日雇いの肉体労働ではなく、何処か腰を据えて働ける場所を探した。その甲斐があってか、これまでやってきた肉体労働ではないが、嫌々勉強した教養が功を制したか否か、小さな販売会社へ就職できた。その後、陽介の母となる女性との出会いもあり、真っ当な、一角ひとかどの男に成れたのだと語った。


 豊丸はいつの間にか嗚咽おえつを止め、小さな声で語る陽介の話に聞き入っていた。

 陽介の語った父の話自体は、正直参考になる内容とは思えなかった。

 だが、一つ豊丸には無い発想があった。

 これまで豊丸は、何だかんだ学校の力をアテにしていた。

 学校の紹介を伝え手に、就職をしようと思考を固めてしまっていた。

 陽介の父親には、それがなかった。

 己の決定で、己の手で、生きる道を、それは大きな成功を得る道ではなかったかもしれないが、切り開いて生きたのだ。

 道がひらけた、とはこの事かと豊丸は感動で震えた。

 オレも、自分の力を信じて動けば良いのだ。

 学校の成績の為ではなく、自分の将来の為に、勉強すれば良いのだ。

 恐らく今のオレでは、単純作業しかできないだろう、肉体労働しかできないだろう。

 だが、何故一生それだけだと思い込んでいたのだ。


 探せば良いのだ、自分の出来る事を、誰かをアテにするのではなく、自分の力で。

 増せば良いのだ、自分に出来る事を、誰かをアテにするのではなく、自分の力で。


 豊丸は泣いた、今度は悔しさでも、悲しさでもなく、唯々泣いた。

 正一も泣いていた。

 陽介は、正一が何故泣いているのか全く理解できなかった。

 意外と情に脆い性格だったのかしらん。

 豊丸は立ち上がり、空を見上げた。

 相変わらず青い空だったが、それはまだ4月も始まった頃を感じさせる青い空だった。


 豊丸は陽介に礼を言った。

 それは、不良生活との決別だった。

 オレはわらわれるだろう、だがわらわれて当然なのだ、これまでの行いから。

 受け入れるしかない、そしてオレすらもわらってやろう。

 オレだけが知っているのだ、れ迄の豊丸は既に過去であると。

 今、オレは一人で立ち上がり、歩き出したのだと。

 歩き去る豊丸に、陽介から待って、と声がかかった。

 優し気な微笑みを浮かべた陽介は、言い知れぬ色気があった。


 ボク、服かれそうになったよね? ――ハイ、仰る通りです。

 コレ、許されることではないよね? ――ハイ、仰る通りです。


 小さな女子と見紛うばかりの小柄な男児が、大柄な少年を絞っていた。

 的確に、ホンの少しの反論も許さない、追及であった。


 ホラ、脱げよ。 ――ハイ、申し訳ございませんでした。


 その様は、真と見事な、加虐者サディストであった。


 正一は未だ泣いていた。

 豊丸とは違い、涙が止まらなかった。

 コレ、オレの話じゃなかったのか、と青空に問うた。

 それは、立場を奪われた者の問い掛けだった。

 その様は、真と見事な、被虐者マゾヒストであった。


 人知れず、麗子も泣いていた。

 私の描写、ナンの意味があったのよ、と。

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