若妻達の吐息

 バブルの好景気もすっかりと陰り、経済成長率も国内総生産もアジアの首位を奪われ、先進国として斜陽の時期を迎えた頃。そんな社会を覆う暗い影の事なんぞ、何処吹く風の如し。今日という今日を生きる世間の人々には、まるで関係無く。数年後に訪れる審判の日リーマンショックてきなに向けての備えよりも、今日の夕餉の支度に右往左往するのが現実である。


 大型商業施設による、商店街の大量虐殺シャッターがいが叫ばれるご時世において、まだまだこの商人の町が誇る、S商店街は活気が在るもので。雨もすっかりあがり15時を廻った頃、青果店や精肉店はワイワイと賑やかに、家庭の経済を握る大蔵省のお偉いおかあさま方を相手に、小さな店の小さな店主が、それはもう小さな小さな貿易に挑む光景が繰広げられていた。


 そんな商店街からやや裕福な家庭に向けた集合住宅地マンションへ臨む街道には、珍しく人通りが少なく。買い物帰りと思わしき3人の若奥様達が、ぺちゃくちゃとお互いの国政についての意見を交すべく、G3サミットいどばたかいぎを開いていた。


 背が高く、恐らくはこのG3に置いて一番の存在感を示す奥様は、今年30を迎える、富田 幸恵とみた さちえと云う。ややとした体格と草臥くたびれた皮膚の具合ぐあいで、子育てや夫の世話に費やされた情熱の熱量を物語るが、それでもまだまだ美しい顔と体の均整きんせいは崩れていない、歴戦の若奥様だ。


 「ここ最近、魚ばかりか野菜まで高くなって来ちゃって。だから最近流行はやりの、韓流ハンリュウって云うのかしら。そちらのキネマを観に行く余裕も無くなっちゃって。彼方アチラのナントカって云う俳優さんは、観ていて落ち着くでしょう。嗚呼、氷のカンタータ、観てみたいワア。」


 うっとりとした姿で、そのナントカと云う俳優を夢想しているのだろうか。両手に持った大荷物の重量を無いかの如く、両頬に当ててイヤイヤと腰をクネらせた。


 「マア、マア。ワタクシも是非とも拝見して見たいものですワネ。ワタクシも映画館に行く暇は取れないカシラ。ビデオテープのレンタルまで、お預けですワネ。そう言えばご存じカシラ、あの例のビデオショップの店長サン、そう、あのイケメンの、アッチのビルにお住いの後藤サン、あの後藤サンの奥様とデキてるらしいワ。コレ、斎藤さんの奥様が仰られてたンですけれどもね。モウ、イヤらしいワア。」


 コロコロとした声で幸子の話を引き継ぐ奥様は、若い頃はさぞロリっとして可愛らしかったであろう、背が低く、丸い顔をした奥様だった。今では丸くなってきて仕舞しまってはいるが、その話は野暮ヤボであろう。明るい表情と声色が、かつての魅力を今も尚色褪せる事なく感じさせてれる。名を佐藤 花子さいとう はなこと云い、まだ30に届かぬ27とか8の年端としはの若奥様であった。


 物価の話題から流行のキネマの話題に飛び、ビデオショップのイケメン店長の噂話に飛び、会話のジャグリングを楽しむ幸恵と花子の後ろを、優し気な微笑みを携え時折、マア、だとか、ソウ、だとか、アラ、等と相槌あいづちを挟む奥様は、名を加山 鍛冶子かやま かじこと良い、まだまだ23歳ではあるが結婚5年目と云う。そして、目を引くのはその美貌であった。まだまだ若い年齢ではあるが、それでも容姿が若く見得みえる。まだ10代の学生と言われても素直に信じる程である。水を弾く瑞々しい肌のが、輝いて見えた。そして、その体躯たいくが、まるで芸術を極めた彫刻家が、己の性癖と性欲を込めて掘り起こしたとも錯覚する程、せ返るようななまめかしさを持ち合わせていた。並の男が手に届く女では無い、とオーラが感じさせていた。もう3つになる幼児を持つ、若奥様であった。


 この3人は、子を預ける保育園を通じて知り合った。鍛冶子は他人からすると、退く程の魅力を携えていたが、同じ集合住宅で暮らす事と、子供同士がやんちゃにたわむれていた事が合わさり、自然と仲良く事が増えたのだった。


 「そう言えば、鍛冶子サン。この前アナタのご主人と擦違すれちがったので、ご挨拶したのよ。初めてお会いしましたワ。その、多分、アナタのご主人で合っていると思うのだけれど、朝にアナタのお家から出て来たから。違っていたら、ごめんなさいね。」


 鍛冶子は、イエイエ、れは家の夫に相違そういありませんわ。と微笑んだ。


 「ウチの旦那ったら、本当に困ったものですわ。聞いて下さる。お風呂に入る時にお洋服を洗濯機に入れてれるンですけれども、あの人ったら黒のトレーナーまで一緒に入れちゃって。子供のお洋服に色が移っちゃいましたワ。別にけて置いて頂戴ちょうだいとお願いしているのに、困ったものですワ。」


 オホホホホ、と幸子が笑った。


 「アラアラ、マアマア。でも、幸子さんのご主人って、いつお会いしても格好良いわア。シュっとしてて、背も高くて。お顔も甘いマスクしてますでしょう。羨ましいわア。」


 花子は微塵みじんも幸子の語った問題について、ついぞ触れる事はなかったが、幸子はその回答に満足したのか、満更まんざらでも無い微笑みを浮かべた。


 「そう言えば、鍛冶子さんの旦那様ってどんな方なのカシラ。幸子サン、お会いしたのでしょう。教えて下さいな。」


 花子はイケメンを見るのが大好きだった。これ程の美貌びぼうを誇る鍛冶子の事だ、きっとンでも無く恰好良い旦那様が居る筈だ。日頃、少し気後れしてしまって鍛冶子の深い部分に踏み込んだ事が無かったが、幸子がってれたのだ。知られざる、そして途轍とてつもなく期待の出来る、鍛冶子の旦那様の風貌を知るチャンスが訪れたのだ。


 そうねェ。と言って幸子は鍛冶子をチラリと伺った。特に困っている様な様子も無さそうだったので、幸子はこれなら話に出しても構わないか、と判断した。


 「何ていうか、その、気を悪くしないで頂戴ちょうだいね。どう言えば良いのか。鍛冶子サン、アナタはこんなにお綺麗なのに、何ていうか、方ですわね。こう、背も低くて、中肉って言うのかしらん。」


 花子はガッカリとした、見た事も無い様なイケメンが登場するかと思ったのに、トンだ番狂わせだと思った。それと同時に別の好奇心が湧いて来た。何故、この様な恐らく世界に10人と居ない程の美貌びぼうを携える女性が、男性を選んだのだ、と。人は己の遺伝子いでんしに欠けており、必要としている遺伝子いでんしを無意識に選別せんべつするのだと、何時いつぞやに見たテレビ番組で云っていた事を思い出した。それなのかしらん。それとも、この女性の周りには、きっと美男美女しか居らず、美しい物があまりにも退屈な存在にって仕舞しまっていたのかも知れない。花子は、鍛冶子に話をさせろや、良いパスを出せよ、と幸子に鋭い視線を向けた。

 そんな視線を受けてか、幸子はやや尻込みしながらも更に話を続けた。


 「えっと、その、どうしてアナタの様に美しい方が、あの旦那様を選んだのかしら。気を悪くしないで欲しいのだけれど。もっと、何というか、華やかな方からもお誘いが在ったのでは無いかしら。」


 鍛冶子は決して気を悪くするのでは無く、嗚呼ああ、ナルホド、そうう事かと得心とくしんが行った。そして、愛する夫をどう弁護しようか考えた。エーと、と綺麗な声が鍛冶子の口から漏れ出た。幸子も満更では無くその回答を待っていた。


 「ウチの夫は、確かに皆様の旦那様程、格好良くありませんわ。収入も少ないですし。でもォ」


 花子と幸子は耳を何時もの5倍程して、回答を待っていた。その大きさは、期待値の表れか、下心の大きさの表れか。


 「ウチの夫は、それはもう、セックスが凄いのですわ。セックスだけは、本当にモウ、エグくてエグくて。」


 それはもう、と最後に付け足した。


 それから先の帰路は、終始無言であった。

 幸子と花子はその帰り道、何となく空を見上げていた。

 青い空が何処までも続いている。

 この空の下に、どれ程の苦悩と悲しみが存在して居るのだろうかと、思いを馳せた。

 それを想うと、心が締め付けられる思いであった。

 よし、明日もガンバロウと、自分に言い聞かせたのだった。


 そして、鍛冶子も同じ空を見上げていた。

 青い空が何処までも続いている。

 この空の下で、どれ程のセックスが溢れて居るのだろうかと、知っていた。

 それを想うと、心が締め付けられる思いであった。


 本当に、取るに足らない。

 児戯じぎにも等しい、セックスが。


 そんな三人の若妻達を、水溜りに潜むアマガエルが見送っていた。

 尚、その夜三人の奥様方はそれぞれ旦那と、めちゃくちゃセックスした。

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