ムテキノ!イマジナリーフレンズ

koro

隷属

 世は正にバブル経済成長期真っ只中、日々異様な程に高沸こうふつする日本の資産は狂気を極めており。世間の様相といえば、数年後に訪れる薄ら暗い終末的カタストロフィな未来を、ホンのわずかにも感じさせない程に、いた。


 しかしながら、光あれば影ありと云う通りに、世の中の雰囲気とは正反対に、何処までも重く鉛の様に鈍い側面も存在していた。かつて世間を賑わせた正日本プロレスより、世間を賑せる事件を起こし分裂した団体、シン日本プロレスのある控室の一部屋は、異様な程まで暗い雰囲気に呑まれて仕舞しまっていた。


 代表取締役でありながら現役のレスラーでもある、フセイン相良さがらは額から血を流し、正に今、凄惨な試合を終えた後かの様に見えるが、彼の試合は数試合先、最後のメーンイベントの筈であった。四つん這いにうずくまる相良の腹部に容赦の無い、革靴での蹴りが突き刺さった。げっ、と相良の口から呻き声が零れた。相良は控室にありながら複数の大男達に、執拗しつように暴行されている所であった。190㎝/100kgの体格を誇る相良だが、その相良をまるでボールかの様に蹴り転がす大男達もなかなかどうして、それ程ではないが大きな身体をしている。相良は理不尽な暴力にさらされながらも決して反撃しようとはせずに、身を丸めダメージを最小限に留める事に努めている様に見えた。


 そんな暴行現場に一人、ソファーに身を委ねまるで他人事の様に冷たい目で成り行きを眺めるスーツ姿の男が居た。ブランドのブラックスーツに身を包み、高級な腕時計を巻く腕で、その雰囲気には不釣り合いな市販の銘柄の煙草を味わいながら、鳴りやまぬ肉を蹴る鈍い音や、ぐっ、と漏れるくぐもった悲鳴を楽しんでいた。相良に暴行する男達はそんな男の様子をうかがいつつ、淡々と、されど情熱を込めて暴行する。彼等は義務があるのだ、このスーツの男をたのしませねばら無いのだ。ボケぇ、カスぅ、そんな掛け声と共に容赦の無い蹴りが相良の身を穿うがつ。


 「相良さん、ホントい加減にしたらどうや?」


 相良を蹴る男達の息が上がりだした頃合いで、ようやくスーツの男が声を発した。年端としはは40の手前、名を近藤 史郎こんどう しろうと云い、爬虫類を思わす顔貌かおで、酒と煙草に焼かれたハスキーボイスをしていた。


 「借りた金は返さんとな、アカンやろ。」


 相良は幾つもの貸金業者から借金をしていた、少し前にボクシングのレジェンド選手を多額のファイトマネーを積上げ、ようやくの思いでマッチメイクを行った。今後の自分の展望やシン日本プロレスの行く末を想えば、避けては通れない道だった。世間や評論家は見当外れな評価を下していたが、その評価も折り込み済みだ。

 プロレスこそが最強とうそぶき、世間の目を集める事が重要なのだ。様々な異種格闘技戦ミクスドマッチを行う事が大事なのだ。遠い未来で、様々な格闘技が邂逅かいこうする未来を予見していた相良は、我先にと異種格闘技戦ミクスドマッチを行っていたのだ。自分の名前を格闘技の歴史に刻む為に。プロレスラーがその未来で生き残って行く為に。精々あおってやらねばらぬのだ。


 しかし、どんなに高い志があり、どんなに崇高な理想があろうとも、金の前には何の意味も持たなかった。むしろ思ったより悪い方に転がりつつあった。ちょっと客と相良の思考がズレ過ぎたのか、ここ最近では客の入りが悪くなった。

 また、個人的な事業がどうにも良くない。シン日本プロレスとして借入れたお金をそっちに流用してしまったが、それでも良くない。安く買い叩いたブラジルの農場で行っている事業が、ウンともスンとも云わない。本当はもう返済している予定だったのだ。個人的な事業の売り上げを、シン日本プロレスに返す心算つもりだったのだが、心底どうにも


 「た、頼む、この興行が終わるまで待ってくれ、ここの売り上げだけじゃあなく、別でオレがっている事業があるンだ、そっちが完成すれば直ぐに支払えるようになる筈だ。もう少しだけ、もう少しだけ待ってくれよ。」


 相良は弱々しくそう懇願こんがんすると、控室の白いフロアタイルに、綺麗にワックスが掛けられたツルツルの床に、血の混じった痰を吐いた。近藤は相良のその姿に、言様の無い興奮を覚えた。近藤は結構な格闘技のマニヤであった。否、どちらかと言えば、強い者が敗北する姿や追詰められる姿に興奮する、サディストの変態なのだ。

 だから、格闘技の道場や興行を優先に融資していた。キチンと返済できればよし、出来なければ額に応じて代償を受け取る。例えば貴重な試合でのVIP席の譲渡、例えばプライベートでの組の若い者達への指導、例えば秘密裏に行われる賭け試合への出場、例えばでのへの出場、等々だ。


 「そうは言ってもなア、何故払えないのか不思議っちゅうか、不自然っちゅうか、アンタの周り、結構金回りが良えじゃあないか。テレビの仕事も、さぞ金払いは良えやろうに。しかし、マア、マア、そうやな、返せないならわな。」


 近藤は立ち上がり、蹲る相良の髪を掴み上げ顔を上げさせた。近藤は鋭い目付きで相良の瞳を覗き込んだ。相良はまるでその視線が自分の脳みその奥を覗いているんじゃ無いかと想像した。

 それ程までに冷たく、それでいて知性的な観察をする視線だった。


 「ウン、分かった。挑戦し続けるアンタに感化されたンかも知れへんな。オレも、ちょっとだけ挑戦してみる事にするわ。オレがアンタに協力したる。その代わりに、アンタはオレに協力するんや。それで、マア、借金の減額は出来へんけども、期限を延ばしたるのと、その間の金利は外したるわ。その結果がかろうが悪かろうが、な。その代わり、ちゃんと協力するンや。オレ等がい様に。儲かる様に、や。」


 分かるやろ、近藤はそう付け加えると掴んでいた相良の髪を離した。ダン、と相良の頭が重力に引かれ、床のタイルに打ち付けられる。

 ぼんやりとした相良は近藤が何を言っているのか一瞬理解できなかった、助かったと思ったと同時に、若しかしてとってもマズい事になったかしらん、と嫌な予感が沸々と腹の中で渦巻くのだった。


 その日のO市営体育館は、雨の中でもプロレス観戦に訪れた人々の熱気にアテられ、モワモワと蒸気を発していた。先日の山賊男が試合に乱入するというアングルの失敗の影響か、客席は疎らに空席が見えるのだが。一方で、興行側とすればその失敗を取り返そうと無茶に熱気を煽り、普通であればテレビを入れないような興行なのだが中継を入れ、実況と解説も用意するという熱の入れようだ。

 マア、思いのほか、空席が多く出そうだった為、実況席を設ける事でその分のスペースを埋める側面もあった様だが。


 新人同士の第1試合が恙無つつがなく終わり、簡単なリングの清掃を終えての第2試合がこれから始まろうとしていた、まだ無名の選手二人ではあるが、だからと言って試合が面白く無い訳がない。否、あってはならぬ。

 今、青コーナー側の花道を往く、橙色だいだいいろのパンツとシューズが鮮やかに目を惹く。その男はリングネームをマッスル鈴木すずきと云い、本名を鈴木 龍之介すずき りゅうのすけという。本日がデビュー2戦目、正確に数えると覆面レスラーの中身の代打として出た事もあるのだが、マッスル鈴木としては2戦目である試合に向けて、リングを目指していた。

 今年21になる、甘いマスクを持つ美男子であった。


 鈴木は高校時代をラグビー部で過ごし、卒業後O市の土木会社へ就職した。勉強は苦手だったが、真面目な性格をした男だった。そして、少し、ホンの少しだけ、人よりも短気だった。

 就職して暫く、少しアタマの現場監督と、問題を起こした。ある日監督から、「A社から届いたこの資料、難しくてよく分らん。どういう事か目を通してくれないか。」と頼まれた。鈴木は資料を読み、その内容を説明した。その場で監督は「何だ、そんな事か。」と言い、資料を持ち立ち去った。その資料は返答が必要な資料だったのだが、アタマの足りない監督はその部分をすっかり忘れて仕舞しまっていた。

 後日監督から「何故、お前がA社に返答しなかったのか。」と詰問を受けた鈴木は、納得がまるでいかなかった。ぐちぐちと垂れ流される説教をじっと聞き流していたのだが、段々と頭に血が昇り、気が付けば馬鹿ばかの顔面にを一発入れて仕舞しまっていた。

 幸いな事に大事にはされなかったが、鈴木は1年近く勤続した職場に、その不幸な事故の翌日から出勤しなかった。18歳も半ばの頃だった。


 そして、19歳の春頃、偶然拾って読んでいたプロレス雑誌に広告が掲載されていた、それはシン日本プロレスの練習生募集の広告だった。再就職に難儀していた鈴木は、体を動かす仕事なら、オレにも出来できそうだと、書類を送った。

 あっさりと書類審査を通過し、体力テストを受け、練習生として入門し、日々トレーニングに励んだ。稽古をするだけで僅かばかりだが給金が出る事に、感動したのだった。


 そんな日々が1年経ち、とうとうヤングタイガー(デビュー間も無い新人レスラーの事)としてリングに立てるようにったのだ。

 今から、あの水銀灯の照明が照らすリングへ上るのだ。2度目ではあるが、心臓を締め上げる様な緊張が、肉体を縛り付けている。気合を入れていないと、足が止まって仕舞しまいそうだった。


 これから戦う佐々木 功ささき いさおとは、同じ釜の飯を食った、同窓生だ。同じ日に入門した仲間で、これまでずっと一緒にトレーニングを繰り返した。今日の台本に合わせて、何度もリハーサルに付き合わせた。

 デビュー当日の試合は、別の同窓生であるリック村田むらたという男との試合だった。そっちは勝ちを貰えた。逆水平チョップの応酬やムーンサルト等の空中殺法アクロバット披露ひろうしてった。新人同士の試合としては、観客を沸かせた方だろうと自己評価していた。互いに一歩も引かぬ接戦だった筈だ。

 最後は、オレの身体能力を見せたかったから、台本を考えるレフェリーの山本やまもとという先輩に頼み込んで、フランケンシュタイナーを出させて貰った。アクロバティックな戦いはフライ級だけのものではない、という所を見せたかったからだ。リック村田は、綺麗に受けてれた。


 だが今日は、オレが負けてらなければらない。上手く負けてらねばならぬ。上手く負ける、という事はただ喧嘩に勝つよりも、遥かに難しい事だと、鈴木は考えていた。明白あからさまにやられたフリをしてはいけない。ただし、リアクションはキッチリ取らねばらない。こっちも厳しく叩いてらねばらぬ。試合を死合に見せてるのだ。最後のキメはバックドロップだ、精々派手にっ飛んでろう。佐々木はこれ程強いのだと、観客に見せてろう。そして、その佐々木にこれだけ喰らい付いた、鈴木という男もなかなかのヤツだ、と思わせてらねばらぬ。これは大仕事だ。


 鈴木は遂にリングのロープを潜った。中継が入るからか、余計に増やされた照明に肌を痛い程にも照らされた。先日とは様相ようそうの異なるリング周りの様子に、おお、と気を取られていると、不意にカメラのフラッシュが光った。


 写真?

 誰を?

 オレをか?


 戸惑いと同時に、より一層の緊張が走った。体中の筋肉が縮み上がり、カチコチに固まって仕舞しまったかの様に感じた。この、バクバクとうるさい心臓を止める為にそうしているのだ、とせんの無い事を考えてしまった。視線を彷徨さまよわせ、更にリング周りを探っていたが、流石にテレビカメラは稼働していない。少しだけ、ほっと息を付いた。


 小綺麗な顔をしたリングアナが、いよいよ対戦相手である佐々木の名を告げた。気持ちを切り替えねばならぬ、と鈴木は両頬を張った。鋭く走る痛みが、浮ついた意識をシャキと引締ひきしめてくれる様だ。リングアナが佐々木の名を告げた瞬間、照明が消えた。花道の先にある扉が、急遽設置されたスポットライトに照らされる。鈴木は改めて台本の内容を反芻はんすうし、しっかりと記憶できている事を確認した。


 ふと気が付くと、場内がざわめいていた。派手な入場曲も始まらない。リングアナが佐々木の名を何度も呼びかけている。トラブル発生だ。ふとレフェリーを務める山本に目を向けるが、薄暗い視界に置いても、何となく雰囲気が、何処どこか焦っている様に感じ取れた。折角せっかく落ち着けた鈴木の心が、再びざわめき立った。


 観客のざわめきがどよめきに変わる頃、馴染なじみのテーマソングが流れた。鈴木は更に心臓が跳ね上がる思いだった。このテーマソングはフセイン・相良の入場テーマだった、相良・ボンバ・イエが更に大きくなる、観客のどよめきを消すかのようにボリュームを上げる。


 社長が出るのか?

 何で?

 佐々木はどうした?

 オレは此処に居て良いのか?


 山本に指示を求める視線を向けるが、山本も困惑の表情で花道の先を見つめていた。


 トランペットの勢いるメロディが流れると同時に、赤コーナーの入場口が開け広げられた。赤いジャージの練習生がどっと花道に流れ込み、彼方此方あちらこちらへ散らばって行った。練習生達が散った後、とうとうテーマソングのその人が姿を現した。鈴木も観客もあっ、と驚きの声を上げる事を止められなかった。フセイン相良が登場しただけで、び上がる程驚きなのだが、その顔がボコボコに腫上っていた。鈴木はそれをまるで殴り合いの喧嘩をした痕の様だ、と読み取った。

 ガタガタと気配がする方角へ目を向ければ、いつの間にか機材を揃えた中継機材や実況解説席に人が集まってきていた。一人の練習生が実況のアナウンサーや解説と何かやりとりをしている。なあ、頼むから誰かオレにも情報をれないか、何が起きているか教えて頂戴ちょうだい。そんな想いで連中を睨んでいたが、ついぞ誰もリングの方を見ようとしなかった。


 赤コーナーの花道に視線を戻すと、フセイン相良の後ろに、数人の男達が付いて来ている事に気が付いた。っ事見事に、正真正銘、何処どこに出しても恥ずかしくないヤクザ者達にしか見えなかった。まるで相良の後ろに、銃口が突き付けられているかの様に見えた。

 更に最悪な事に、そのヤクザ者達の内、一人に見覚えがあった。鈴木は所謂いわゆるサラ金で金を借り入れていた。練習生が貰える小遣いでは、満足に遊ぶ程の額に届かなかったのだ。鈴木は金遣いが荒かった為、貯蓄も殆ど無く。小遣いを使い果たし、返す当ても無くサラ金を借り入れ、遊んだ。

 返済が出来ずにいると、家の電話が全自動恐喝音声再生機に変わって仕舞しまった。電話の回線を引っこ抜いて1カ月後、寮の部屋の前に見知らぬ男が立って居た。面倒な気配がしたので、その日は道場の物置に隠れ夜を過ごした。

 相良の後ろを3人の男が歩いていたが、その内の一人がその部屋の前に立って居た男に相違なかった。何故そいつが、此処ここに居るのか。リングから見渡し、目に付く物全てが混乱の原因とってしまった。


 相良がリングに上がると、後ろを付いて来ていた3人の内、2人が一緒にリングへ上がってきた。一人はリング下で帰りの花道をまもるかの様に、フェンス脇に控えた。派手な音楽が止まり、再び照明が着いた。ふと見ると、二人のヤクザ者は土足だった。リングに上がったヤクザの一人は、ちょっと前まで相良への暴行を眺めていた近藤だ。相良がマイクを近藤に渡すと、もう一人のヤクザが相良を突き飛ばし、赤コーナーに押し込んだ。


 「オイ、お前らシン日本、お前らの所為せいで、お前らが貸した金返さへん所為せいで、他の企業サンへの融資が、滞っとるんや。どないしてくれんねん、おう。」


 ドスの利いた、関西弁だった。ヤクザ映画か新喜劇を見ている気分だった。と、言うよりこのヤクザ、マイクパフォーマンスなんて出来るのか。鈴木は大いに驚いた。まるでタレントが演じるヤクザではないか、これは。


 「それに、格闘技界最強だとか、ナンとかのたまっとるけれども、ショーモ無い試合ばっかり繰り返しやがって、何がオモロいんじゃ。そんな子供騙しで、何時いつまで客が付いて来るンじゃ。」


 意味が分からないを通り越し、最早もはやどうにでもなれ、という心地の鈴木はこの近藤の訴える内容に、半分同意して仕舞しまっていた。

 そうだ、プロレスの面白さは、真に最強だとかを競うものではない、どれだけストーリーを演出できるのか、どれだけ派手に盛り上げられるのかを演じる、わばオーケストラ等の演奏なのだ。テーマに沿って演じ、奇想天外に盛り上げ、テーマにもどりフィニッシュを決める。

 そんな競技なのだと理解りかいしていた。それが鈴木の中で、練習を通して練り上げた今のプロレス哲学だった。


 「そんなに強い奴と対戦したいなら、させたるわ。アホみたいなファイトマネーも掛からへん。ワシからのビッグボーナスや。コイツの名は小宇佐こうさ、そうやな、デーモン小宇佐こうさや。コイツは荒事が得意でな、何とか云う空手が使える男や。オイ、お前。マッスル鈴木、お前がコイツと戦え。プロレスラーがどんなもんか、ワシが今日ここで、ハッキリさせたるわ。」


 鈴木はり自分の名前が出た事に、心臓が破裂するかの想いだった。何故なぜ自分の様なヤングタイガーがこんな意味不明な試合に挑まなくてはらないのか。何で自分の様な未熟者がプロレスラーを代表しなくてはらないのか。

 鈴木は勉強は若干じゃっかん苦手だが、真面目だった。納得できなくては働けないのだ。


 「オイ、鈴木。オマエもウチから借金しとるやろ。何時いつ返す心算つもりなんじゃ、ボケェ。」


 痛い所を突く、というより、こんな公衆の面前で、なんて事を言うのだ。まりが悪いどころの騒ぎでは無かった。客席からも、えー、だとか失笑する様な声が耳に届いた。心臓が飛び出すような緊張から、今度は顔面が燃え尽きるかの様な羞恥しゅうちに悶えた。

まるで観客に、オレのはだかを見せているかの様な心地にってしまった。


「ビッグボーナス言うたやろ、この挑戦受けるなら、借金の減額はせーへんけれども、半年間待ったるわ。その間の利子も止めたる。どうや、お前等、受けてみーへんかい。」


 シン日本プロレスにとっても、相良にとっても、鈴木にとっても、この条件は渡りに船だった。プロレスは最強だ、だとか。プロレスは演奏だ、だとか。崇高な想いを持つ二人だったが、本性は借金という首輪に繋がれた畜生ちくしょうでしかなく。思わず相良と鈴木は同時に頷いてしまっていた。


 「よっしゃ、スペシャルマッチ成立や。ほな、社長サン。奥で契約詰めようか。」


 近藤がマイクを意味無くリングに叩きつけ、其処そこから降りて行った。小宇佐と呼ばれたヤクザは、そのまま残っている。黒いスーツ姿の男だった。鋭い視線が恐ろしく、細い顎先を無精髭ぶしょうひげが覆っていた。首を回し、ジャケットを脱ぎ捨てた。ヤる気なのだ、本当に、今此処ここで。人の試合を乗っ取り、この意味の分からない試合を始める心算つもりなのだ。赤コーナーに押し込められていた相良が、前に足を踏み出したと途端とたんにフラ着き、膝をついた。レフェリーを務める山本が、慌てて相良に近づいて行った。鈴木はまるで現実味が無くなっていた。


 リングアナがマイクを拾い上げ、マッスル鈴木のプロフィールを読み上げた。テレビで聞くような、綺麗な声だった。山本がボディチェックに近づいてきた。


 「盛り上げろ、との事だ。社長からだ。」


 山本がボソリ、と鈴木の手元をチェックしながら呟いた。それを聞いて鈴木は、はっとした。腑抜ふぬけてはいられない、試合だ、仕事だ、オレはプロレスをしなくちゃあいけない。盛り上げろ、何だ、その指示は。台本が無くなったのだ。トラブルが発生した現場なのだ。どうすれば良いか分からない、そんな人間に盛り上げろ、だと。色々とした想いが脳裏を巡るが、これだけは解決しなくてはならない。


 「勝つンですか、負けるンですか?」


 ゴールだけは明確にしておかねばらない、そう思っての質問だったが山本は悲しそうな表情をするだけだった。何故そんな表情をするのだ、山本は。


 「さあな、ただオレ個人としては、そうだな、オマエに勝って欲しいとは、願っているがな。」


 こたえている様で返答こたえていない回答こたえだった。背を向け赤コーナーへ向かう山本の背を見て、鈴木は再び、はっとした。山本も聞いていないし、想像出来できぬのだ、展開について。山本は答えられ無いのだ、オレが後輩だから、オレが指示を求める側の人間だから、答えて仕舞しまったらその責任が発生するのだ。そして今回はその責任が、シン日本プロレスを背負った戦いの責任となるのだ、資金が握られた戦いなのだ。恐らく社長である相良でさえ、あのヤクザ者の真意を、聞かされていないのだ。山本に到底答えられる筈が無い質問だったのだ。答えられる位なら、先に教えている筈の内容だったのだ。最早、此処ここに居る誰もが、この現場の設計図を持ってい無いのだ。だが期日はもうすぐ其処そこまで来てしまっている。この現場に来てしまった者達で、何とかしなくてはらぬのだ。途端にこの四角いジャングルが、コンクリートジャングルに錯覚した。これが社会だと、鈴木は思った。答えを持たない社長、支持が出せない上司、不明瞭な目的。それらは何ら変哲へんてつもなく、この世の中に溢れかえっている日常なのだ。有能な者なんぞ、明確な正解を知る者なんぞ、居ないのだ。何処どこにも。


 赤コーナーの小宇佐のボディチェックが行われている中、解説席から声が聞こえてきた。この試合は、中継されるのか。さっきのヤクザのマイクパフォーマンスは、何卒なにとぞカットして欲しいものだ。鈴木はゲンナリしてしまった。小宇佐はスーツのジャケットだけ脱ぎ。ネクタイは絞めたままで、シャツとスラックスで戦う心算つもりの様だ。


 「空手の競技者というものはですね、もし本当ならですけど、部位鍛錬ぶいたんれんという物をやっているンですよ。拳や足を、こう、硬い物に打ち付けて、筋肉を破壊して、もっと固い筋肉を作っているンですよ。頭とかもそうしてるンじゃあないかな。肉が潰れて、ぶよぶよになるンですけれども、その後でぐっと、固くなるンですね。レスラーがキツいトレーニングで体力を作るのと同じで、彼らはキツいトレーニングで防御と攻撃力を高めているンですね。それを真っ向から打ち合うなンて、そりゃあね、危険ですよ。もうこれはね、絶対に打ち合いに付き合っちゃあいけない。これ、ルールとかってどうってるンですか?」


 解説席に座っているのは、組織の幹部であり、プロレスのずっと先輩でもある、斎藤さいとうという男だった。鈴木は解説の声を聞いて三度みたび衝撃を感じた。これは、オレに話してれているのだ。相手の事を教えてれているのだ。全身凶器だから、真っ向から打ち合うな、と警告してれているのだ。この指示も設計図も無い現場で、力を合わせて完成させ様と、協力してれているのだ。

 アナウンサーがデーモン小宇佐とコールし後、リングを降りて行った。もう始まる、この狂気の演目を熟さなければならない。焦りがあった。恐怖があった。だがそれ以上に、鈴木の持ち前の真面目さが、観客にプロレスを見せてらねばらぬと、レスラーとしての自意識を呼び覚まさせた。そう思うと、この試合を滅茶苦茶にした小宇佐が憎くてたまらなくなった。メラメラと暗い火の様な闘志が目に灯った。


 カーン、とゴングの音が聞こえた。小宇佐が迷いなくコーナーを離れ、真っ直ぐに鈴木へ向かってきた。重心を落とし、凶器と云われた拳を構えている、捕足つかまる、あっという間に射程圏内だ。コーナーを背負うのは不利過ぎると左回りに動いたのだが、お陰で射程が詰まった。鈴木は小宇佐が本気で殴り掛かって来ようとしているのか、それともプロレスを行う心算つもりなのか、真意を知りたいと思った。一発、受けてみるのも良いかも知れない。そう思った矢先だった。

 小宇佐の途轍とてつも無く早い突きが、鈴木の胸目掛けて打ち込まれた。前屈みになり、手を顔と胸の前に突き出したレスリングの構えを取っていた事が幸いした。とっさに振ったてのひらが、何とか着弾に間に合い弾く事に成功した。差し込んだが、まるで氷の池に突っ込んだかの様にヒリヒリと痛んだ。感覚を喪失していた。まるで手首から先が失くなって仕舞しまったかの様に錯覚した。人の拳とは思えぬ程の、硬さだった。まるで鉄の塊だ。


 鈴木は内心舌打ちした。コイツはマジで殴り掛かって来やがった。ホンキでオレを殴り倒す心算つもりなのだ。鈴木にわせれば、プロレスとは演奏なのだ。ただ一人、デカい音を出せば良いという訳では無いのだ、周りの演奏に合わせて大きくしたり、小さくしたり、激しくしたり、穏やかにしたり、様々な変化が必要とされるのだ。この一撃が、まるで他人に合わせる気が無い、という風に分析出来た。

 フセイン相良は、箒が相手であってもプロレスをれる。そう練習生に教えていた。そして、それを実践し証明し続けて来たのだ。しかし、と鈴木は思う。箒は協力する事こそ無いが、反抗する事は決して無いのだ。コイツはオレの打撃を受ける気がるのか、と心の中で問い掛ける。無い、る訳が無い。

 さあ、これは大変な現場だ。無能であれば良かったのだが、この設計図の無い現場に、人に反抗する思想を持つ、異物が紛れ込んで来たのだ。主要な役割を持つが、現場に反抗的な人物が配置されていたのだ。

 鈴木の肌に、冷たい粘液の様な汗が噴き出した。


 山本は今の一撃目で、相良が何故なぜ盛り上げろ、と一言しか残さなかったのか理解わかった。

 多くの異種格闘技戦ミクスドマッチを通じ、その経験から理解っていたのだ。

 これは、無理だ、とても。

 恐ろしくって仕舞しまった。

 競技で表現したい本質ものが、余りにも違い過ぎる。

 小宇佐の表現しているものは、一撃必殺だ。

 拳で硬い物を破砕し、仕留しとめる、そんな技術を磨いて来たのだ。

 プロレスとは、まるで異質なものなのだ。

 また、鈴木が格闘技経験者では無い事も、今の攻防で理解わかって仕舞しまった。

 そうえば、鈴木はラグビー出身だったか。

 書類審査の写真を見て、プロレス映えしそうな肉体だなと皆で盛り上がっていた気がする。

 オレが試合をちゃんと止めてらねば、鈴木が壊されて仕舞しまう。

 かつて無い緊張感を持って、レフェリーの役目に挑むのだった。


 一方、小宇佐は先程の突きが、防がれてしまった事に驚いていた。肋骨を圧し折って、血反吐を吐かせてやる心算つもりだった。一撃必殺の心算つもりで打ったのだ。

 小宇佐は腰を落とした姿勢を取っていたが、少し距離を取ると背を伸ばした。拳を胸の前に構え、左右に重心を揺らし、足と拳を左右前後入れ替え続け、何が何時いつ飛んで来るのか、分からなくしてった。鈴木が左足でのローキックを繰り出してきたが、牽制を貰って心算つもりは無かった。あまり力が入っていなかった空振りした左足は、素早く引き戻されるのだが、小宇佐の反撃は更に素早かった。不安定な重心の鈴木の水月みぞおち目掛けて、ステップによる加速を加えた爪先蹴りをれてった。鈴木のローキックを放った後の姿勢が、くの字に折れ曲がった。


 観客達の息を呑む音が、聞こえて来るかの様だった。鈴木は、このローキックに合わせて繰出されて来るであろう反撃を、元々受ける心算つもりでいたのだ。

 観客は格闘技の試合を見に来たのでは無く、プロレスを期待して来ているのだ。要らぬ攻撃を受けてらねばら無いのだ。覚悟はしていたが、途轍とてつも無い反撃だった。オレの未来の事など、微塵みじんも考慮していない攻撃だった。下手に喰らってしまうと、一撃でお仕舞しまいだ。

 派手に転倒する心算つもりで、わざと倒れ込める様に身体を浮かせていたのだが、それが功を制した。


 槍や刀の様な鋭さだった。それが鞭の様なしなやかさで、弾丸の様な速さで飛んで来る。


 オレの意識はまだハッキリとしている。今にもゲロを吐きそうな不快感だが、身体の操作はちゃんと出来ている。鈴木は蹴りを貰うと同時に派手に吹っ飛び、そのままリング下まで転げ落ちて見せた。リングの下で寝転がり、先程のダメージを回復させるべく、大きく深呼吸を繰り返した。一つ、二つ、三つ。不快感をはらの底へ押し込み、体を持ち上げてリング上の様子を探ると、いぶかし気な表情をした小宇佐と目が合った。


 一撃必殺の三日月蹴みかづきげりを真面マトモに喰らった相手が、起き上がった。

 そう云えば、蹴った感触に違和感があった。


 小宇佐は、グラグラと腸が煮え返る思いになった。フセイン相良を仕留しとめられなかった事も、彼にとっては誤算だったのだ。近藤は見抜いていた様だが、小宇佐はプロレスラーの肉体なんか、只の見掛け倒しだと思っていた。

 自分の様に、あの異様な部位鍛錬なんぞしていない筋肉に、闘争は不可能だと思っていた。生温いトレーニングの産物だと馬鹿にしていた。体力尽きるまで蹴り込む必要なんて無いと思っていたのだが、結局最後まで蹴り続ける事になったのだ。


 エプロンに這い上り、ロープに手を掛けた鈴木に対し、ロープとロープの隙間を狙い、今度は後ろ回し蹴りをれてった。リング中央のエプロンからじ登っていた鈴木は、その蹴りを腹に受けてエプロンサイドの鉄柱までっ飛び、再度転げ落ちた。したたかに鉄柱に打ち付けられたのか、リング下でのた打ち回っている姿が見えた。


 巫山戯フザケているのか。


 激しい怒りが、小宇佐を支配した。一流の空手家が受けても、骨折や内臓への損傷が逃れられ無い、タイミングと威力だった筈だ。

 のた打ち回る何て余裕がある筈が無いのだ、この打撃を受けて。


 またしても、何かられているのだ。

 オレの知らない、打撃を和らげる何かを遣っているに相違そういない。


 ――蹴り込んだ衝撃が、軽く感じられた。


 ワザと受けているとでもうのか。

 一つでも貰うと、再起出来なくなる打撃を。

 オレの打撃なら、耐えられるとでもうのか。

 幾人もの先生を気取ったクズを、仕留しとめ続けてきた打撃を。


 リング下で四つん這いに体を起こした鈴木は、止まらない汗と涙に顔をぐしゃぐしゃにしていた。胸に鈍痛があった。折れたのだ、今の一撃で。畜生と一言吐き出し、苦痛をはらの底へ沈める。

 先ほどリング下に降りて来ない小宇佐を見て、悩んだのだ。リングへ大人しく戻してはれないだろうと。来るならロープ超しに仕掛けて来るだろうと。

 また派手に飛んで、リング下に回避するしか無いと踏んでいた。だが、代償が大きかった。

 次の展開はどうする。山本のゆっくりとしたカウントが耳に入ってきた。くそう、そろそろ上がらなければならない。

 3発貰ってったのだ。そろそろオレにも手を廻してれよ。そう願いながら再度、エプロンに這い上がるのだった。


 小宇佐は、リングにじ登る鈴木を冷静に観察していた。ここまでめられていて、我慢出来できなくなっていた。弱り切った姿でロープに手を掛ける鈴木を首から抱き抱え、容赦の無く拳を顳顬テンプルれてった。鼻筋に思いっ切り拳を打ち込んでった。ぐちっ、と軟骨が潰れる音と感触がした。小宇佐はようやく、真面マトモに攻撃が通ったと何となく思った。

 その瞬間、自分の体が浮き上がっている事に気が付いた。視界の上に、リングが見えた。唖然あぜんとする山本の姿も捉えられた。


 ――仕舞しまった。


 馬鹿ばかが、控室の一室でモニターを眺めていた近藤は、そう言って煙草に火を付けた。証文の内容に、目を血走らせ、食入る様に確認していた相良は、何のことです?と顔を上げモニターを見た。そして、あっと声を上げた。鈴木が小宇佐を無理やり抱え上げ、リングの外へ己の身体毎、放り投げる姿が映し出されていた。

 小宇佐はプロレスを知らなかったのか。ロープ越しでの揉み合いなど、場外ブレーンバスターをってれと言っている様なものではないか。それにしても、無理矢理引っこ抜いたナア。アレ、死んだンじゃネ?

 近藤は、まるで他人事の様にそう思った。


 鈴木は又しても、リング下で仰向けに倒れていた。止まらない鼻血が、口の中に溜まって仕舞しまって、たまらず起き上がりれを吐き出した。そして、何があったか思い出した。オレは顔面に一撃、とてもを貰って仕舞しまった。そして、嗚呼、何時もの様にキレて、腹癒はらいせに投げてったのだった。そして、今迄で感じた、どの冷たさよりも冷たい冷汗を流した。嗚呼、って仕舞しまった。脳天から落として仕舞しまっていたら、ただでは済まぬ。絶命さえ在り得る。自分自身も受け身を取れていなかった。蓄積したれ迄のダメージが思いの外重い。引摺ひきずる思いで体を持ち上げた。

 見ると小宇佐もゆっくりと起き上がろうと藻掻もがいていた。鈴木は心の底から、安堵の溜息を止まらない鼻血と共に吐き出した。


 遠くから大勢の人々の歓声が聞えて来た。寝ていたのか、意識が曖昧だ。気が付けば何処かの体育館の天井か、眩い照明が眼球を照らした。

 小宇佐は一瞬、何故なぜ自分がるのか理解が追い付かなかった。歓声が急に間近に感じ取れた。観客の存在を認知したと同時に、急激に意識を取り戻した。

 試合だ。オレはプロレスラーに投げられて仕舞しまったのだ。起き上がらねば。身体を起こそうと力を込めた瞬間、首から背に掛けて、鋭い痛みが走った。そして、力が抜けて仕舞しまった。


 脊椎損傷。


 小宇佐は脳裏に、そんな言葉が過った。必死の思いで身体を何とか四つん這いに起こし、顔を上げると、其処そこには鼻血をダラダラと垂らし、肩で息をする鈴木がたたずんでいた。


 鈴木は身体を起き上がらせようと、ジタジタ藻掻もがく小宇佐にゆっくりと近づいた。山本は相変わらずゆっくりと場外カウントを進めている。チラっと見てると、リングに戻れ、と手で合図を出していた。もう十分だ、と言っているのだ。鈴木は暫し考え込むと、首を左右に振った。盛り上げろ、と相良は言っていた。まだ開始2分か其処そこらだろう。せめて、5分、否6分は欲しい。たとえ、最終的に小宇佐の打撃を受けて沈むとしても、これでお仕舞しまいにして、観客が満足するとは思えなかった。鈴木は真面目だったのだ、融通が利かない程に。


 鈴木は這蹲はいつくばる小宇佐の髪を掴み上げ、無理矢理起き上がらせた。ぐう、と呻く様な声が聞こえ、ゆっくりと起き上がった。


 何だコイツ、意外と素直に起きるンだな。


 立ち上がると同時に小宇佐の腕を引っ張り、思いっ切りコーナーサイドの鉄柱に頭を打ち付けてった。顔面からの激突は避けるだろうと想像していた鈴木だが、小宇佐は思いっきり顔面から鉄柱に突っ込んだ。バアン、と凄まじい音が響き渡った。鈴木は小宇佐の様子が可笑しい事に、この時点でようやく気が付いた。

 場外のカウントが20に迫りつつあったので、慌ててぐったりとしている小宇佐をリング上に放り投げた。


 小宇佐はリングの上に戻され、大きな深呼吸を繰り返していた。腕を引っ張られた瞬間、背から首に掛けて再度鋭い痛みが走り、体が硬直してしまった。勢い付いて投げられた身体が制御出来ずに、鉄柱に額から顔面へ打ち付けられて仕舞しまった。ダメージの回復、というよりもこの痛みの制御に努めていた。

 深呼吸を繰り返す。一つ、二つ、ジンジンと響く痛みに熱を感じる。三つ、四つ。鼓動に合わせて全身が痛む。五つ、六つ。体に力を入れると痺れと痛みが走る。七つ、八つ。

 身体をうつぶせにし、尻を突き出し思いっ切り背を伸ばした。腰に鋭い痛みが走った。畜生、と言い背骨を腰に向けて動かした。今度は痛みはあるが、少し心地良かった。そして今度は首に向けてズラす様に動かした。脊髄を伸ばし、元の位置へ操作しているのだ。ジクジクと痛み、力を籠めると硬直する様な痺れが走るが、これで何とか起き上がれそうだった。


 鈴木がリングの中へ戻ると、小宇佐も身体を起こした所であった。腰を落とし、拳を顔面の前に構えている姿が目に入った。最初見せた、左右前後に揺れる動きは無かった。


 殴り合いが望みか。


 鈴木は察すると、少し前屈みになり、右手を首にあて真っ直ぐに小宇佐に向けて伸ばした。そして左手は顔の側面を守る様に構えた。奇妙な構えだった。

 鈴木が咄嗟に考えた構えだった。伸ばした右腕が、相手との距離を常に計測していた。小宇佐の腕の長さは、鈴木よりホンの2㎝程長いと分析していた。この腕の先2㎝に相手がいたら、射程距離なのだ。

 もし蹴りが飛んで来たら、丸めた上半身で腕を畳むと、正中線上の攻撃を素早く防ぐ。そして構えた両腕が頭部の側面を防ぐのだ。

 プロレスラーの稽古を始めて、拳で殴り合う事なんて一度も無かった。そもそも反則なのだ、拳で殴る行為は。余りにも危険だから。


 二人の距離が少しずつ縮まる。お互い摺り足気味に、ゆっくりと距離を測っていた。観客は初めて見る事になるであろう、素手での殴り合いに期待し、興奮していた。鈴木は、この期待には応えてやらねばなるまい、と思った。

 湧き上がる観客の歓びを、五体で感じていた。

 その歓びこそ、鈴木の悦びにっていった。


 プロレスラーのオレが殴り合いをするのか。

 オレに殴り合いでなら勝てると言いたいのか。


 しっ、という声と共に小宇佐の右フックが飛んできた、頭部をカバーしている左腕が被弾した。ジンワリと、防御の上であっても鈍い痛みが残った。

 右を打つと同時に左側面に回り込まれていた。脇腹を打たれては敵わぬと、正面に小宇佐を捉えた。それと同時に次は左のストレートが顔面に向かって飛んできた。


 ホントに、早いな。


 打たれた痛みはあるが、操作に問題は無い、ギリギリで左の掌底しょうていで弾いてった。


 反撃に、伸ばした右腕で軽く顔面を打ってろうとした。

 すると、すっと上体を反らし、射程外に逃げられた。


 上手ウマいな。


 しかし、攻撃を避けた筈の小宇佐は苦悶の表情を浮かべていた。


 反射的に上体を反らした小宇佐は、電撃の様に走る腰の痛みと痺れに顔をしかめた。先程、何とか動ける様に脊椎周りの筋肉をストレッチしたのだが、これは駄目だ。ちゃんとした治療と療養が必要だ。理解わかってはいたが、回避行動が取れる状態では無かった。

 わざわざ正中線を相手に向ける様な、格闘音痴とも云える様な相手に追い詰められている。その事実に、口惜くちおしさで奥歯を噛み砕く様な思いだった。


 糞、こんな奴に。


 右半身を前に出し、突きを繰り出して遣ったら左腕のガードに突き刺さった。


 ドン臭い奴だ。


 身体を水平に移動させ、ステップと同時に左半身を相手に向け同じ場所を突いてやった。すっトロい拳が繰り出されて来たが、半身と軸足を入れ替える事で回避した。


 バカが、棒立ちで繰り出す拳なんぞに、当たる訳が無いだろう。


 ガードの上だろうと、何度も打ちのめしてった。顔面も、頭頂部にも何度かクリーンヒットが入った。その度に額が切れた。鉄拳が肉を裂いた。構えている重心がどんどんと沈んで行った。そんな鈴木の様子とは裏腹に、観客は嘗てない凄惨な試合に、どんどんと興奮のボルテージは上がっていった。


 どうした、効いているのか。

 足元がフラフラしているじゃあないか。

 視線も遠くなっているぞ。

 反撃に勢いが無いな。

 ホレ、また顔面がガラ空きだ。

 なんだ、見当違いの方角に構えているぞ。

 ホントに、オレの姿が見えているのか。


 小宇佐の右ストレートが顔面に突き刺さり、鈴木の重心が揺らいだ。

 その時、遂に鈴木のガードがダラリと下がって仕舞しまった。

 両腕で死守していた側頭部が露出した。


 観客が悲鳴にも似た歓声を上げている。

 実況席ではアナウンサーが鈴木のピンチを懸命に訴えている。

 斎藤が解説席から人目もはばからず、足を動かせと鈴木に向かい叫んでいる。


 思った以上に、体力の消耗が激しい。

 汗を吸い込んだシャツが重しにっている。

 酸素が足りない。

 せめてネクタイだけでも外してくべきだった。

 脊椎を庇って余計な体力を消耗している。

 早くめなければ、危ない。

 ここ等で、止めをれてろう。


 鈴木の朦朧もうろうとした瞳に、小宇佐の冷たい視線が付き刺さった。その瞬間、鈴木は自分の頭が小宇佐の後ろ回し蹴りで、吹っ飛ばされる姿を幻視した。

 そこでようやく自分の状態に気が付いたのだ。だから、慌ててガードを顔面に上げた。


 バカが。


 その瞬間に小宇佐の爪先が、再度鈴木の水月みぞおちに突き刺さった。

 まるで水風船を蹴り飛ばしたかの様な、感触だった。

 鈴木は吹っ飛ばず、うずくまる様に頭からマットに沈んだ。


 同時に客席や解説席から、悲鳴の様な歓声が沸き上がった。


 ほぼ一方的に打ち続けていた小宇佐は天井の照明を見上げ、吹き出し続ける汗が目に入らぬ様に努めていた。最早、顔を拭う体力さえ無いのだ。呼吸が荒かった、満足に酸素が取り込めていない。

 そんな中、無理して蹴りを繰り出したのだ。姿勢も無理があった、腰や背が悲鳴を上げている。人目が無ければ、うずくまり、寝転がっていたかも知れぬ。


 山本ののんびりとしたダウンカウントが8を刻んだ。通常プロレスの試合で、ダウンカウントを取る事は無いのだが、山本が鈴木の為に機転をかせてっているのだ。

 カウントを取れば、この状態の鈴木への追撃を防ぐ事が出来できると考えたからだ。


 小宇佐は、この僅か2-3分の間で、プロレスラーのタフさを認めていた。


 今の自分の拳では、鈴木の頭部を打ち据えても仕留しとめ切れないだろう、と。また、この状態コンディションでは後ろ回し蹴りの様に大きく背中を捩る攻撃は、きっと出せない。だからこそ、今一度の三日月蹴みかづきげりだった。同じ程度の体格であれば、普通れを受けて、即KOしない筈が無い、必殺技だ。


 小宇佐は、この僅か2-3分の間で、プロレスラーの頑強タフさを理解出来りかいできなかった。


 ようやく汗を拭う程度には回復できた小宇佐の前に、既に起き上がり構えてしまっている、鈴木の姿があった。


 鈴木は込み上げる吐瀉物げろと激しい痛みをはらの底へ押し込み、起き上がった。視界には泣きそうな表情かおでカウントを唱える山本の姿があった。そして、肩で息をする小宇佐の姿があった。


 ってれたな。

 山本サン、そんな表情かおするなよ。

 小宇佐、お前の見せ場は、ちゃんと作ってったぞ。

 今度はオレの番で良いよな。

 思いっ切り蹴り込みやがって。

 良いよな、オレも打って。

 オマエがってれた様に、って見せれば良いンだろ?

 こんな感じで構えていたか。

 こう、上半身を傾けて、こうだ。

 成程、人体の急所の正中線を隠しているのか。

 いやらしい事を考える奴だ。

 上半身の傾けて、左右で替えてると。

 はあ、右と左が瞬間的に入れ替わる。

 何処に打ち返せば良いか理解からなかったが、こうう事か。

 上手うまい事考えるモンだ。

 そして、軸足の位置を替えて、何時でも前後に上半身の位置が替わる。

 成程、成程。

 これは射程距離が、理解からないワケだ。

 来いよ、ヤクザ。

 盛り上がるだろ、こういうのも。

 早く構えろ、どうした。

 まさか、ホンの5分の殴り合いで、体力が切れたのか。

 オレ達レスラーは、30分でも60分でも戦えるぞ。


 小宇佐は視界が黒く染まっている中、鈴木の打撃をモロに受けっ飛んでいた。酸素が脳に届いていない。目から入る映像が、色彩を失い、黒く染まり、途切れ途切れに知覚していた。


 なかなかどうして、構えが出来デキて来てるじゃあないか。

 だけど、まだまだ、拳にスピードが無いな。

 ああ、そうか、これフェイントか、で、左右が入れ替わって、ナルホド。

 何時もなら防げるンだけどね、今日は無理そうだ。

 腕持ち上げようとするとサ、首に電流が走ってね、硬直しちゃうンだよ。

 結構利くね、そのパンチ。

 脳が揺れたよ、吐き気が凄い。

 首も動かしちゃダメなンだって、仰け反っちゃったじゃあないか。

 振りかぶって顔面にパンチか、プロレスラーのクセに。

 嗚呼、違う、違う、そうじゃあ無い。

 そんなに力ンじゃってサ。

 筋肉で殴るンじゃあ、無い。

 拳は飛ばすンだヨ。

 筋肉は拳を投げる工程で、使えば良いンだヨ。

 そんなに筋肉を発達させる必要なんて無いンだヨ。

 マア、貰っちゃうンだけどね、ガードする気力も体力も無いしサ。

 嗚呼、そのハイキックは良いね。

 マア、オレ程では無いけれふぉ。

 アレ、いまなにシてた??

 こいつのなは、まっするしゅずゅき?

 へんななまえのやつだ。

 しかいがぐにゃぐにゃゆれてじめんがなくなったジョ。

 そうそう、ロープにフってね、ぷろれすみたいにれ。

 あれおれそういえばきょうわおおさk


 鈴木の鮮やかなドロップキックが、小宇佐の顔面に突き刺さった。反動で再びロープへ戻されるが、緩やかな張力に弾かれマットに投げ出された。

 サンドバッグと化した小宇佐に、最早もはや試合を続ける事が出来ぬだろうと、鈴木は体固めでフォールを抑え3カウントを奪い勝利した。

 小宇佐の水月みぞおちへの蹴りは、正直肝が冷えた。頭部への打撃を警戒していた鈴木は、腹筋を固めていなかった。鈴木本人は気付かなかったが、固めていない腹筋だったから、衝撃が綺麗に抜けたのだ。小宇佐の蹴りが正直に美しい蹴りだったから、衝撃がまるで波紋の様に、しなやかな腹筋に大胸筋に広がっていったのだ。

 小宇佐が不要と断じて捨てていた、大きくそして柔軟な筋肉があったからこそ。鈴木は九死に一生を得たのだった。

 山本に拳を上げられ、リングアナにマッスル鈴木の名前が告げられた。観客からはマッスル鈴木の名前が叫ばれ、時折金返せよ、等とヤジも飛び交い、暖かな熱気に祝福された。


 一方、相良の控室で、相良は恐る恐る近藤の顔色をうかがっていた。あのクソ忌々しいゴミヤクザを仕留めたのは個人的に会心の祝福を与えてりたい所だが、近藤の機嫌だけは損ねたくない。あの、近藤サン、どんなもんでしょうか、こんな結末になりましたけれど、マア、マア、盛り上がったンじゃあ無いでしょうか、へへへ。

 それは、燃える商魂ことフセイン相良の、普段のリング上では考えられない卑屈な態度だった。

 金は変えてしまうのだ。人間の本質を。否、暴き出してしまうのだ、人間の本性を。ぶら下げられた金の魅力に、抗う事など出来やしないのだ。特に金銭での窮地に追い込まれた人間にとって。麻薬依存症の廃人に、マリファナをチラつかせる様なモノなのだ。

 近藤はそんな相良に目をれてる事も無く、また来るわ、証文は若いのに渡してれや、とだけ言い放ち部屋を出て行った。相良はきょとんとその姿を見送った。これは、良かった、という事なのかしらん。ぽりぽりと後ろ頭を搔き、再度証文に目をると一文、書き加えられている事に気が付いた。


 尚、乙が甲に望む場合、甲はリングネームマッスル鈴木こと鈴木 龍之介を、止むを得ない場合を除き、何時でも貸し与える事とする。


 フセイン相良は、「フーン、マア良っか」と、軽い筆で同意の署名をしたのだった。

 オレじゃねーしな。

 そういう男だった。

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