6.「き」?
冷蔵庫から浄水ポットを取り出し、コップに注ぐ。水を口に含めると硬さを感じる。そろそろフィルターの換え時かもしれない。
ドライヤーの音が聞こえだしてから、5分以上が経つ。ブリーチで傷んだ髪は丁寧なケアが必要なのだろうか。髪を染めたことのない陽斗にはわからない。常備してあるリンスは薬局で購入した安物で、
突然の居候を疎みながら、何を中途半端に気遣っているんだろう?己の中途半端さに呆れ、シンクで一人ため息をついた。
ドライヤーの音が止んで、浴室の戸が開いた。
「風呂ありがとー。いい湯だったわ」
「湯を張ってねえだろ…」
「ウケる」
軽口に苛立つことももう無い。
「ん、どした?」
「尾根田、着替え渡してなかった。ちょっと待って」
「ありがとなー。上だけでいいよ」
「冷房寒いだろ。下も履いとけ」
「えー、俺寝るときはパンイチ派なんだけど」
桜太朗の眉が下がる。
陽斗は二の句を告げられなくなった。どんな理屈で説得すれば不自然でないのか、咄嗟に判断できない。
昔からそうだ。嘘や隠し事が苦手で、表情にそのまま出てしまう。
陽斗が戸惑ったままでいると、桜太朗は納得した様子で相槌を打った。
「パンイチの男がベッドに乗るの、きたねーもんな。ごめんごめん、自嘲するわ」
桜太朗が笑いながら陽斗の背中を叩く。
否定する先の言葉を思いつかず、「ああ」と曖昧に頷いて、衣装ケースから薄手のシャツとズボンを取り出す。
手渡す際に、否応なしに桜太朗の姿が視界に入る。
程よく引き締まった腹。胸元のそれは色素が薄い。滑らかな首。ワックスが落ちて、目元まで垂れる柔らかな前髪。
「そんなに見んなよ」
桜太朗は頭を掻いた。
「…別に見てねえよ」
陽斗は目を見ずに答える。
桜太朗の人間性自体は不快ではない。話していれば、心地いいと思う瞬間は多い。大学構内で桜太朗を中心に人が集まる理由も納得できる。桜太朗は人に警戒心を抱かせず、近づくことができる。
だからこそ陽斗は、桜太朗と関わる機会を今で最後にしたいと思っている。善良な人間を、自身の不器用さで遠ざけてしまうことが情けなかった。
桜太朗も、同性のルームメイトから性的に見られていると知れば、いい気はしないはずだ。陽斗にとっても面倒ごととなるに違いない。
「ん、借りるな」
桜太朗は差し出された着替えを身に着けた。
「そんじゃー寝るか。陽斗は明日何時に起きるの?」
「8時くらいかな。昼から出かける」
「おっけー、そんときに一緒に出てくね。2日も泊めてくれてマジで助かったわ」
「無理矢理だったろうが」
「たしかに」
陽斗は桜太朗から渡されたスマホに充電コードを挿してパソコンに繋いだ。スマホの画面が反応する。表示された時刻は2時を過ぎていた。
「失礼しまーす」
桜太朗がベッドに勢いよく倒れ込んだ。
「陽斗、電気消してくれる?」
「寝る準備するから待ってろ」
「準備?」
陽斗はベッドの下から、あるものが入った袋を取り出した。昨日使用したばかりで、すぐ取り出せるところに置いたままだった。
「なにそれ?」
「アウトドア用のマット。空気入れたら膨らむ」
桜太朗は目を丸くした。
「え、それで寝るの?もしかして、昨日も陽斗は床で寝て、俺だけベッドで一人グースカピーだったの?」
陽斗が頷く。桜太朗は項垂れながら、声のトーンを落としていく。
「待って。俺、ちょー図々しいじゃん…」
図々しいと感じる点がどこかズレていないだろうか。陽斗が呆れていると、桜太朗が提案を持ち掛けた。
「つーか一緒に寝ればいいじゃん。奥詰めるから、ほら」
桜太朗は壁側に寄り、空いたスペースを指して誘導する。
「暑いから無理」
「冷房強めればいいよ。早く来いって」
陽斗は床に置いてあるクッションを掴み、桜太朗に向かって投げつけた。受け止めきれず、顔面に直撃する。
「うるせえ黙れ、死ね」
「陽斗がキレた…」
思考が眠気に飲まれて働かず、思いついた罵倒をそのままぶつけた。
落ち込む桜太朗を尻目に、アウトドアマットを膨らませる。慣れた手つきだった。桜太朗はその所作をじっと見つめる。
「陽斗ってもしかして、結構キャンプとかする人?」
「…一応」
「えっ。めちゃくちゃ良いじゃん!なんで早く言ってくんねーの、めっちゃ良い趣味じゃん」
「もう寝る。おやすみ」
会話を遮るように照明を落とした。
アウトドアの趣味は、陽斗を構成する内の大きな一つだった。桜太朗になるべく関わってほしくない。心に踏み込まれる隙を作りたくない。
程々の寝心地のマットに寝転がり、目を瞑った。呼吸を整えて、桜太朗から意識を離す。
「陽斗ってさ、なんだかんだ世話焼きだよなー」
だが桜太朗は、返事を返さない陽斗に話しかけ続ける。
「あんま話したことなかった俺のこと助けてくれてるし。すげー助かってるよ。でも、なーんか俺との間に壁作ってるよな?踏み込もうとすると、後ずさるっていうか。それは別によくってさ、だって関係まだ浅いしな」
お前の自分勝手のせいだろうが、と心の中で毒づいた。
「じゃあそもそもなんで、潰れてる俺を持って帰ったりしたのかなーって。絶対面倒なことになるの、わかるじゃん。
イイヤツ過ぎー…」
最後の言葉が、心に引っかかる。桜太朗を助けた理由は、自分がイイヤツだから、などではない。
「……違う」
そのとき風で窓が鳴り、陽斗の小さな呟きは、その音にかき消された。
「助けてくれてありがとなー。おやすみ……」
昨日は、閉店時刻の2時までのシフトだった。家に帰ると、アパートの階段を登る途中で桜太朗が倒れていて、深い寝息を立てていたため酔っぱらっているのはすぐに分かった。
陽斗はそのまま通り過ぎようとした。必要以上に絡んで、面倒ごとを増やしたくないから。
足元に転がる桜太朗を避けようとしたとき、桜太朗の寝息が止まった。彼はくぐもった声で唸り、小さく口を開いた。
「……きぃ……」
「は?」
「んん………きー……」
“き”?
陽斗はしゃがみこみ、桜太朗の口元に耳を近づける。だが桜太朗はそれきり言葉を発することはなかった。
その際、至近距離で桜太朗の顔を見て、陽斗はぎょっとした。
桜太朗はボロボロに泣き腫らしていた。
考えるより先に手が動いた。桜太朗の肩を叩いて目覚めさせようとするが、唸るばかりで起きる気配がない。数分後、陽斗は焦れて部屋に戻り、荷物をドアストッパーの代わりに置いて、階段にへばりつく桜太朗を自宅に担ぎ入れた。
未だ半分寝たままの桜太朗の服を無理矢理引き剝がし、自分のシャツを着せてベッドに寝かせた。湯を絞ったタオルで彼の顔を拭う。桜太朗は再び、深い寝息を立て始めた。
俺は何をしているんだろう、と思った。
イイワケ。 ボンファイア @canta_bonfire
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